第4話「命の尽きるとき」

Episode: 04-01 三十八度五分

「――へっくしょんっ!」


 寒いのに、暑い。


 身体を温めるために厚着すると、死にそうなくらい蒸し暑くて苦しくなる。

 夏場に引く風邪は最悪だ。

 求めることと、必要なことが、まったく一致しない。

 身体を温める必要があるのに、涼が欲しくてたまらない。


「おぅぅうううううぅ」


 身体が震えて、唸る。

 諦めて布団を被って、耐える。

 さっき薬を飲んだ。だから、じきに眠くなるはずだ。

 そうすれば、この苦しみから解放される。

 風邪を引いた理由は、明白だった。


 あの日だ。

 八月十八日だった。


 豪雨に晒されて、エアコンのきいた病院内で身体を冷やした。


*


 ――長い時間をかけて、幸の容態は安定した。

 一度は停まった心臓を、医者は諦めずに蘇生させてくれた。

 俺も輸血をしたのだったか、よく覚えていない。


 母は、幸と会話が出来たらしい。

 まだ、俺は面会を許されていない。


 そして、八月二十一日。


 俺は風邪を引いて、こうして寝込んでいる。

 幸の命が助かって、ほっとしたのか。

 健康だけがとりえだったから、体調を崩すなんて数年ぶりのことだ。


 体温、三十八度五分。

 頭痛、喉の痛み、鼻水、悪寒。


 どこから眺めてもカンペキに風邪だった。


「恵君。大丈夫? お腹は空いてない? あ、水飲んでない。だめじゃない、水分取らなきゃ。新しいの、ここに置いておくからね。エアコンちょっと寒くない? これ、パジャマ乾いてたからちゃんと着替えてね。汗かいたままだと治らないから。じゃあ、お母さんもう仕事に行くから、何かあったら電話して」


 母が部屋に入ってきて、手が四本あるのではないかという忙しなさで世話をして出て行く。返事ができなかったが、その必要もないようだ。


 そういえば、母親は俺を殴った記憶がないらしく、俺が腫らした顔を見て『どうしたの!?』とのたまった。慌てて転んでぶつけたのだと思い込んでいる。


 あの日は、みんな冷静じゃなかった。

 家族の全員で話をしても、証言が食い違う。

 それに、季世がいつ、どの段階で姿を消したのか、全く分からなかった。


 ――屋上に、幸と一緒に、女の子はいませんでしたか。


 次に病院へ行ったら、そう訊ねようか。

 まだ迷っている。

 第三者の存在を報せて、自殺未遂騒動を他殺未遂騒動に変えるのは避けたい。

 他の患者に不安を与えるのは忍びないし、何より幸のことで非常に世話になっている病院にこれ以上の迷惑はかけられない。


 風邪の診察を受けに行ったのは、徒歩で行ける近場の内科だ。

 あれからまだ、俺は病院に足を運んでいない。

 駐輪場に、愛車も置き去りになっているはずだ。

 数日も放置しているから、無断駐輪扱いを受けて、撤去されていなければいいのだが――。


*


 眠っているのか、夢見ているのか、それとも考え事をしているのか。

 よく分からない。

 気づけば、窓の外が暗い。だから、きっと眠っていたんだろう。

 ぼーっとする。

 もう三日、寝続けた。


 有意義なことがしたい、と思うと無駄に焦ってしまう。

 バイトにはいつから行けるだろう。

 割の良い緊急案件のメールが流れてきて、いつもだったら絶対に行ったのに、と悔しい思いをした。


 せっかくこんなにじっとしているのだから、本でも読もうか。

 身体を起こして、文庫を開く。

 しばらく読み進めて、気づく。

 文章がまったく頭に入ってこない。ただ活字を眺めているだけだ。

 ――頭が働いていない。


 もうずっと、そうだ。頭なんか働いていない。


 いつが兆候だったのか。何が引き金だったのか。

 幸はどうして、自分を傷つけたのか。

 あるいは、季世が幸を唆したのか。


 ――この部屋に居たんじゃ、何も分からない。

 まだ、幸とも、季世とも、話ができていない。


 焦りばかりが渦巻く。


 スマートフォンをいじって、バックライトが目に染みて、そこから頭痛が広がってきて、吐き気を感じ、目を閉じる。

 結局、ベッドに横になる。


 何も考えられない。

 何もできない。

 もどかしくてたまらない。


 寝すぎて睡眠欲はないのに、寝る以外にできることもない。

 目を閉じて何もせずにごろごろしているうちに、惰性のような眠りに落ちた。


 ――夜中。


 咳が止まらず、目が覚めた。

 喉が痛い。咳が出ると、余計に喉が痛む。

 咳が続くと頭痛が悪化した。寒気を感じて体に布団を巻きつける。

 蒸し暑いのに、どうしてこんなに寒いのか。

 息苦しくて頭がぼーっとする。


 いつ治るんだろう。

 もしかして、もうずっと治らないのか。

 俺も病気になったのか。


 風邪だなんて言われたけれど、親はもう知っているのかもしれない。


 俺も幸と同じになった。


 そうだとしたら、どうしよう。

 嫌だ。怖い。そんなはずない――そう言い切る根拠はどこにもない。

 

 これから少しずつ衰えて、小さくなって、消毒液の匂いのする病室で、ずっと生きていくのかもしれない。どこにも行けず、何もできず、大きな窓から外を眺める。

 どんなにもどかしい時間を過ごしているのだろう。

 幸は、ずっとそうやって生きてきたのか。


 時間が、人生が、零れ落ちていく。


 恐ろしくてたまらない。


 こんなのただの風邪だ。

 幸の病気とは違う。

 もう二、三日で治る。

 幸のほうが、もっと辛い。

 死にたいくらい、辛かったのか。

 でも、幸だって、あんなふうに死ぬのは後悔したはずだ。

 助かってよかった。

 幸が、まだ生きていてよかった。その代わりに、今度は俺が病気になっても構わない。――違う、こんなのただの風邪だ。


 気が弱っているというか。

 気まで病んでいるというか。


 有意義なことが出来ないなら、せめて無意味なこともしたくない。

 考えるのをやめて眠りたいのに、こみ上げる咳がそれを許してくれない。


 結局、じたばたもがいて、明け方ようやく眠りについた。

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