第42話 #ex10 I am your mother !

 高山と桜の結婚式はつつがなく執り行われた。

 香夏子は新郎と新婦の様子を始終笑顔で見守った。結婚式は辺り一面幸せムードで、胎教にも絶対によいはずだと密かに思う。母体の精神状態が胎児にどこまで影響を与えるかはわからないが、母親が落ち込んでいるよりは、幸せな気持ちでいるほうが子どもにとっても心地よいはずだ。

 そして向かい側に座る秀司と湊の姿が目に入ると、香夏子の頬は更に緩んだ。

(うん。なかなかいい感じ)

 二人はベタベタするわけでもなく、あのお見合い事件が起こる前と特に変わりはない。だが、その自然な感じが二人の関係が良好であることを暗に証明しているのだと思う。

 隣に座る聖夜も控え室での出来事は忘れてしまったかのように、ビールを美味しそうに飲んでいる。妊婦の香夏子は当然オレンジジュースとウーロン茶のみだが、それでもこの場の雰囲気を十分楽しむことができた。

 披露宴終了後、香夏子と聖夜そして秀司と湊は二次会に出席せず、近くの居酒屋に入った。

「いやぁ、高山くんの結婚式、すごくよかった!」

 湊は結婚式に出るたび、同じようなセリフを言うのだが、今日のセリフにはより切実な響きが含まれているように感じられた。

「湊だって夢じゃないでしょ」

 香夏子は少し控えめに言う。あまり直接的な発言をして、二人の間がぎくしゃくしても困るからだ。結婚という言葉はデリケートで扱いにくいものだが、できるなら目の前の二人にも、あのたとえようもない幸福感を一生のうちに一度は味わってほしいと思う。

「どうかなぁ?」

 湊は笑いながら言った。

「どうなの、実際?」

 聖夜もふざけた口調で乗ってくる。すると秀司がのけぞって腕組みをした。

「何の話だ?」

「何って、勿論『お二人の結婚式はいつですか』って話。付き合ってるんでしょ? 秀司と湊さん」

「ふむ」

 難しい表情をして秀司は黙ってしまった。聖夜は首を傾げる。

「何か問題でもあるわけ?」

「問題はある」

 秀司の声は硬い。香夏子は秀司と湊を交互に見た。

「叔父のマサノリのことだ」

「ああ、でも断ったならもう問題ないだろ?」

「……そうだな」

 それでも秀司は問題がないとは思えぬ顔で虚空を睨んでいた。隣の湊は微笑を浮かべたまま、小さくため息をつく。

「お金のこととか?」

 香夏子は急に一千万円のことを思い出した。身に覚えのある金額だ。香夏子のそれが借金でなくてよかったと心の底から思う。

 秀司が香夏子に厳しい視線を向けた。

「マサノリが金は返さないと言い出したんだ。湊のことを気に入っていたらしい。サユリのつまらない企てのせいで、俺の親切心は見事に踏みにじられたわけだ。しかし一万や二万ならまだしも、俺がどれだけ苦労して稼いだ金だと思っているんだ!」

「はいはい、ストップ!」

 突然明るい声が割り込んだ。湊が立ち上がって秀司の前に手を広げる。

「まぁ、ここで文句言ってもお金は戻ってこないからさ。その話はこれくらいにしよう、ね?」

「叔父さん、妙なところで根性発揮するね。それを別な方面に活かせたらいいのに」

 聖夜がそう言うと、秀司はガックリとうな垂れた。

「最近、あの疫病神が結婚詐欺に手を染めないかと気が気じゃないんだ。まったく、どいつもこいつも世話のかかるヤツばかりだな」

 その言葉に、秀司以外の三人がほとんど同時に吹き出した。

「秀司の周りにはそう言う人間が集まってくるんだろうね。アレだ、人徳ってヤツだよ」

「全然嬉しくないな。いい大人なんだから、自分のことくらい自分でどうにかしろ、と声を大にして言いたい。しかし相手が自分の親戚だと、腹立たしさと虚脱感が交互に襲ってきて、どう応対したらいいのかわからなくなる」

 珍しく弱音を吐いた秀司に、湊が慰めるような視線を送る。

 やはりこの二人はいいムードだ、と思っているところに聖夜の声が聞こえてきた。

「ウチは俺の母親がそういう問題をブロックしてくれるから、俺自身は面倒に巻き込まれたことがないな」

「確かに……」

 香夏子は即座に同意した。聖夜の母親は俗に言う毒舌家だが、自らが放つ舌鋒の鋭さを熟知しているのか、それをむやみにふるうことはない。しかし、いざというときの切れ味は相当なものだ。彼女にバッサリと斬られたら、再起不能に陥る人間もいるのではないだろうか。

「なるほど。持つべきものは頼もしい母親、ということだな」

 暗い顔をしていた秀司がようやく笑みを見せ、テーブル周辺の空気が僅かに明るくなった気がした。

 聖夜もクスッと笑う。

「でも俺は秀司のおばさんも好きだけどな。かわいいじゃん」

(……かわいい?)

 香夏子は真顔で隣に座る自分の夫を見た。聖夜は満面に笑みを浮かべていて、香夏子のことなど少しも気にかけていない様子だ。その態度にムカムカするが、友人の母親を「かわいい」と言ったくらいで嫉妬するような心の狭い人間だと思われたくはない。

 結局、聖夜と同じように顔に笑みを貼り付けた。

(あれは秀司を慰めるお世辞だよね)

 そう自分に言い聞かせながら向かいの席を見ると、秀司の顔がほころんだ。


「聖夜とカナもずいぶん世話がやけたが、お前らは幸せそうで何よりだ。お前らだけでもずっと幸せでいてほしいものだな」


 秀司の口から出たとはにわかに信じがたい言葉だった。聖夜のほうを見ると、彼も驚いたような顔をこちらに向けた。

「今日結婚式を挙げたばかりの高山くんにも末永い幸せを祈ってあげてよ」

 香夏子は照れ隠しに早口で言う。聖夜も隣でうんうんと頷いた。

 すると秀司はきょとんとして、少し首を傾げた。

「そういえばそうだったな」

「ちょっと待って。今日、フォーマルな服装をして来た理由を、まさか本当に忘れてたの?」

 秀司は腕組みをして、驚き呆れたという顔の湊を正面から睨みつけた。

「うるさい。一瞬忘れていただけだ」

「嘘でしょ? 披露宴で挨拶もしたのに? 一体何考えてるのよ?」


「うるさい。お前のことを考えていたんだ! 何が悪い?」


 一番最初にフッと笑ったのは聖夜だった。香夏子もうつむいて笑いを噛み殺そうと努力するが上手くいかない。

「なに、この人。恥ずかしい!」

 湊は頬に手を当てて秀司に背を向ける。

 どんなに笑われても最後まで仏頂面を崩さなかった秀司はさすがだ、とこの日の出来事を思い出すたびに香夏子は感心し、温かい気持ちになった。

 以前、秀司と湊の二人を見て感じた、胸の奥底をチクッと刺されるような痛みが、遠い過去のことになるのも、たぶん時間の問題だろう。

 それぞれの関係は少し形を変えて、時には離れたり、繋がったりしながら、綿々と続いていく。だから人生は面白いと改めて実感する香夏子だった。



 頼りない冬の日差しが、朝を迎えるごとに光度と熱量を増し、季節は確実に春へと近づいていた。

 この頃は香夏子も立派な妊婦姿になっている。人々が「妊婦」と聞いてまず思い浮かべるであろう体型そのものだ。スイカを丸飲みしたかと見紛う程の大きさになった腹部は、さすがに重い。そしてこの体型で日常生活を送る不便さは、想像以上に深刻だった。

「最近地面までがものすごく遠いの」

「へぇ」

 香夏子は夫の軽い返答に何度もムッとしたが、それだけで聖夜が妻に無関心だと決めつけるのは早計だ。その証拠に聖夜は率先して香夏子の足の爪を切り、靴下を履かせ、風呂掃除を担当し、文句一つ言わなかった。

「それにしてもすごいね」

 ある日、聖夜が目を輝かせて香夏子の腹に手を当てる。「だから散々言っているじゃない」と言いたくなるのをグッとこらえて、「すごいでしょ」と答えた。それから何気なく近くにあるスタンドミラーを横目で見ると、そこに写る自分の姿が確かに「すごい」ものだったので香夏子自身も驚く。

 この日は珍しくマタニティ用に縫製された服ではなく、以前も着用していた少し大きめのタートルネックを着てみたのだ。妊娠前は胴回りがぶかぶかで、タートルネックの買い物としては失敗だと思っていたのに、妊娠九ヶ月が終わろうとしている現在、薄くて伸縮性のある生地のおかげで、かろうじて腹部を覆い隠せるという状態だった。

「記念に写真撮っておこうよ」

 聖夜がデジタルカメラを持って来た。

 香夏子はカメラを構える聖夜の前で横向きに立つ。笑顔でレンズを見ると、シャッター音が聞こえた。

 撮影会が終わり聖夜がカメラを片付けている隙に、香夏子はもう一度鏡で自分の姿をチェックした。

(まだ高いな)

 先日産婦人科で見かけた臨月の妊婦に比べると、香夏子の腹部は膨らみの位置が高い。この重心が下がってくると出産が近いということらしい。

(でも予定日まで一ヶ月あるから当然か)

 未だに自分の中で出産のイメージが具体化できずにいるのだが、「その時」がいつやって来るのか、と考え始めると異常なほど胸がドキドキした。

 臨月に入ってからの妊婦健診では、これまでにない検査が待っている。

 香夏子の通う産婦人科では次回の健診時にノンストレステストと骨盤X線検査が予定されていた。香夏子にとってはどちらも未知の検査なので、ドキドキしながらその日を待つ。

 そしてその健診前日のことだった。

 出産予定日まで1ヶ月を切ったので、聖夜と香夏子は出産準備品の最後の買い出しに出かけた。昼食後の外出なので、香夏子の体調は万全だった。しかし赤ちゃん用品店の店内を一周する頃、なぜか突然胃腸が不具合を訴え出した。

「なんか、お腹痛い」

「お腹が張る感じ?」

 香夏子は首を傾げた。それとは少し違う気がする。だが、とにかく耐え難い腹痛だった。

「……トイレ行ってくる」

 用を済ませてトイレを出たが、復調というにはまだ程遠い。店内にあった乳児用の麦茶を購入して、帰路に着く。車の中で麦茶を一口飲んだが、不味くてそれ以上は飲めなかった。

「これ、きっと赤ちゃんだって美味しくないよ」

「どれ」

 聖夜が手を伸ばしてきたので、ペットボトルを渡す。口をつけた聖夜は「うーん」と唸った。

「薄い」

「いや、私にはとても飲めない味」

「俺はそこまででもないけどな」

 その答えを聞いているうちに、また腹痛が襲ってきた。強い波だ。

「うっ、ダメだ。ごめん、車、止めてほしい」

「え?」

 聖夜の顔が強張った。それを見て香夏子もハッとする。

「いや、大丈夫。もうちょっと我慢できそう」

 言いながら、必死に腹部をさすった。

(どうしたんだろう。臨月になるとこんなにひどく痛むものなのかな?)

 腹を撫でたくらいで収まる痛みではない。助手席に座っているだけなのに、布団が恋しくて仕方がなかった。

 無事に帰宅すると、香夏子はそのままベッドへ直行した。聖夜が時折心配して部屋を覗いてくれたが、「大丈夫」としか言いようがない。妊娠後、こんな不調に陥ったのは初めてで、不安が胸を押し潰さんばかりに増大する。

 しかも少し前から胎動が激しくなっていた。胎児が生きていることは間違いないが、これまでにない暴れっぷりが胸騒ぎに拍車をかけた。

「晩ご飯作ったけど、食べる?」

 聖夜の声がした。起き上って食卓へ行く。美味しそうな温かいそばが目に入った。

「どうした?」

 食卓の前で突っ立っている香夏子を、聖夜は不思議そうに見つめた。

 香夏子は悩みに悩み抜き、やっとの思いで口を開く。

「ごめん。せっかく作ってもらったのに……なんか食べられそうにない」

「え? 大丈夫?」

「うん」

 笑って頷いたら、涙がこぼれた。

 心配そうな目をした聖夜を食卓に残して、香夏子は寝室に戻る。横になって目をつぶると少し身体が楽になった。

 次の瞬間、香夏子は飛び起きた。慌ててトイレに行く。

(……なんだ、これ?)

 出血したのかと思ったが、液体は血液の色をしていない。わずかにピンク色で感触は水のようにさらさらだ。

(うーん。もしかして破水かおしるし? 確か破水って無色透明の液体が大量に出るんだよね? じゃあ違うか)

(でも、おしるしにしては色が薄い上、量も多い気がする)

 トイレの中で5分ほど思案したが、妊娠初体験の香夏子にこの現象を解明できるはずもない。寝室に戻ると、聖夜は隣で熟睡していた。

(もうそんな時間なのか……)

 時計を見るとそろそろ日付が変わる時刻だった。横になって黙っていると、腹痛と体内から何かが漏れる感覚が定期的にやって来た。そして先刻の猛烈な胎動はパタリと止んでいる。

(これ、絶対変でしょ!)

 波が遠ざかった隙に香夏子はベッドを抜け出し、リビングルームで妊婦向けの雑誌を開いた。出産の始まるタイミングについての記事を読み返してみるが、香夏子の現状と合致するものはない。

(どうしよう。腹痛だけならまだしも、なんか出て来てるのはマズいよね)

 一応、寝室に戻って聖夜に声を掛けてみた。

「ねぇ、ちょっと変だから病院に電話してみるね」

「うん……」

 反応はあったものの、聖夜は完全に夢の世界の住人だ。心細く思いながら産婦人科へ電話をかける。電話はすぐに繋がった。

「万が一ということもあるので、とにかく病院まで来てください。先生に診察してもらいましょう」

 電話に出た病院スタッフは年配の女性だった。落ち着いた声音が香夏子の不安を引き取ってくれた。電話を切るとすぐに聖夜を叩き起こした。

「え? 病院? これから? そんなに具合悪いの?」

 寝ぼけた様子の聖夜は面倒くさそうに外出準備をしている。それを見ると申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、その間も体調はどんどん悪化していった。

 病院に着くとすぐに診察台に横になるように指示され、腹部にモニターが装着された。胎児の心音が聴こえてきて安心するものの、次の瞬間激しい嘔吐感に襲われる。これはどうしたことか、と香夏子は泣き出したい気持ちを必死にこらえた。

 医師がやって来て、言った。

「うーん、まだ36週でしょ。今、抗生剤を入れてるので、何とかこのまま一週間持たせたいと思います」

(一週間!?)

 また強い吐き気が来た。

(ムリ!)

 それよりもこの具合の悪さをどうにかしてほしい、と思っていると医師が「では診察しますね」と暢気な声を出した。

 香夏子が足を開いた瞬間、ドバッと異常な水音が聞こえた。同時に医師の裏返った声が分娩室に響く。


「破水だ! このまま出産になります」


「えっ!?」

 医師が女性スタッフに指示を出すのを茫然と聞いていた。これから自分はどうなるのだろう、と不安に思う間も、胎児の心音が力強く室内に響く。

 診察台を降りて着替えをすると、陣痛室へ案内された。そこで聖夜に再会する。彼の目は先ほどとは全く違い、爛々らんらんと輝いていた。

「大丈夫?」

 頷くのが精一杯だった。目前の壁に出産の進行を説明した模造紙が貼られている。今の自分はどの辺りにいるのだろう。文字を読んでいるはずなのに、まるで頭に入ってこない。

(ダメだ、横になろう)

 ベッドに横たわったが、1分も経たないうちに飛び起きる。テーブルに突っ伏してみると、こちらのほうがいくぶん心地がいい。

「痛いの?」

 聖夜が腰を撫でようと手を伸ばしたので、香夏子は悲鳴を上げた。

「やめて! 触らないでほしい」

「うん」

 聖夜のしょんぼりした声が聞こえてきて、言い方が悪かったと一瞬反省したが、強烈な痛みが全身を駆け巡るとそれもすぐに忘れてしまう。

 そのうち身体が勝手に力み始めた。朦朧とする頭で、ここはまだ我慢すべきところだろうと思う。それに、と香夏子は頭の片隅で妙なことを考えていた。

(三十代になると分娩時間って長くなるものでしょ? こんなに早く進行するわけない。だってまだ病院に着いてから一時間くらいしか経ってないもん)

 しかし陣痛の間隔が短すぎる気がする。スタッフを呼ぼうかとナースコールのブザーに手を伸ばしたとき、年配の女性がひょっこり陣痛室を覗いた。

「どうですか?」

「結構、間隔が短くなった気がします。……うっ!」

「ちょっと見てみましょうね」

 彼女の名札には「助産師・竹田」と書かれていた。竹田は香夏子の足のほうへ移動する。

「あら、大変! もう10センチになってる。赤ちゃんの頭が見えてきてますよ!」

「ええっ!?」

「いきみたいでしょ?」

「はい、もう……っ!」

「それじゃあ、あっちの分娩台まで移動しますよ」

(ウソでしょ!?)

 点滴装置を杖代わりにしてスリッパを履き、隣室へ移動する。たったの10歩が果てしなく遠い。足の間に何かが挟まっているような状態で、相当無様な歩き方だと思うが、格好など気にしている場合ではない。ようやく到着し、自力で分娩台に這い上がったら全身に汗が噴き出た。

 いよいよだ。

 仰向けに寝ると照明がまぶしい。大きく息を吸って、吐く。陣痛が遠のいている間はできる限り深い呼吸を繰り返した。ヨガで教わった呼吸法だ。

(来る!)

 予感と同時に脳からの激しい信号が香夏子の全身を突き抜ける。腰の辺りにあるレバーを握って、のたうちまわりたがる身体を分娩台に押しつけた。

「いい陣痛が来てるね」

 助産師の竹田は香夏子の母親と同年代に見えた。最初は頼りなさそうに見えたが、分娩台の前に立つと急に、声に張りが出てきたように感じる。

 何度か強い陣痛をやり過ごし、その間、竹田は忙しく準備を進めていた。この苦しい時間がいつまで続くのだろうと白い天井を見ながら思う。その目に青色の衛生衣を着た聖夜が映った。シャワーキャップのような帽子をかぶっている。

「頑張れ!」

「うん」

(その帽子、変だよ)

 と、告げる暇もなく、また陣痛が来る。低く唸ると、しっかり呼吸するようにと指示された。

「ママが新鮮な酸素をいっぱい送ってあげないと、赤ちゃんが苦しくなっちゃうのよ」

「はい」

 短い休息時に聖夜が麦茶を飲ませてくれた。そして手を握る。汗で滑りそうになるが、その手を聖夜は両手で大事に包み込んだ。

「もう少しだから、しっかり!」

「うん」

 竹田も笑顔で頷いた。

「それじゃあ、次は少しいきんでみましょうか」

 香夏子は説明どおり、下腹部に意識を集中する。陣痛が来ると同時に腹の底に力を込めた。同時に心の中で「頑張れ!」と我が子へ呼びかける。

「上手、上手! 次は呼吸を私の呼びかけに合わせて」

 大きく息を吸い、次の陣痛を待ち構えた。

「はい、短く! ハッ、ハッ、ハッ、ハッ!」

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」

 なんだそれは、と思いながらも竹田に合わせると、足の間にこれまでにない違和感が生じた。

「お顔が出てきましたよ」

「カナ、もうちょっとだから頑張れ!」

 痛い。

 痛くて痛くて、呼吸をするのがやっとだ。頭が出てきた段階ということは、これからどれくらいかかるのか、と思う。休まなくていいから早く終わってほしい。

 そしてまた陣痛が来た。

「はい、吸って、吐いて、吸って、いきんで!」

「んんーっ!」

 竹田が手を上げて合図した。香夏子はレバーを懸命に握った。

 するっと、足の間を何かが抜けていく。


「ああ、おめでとう! 生まれましたよ!」


(終わった……の!?)


「ふぎゃあ! ふぎゃあ!」


 完全に脱力して分娩台に身を預けた。我が子の泣き声に耳を澄ませる。元気な産声だ。

「カナ、頑張ったな」

 聖夜のほうを見ると、彼の目に薄っすらと涙が浮かんでいる。聖夜が泣くところを初めて見たので、香夏子は驚いた。

 医師が縫合などの処置を手早く行う間に、新生児は身体を洗われ、体重測定を終えた。その様子を聖夜はビデオカメラで撮影している。

「パパ、抱っこしてみますか?」

 竹田にそう声をかけられた聖夜は「いいんですか?」と言いながら、いそいそとカメラを置いて小さな我が子を腕に収めた。

「うわぁ、ちっちゃい! ふにゃふにゃ」

 香夏子は分娩台の上でそれをぼんやり眺めている。頭の中は興奮状態なのに、身体にはまったく力が入らない。それもそうか、と思う。あんなに全身の力を振り絞ったのだ。もう余力など残っているはずがない。

(しかも晩ご飯食べてないし)

 だがお腹が空いたという感覚はなかった。ただ、ズシリと重い疲労感と、これまであまり感じたことのない達成感が香夏子を心地よく包んでいる。


(私、ついに産んじゃったよ!)


 聖夜の抱っこが終わり、ようやく香夏子の番が訪れた。竹田が香夏子の胸元に注意深く赤ちゃんをのせる。

「しばらく抱っこしていてね。できたらおっぱいを含ませてみて」

「は、はい!」

 かわいい肌着に身を包んだ赤ちゃんは、動きも弱々しいが香夏子の上で落ち着いたようだ。すうすうと心地良さそうに呼吸しながら目を閉じている。握った手に自分の指を絡ませると、柔らかい感触がくすぐったかった。

「ちっちゃい手だなぁ」

 聖夜は少し離れたところでビデオカメラを覗きながら、母子の様子を笑顔で見つめていた。


「ママですよー」


 小声で言ってみる。なぜか緊張した。

 胸の上にちょこんとのっかっている彼女は、薄目を開けて焦点の合わない黒目を動かす。もしかすると香夏子を探しているのかもしれない。


「ママだよ」


 もう一度呼びかけてみた。

 この世に生まれ出たばかりの新しい命は、小さくて頼りないが、ほんのりと温かい。

「よく頑張ったね」

 彼女はよくわからない、というように目を閉じる。

 香夏子はそんな様子ですら愛おしくて頬ずりしたくなったが、抱き上げるのはまだ少し怖かったので、指で頬を撫でるだけにしておいた。それに胸元にくっついている彼女はそれだけで十分満足そうだった。

 聖夜がビデオカメラを椅子の上に置いて、香夏子の傍に近づく。


「カナのどこにあんな力があったんだ、ってすごく感動したよ。二人とも本当によく頑張ったね」


「うん。本当によかったね。よかったね……」


 そう言いながら、香夏子は自分が泣いていることに気がついた。

 心の中では、この世のあらゆるものに感謝し、この世のあらゆる命が幸福であることを、ただひたすら祈っていた。

 そして胸の上にいる小さな我が子の未来に待つ、幾多の困難とその先にある喜びを想う。

 目尻からぽろりと温かい涙がこぼれ、耳のほうへと伝い落ちていく。

 その耳元にフッと笑う声が聞こえたかと思うと、聖夜の唇が香夏子の頬に優しく触れた。

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