第8話 幸せの定義

 かなちゃんと大口がなんとか丸く収まると、今度は私が完全に手綱を握ります!と高らかに宣言して店を出ていく。五千円札をおいてマスターに言伝てをすると、今夜は遅くなる、と大口が言ったためかなちゃんが真っ赤になって早足で店を後にした。きっと外ではかなちゃんが大口に一喝いれているところであろう。

「沢田はまだ帰らない?」

「うん、せっかくだし飲もうよ。」

 それもそうか、ハイボールはまだ半分以上残っているし、夕食もまだだ。マスターを呼んでおすすめを頼む。適当に見繕ってもらうくらいがちょうどいい。

 この前のようにたくさん飲むことはしなかった。沢田とこんな風に過ごすことが珍しかったし、はめをはずす気などない。

 しばらくするとローストビーフとカプレーゼが出てきた。彩り鮮やかでいい香りがする、食欲増進効果があった。お礼を言おうと顔をあげると、美人な人だった。この人がこれを運んできたのかと思うと尚更すばらしいものに思えてくる。彼女の容姿は好みのど真ん中で思わず見惚れた。

「川村?大丈夫、酔った?」

 沢田の声は耳を通ったが脳に直接語りかけることはなく体のどこからか抜け落ちていった。左手の薬指には指輪がはめられていて、ネームプレートにはなぎさと書かれていた。

 このひとだ。

 まさに直感、こんなところでも出会うものだ。ついさっきまでの反省はどこへやら、ぼくは気がつけば彼女にこう耳打ちしていた。

「奥さん、ぼくと浮気しませんか?」

 あとになって聞いた話だが、沢田曰く、このときのぼくの表情は肉食動物そのもので手慣れたナンパ師のようだったという。想像の範囲でいくととても恥ずかしい。

 恋愛経験がないなりに学んだこと、人間は目の前に理想そのものの人物が現れると、手に入れようと必死になれるということだ。




「さっきのにはびっくりしましたね。」

 あのあと川村は魅惑の笑みを浮かべた彼女と店を出ていった。どこかで少しお茶でも、と言っていたが、意外と彼女もその気だったりするのだろうか。

「まさか目の前で娘がナンパされる日が来るなんて、夢にも思っていませんでしたよ。」

「そうですね、ショックでしたか?」

 それがあんまり、と笑みをこぼしながらマスターは言う。

 カウンター席に移った頃には日付が変わっていて、客足も途絶えていた。もう客を招き入れる気はないのか、早々に閉店サインを掲げた。

「それより、また生配信していましたね、もう少し押さえたらどうですか?」

 グラスの縁を傾けて氷を溶かす。

 実はあの生配信の協力者は、この店のマスターだ。出会いはネットの掲示板からだったが、店のマスターであることは知っていた。しかしお互いにそこまでプライバシーを開け広げする性格ではない。ほんの少しのプライバシーの開示はお互いが安心するための材料にすぎない。

「別に毎日してる訳じゃないじゃん。」

 唇を尖らせてみたがマスターの表情は変わらない。

「きみはまだ未来ある若者だ、興味本意だけで首を突っ込み、抜けたくとも抜けられなくなってからでは遅いんだ。」

「説教なら聞かないよ、せっかく楽しい飲みが台無しだ。」

 強調して伝える、どちらにせよ、もうあとには引けない体になってしまった。あんな変態的嗜好を満たさなければ自慰すらできない。そんなのどうやって元の生活にもどったらいい?

「あーいっそ、AV男優とか目指そうかなぁ、幸いなことに顔面の作りは悪くないし。」

 だんっ!

 半分冗談のつもりだった。大きな音の正体はマスターが木製のコースターをカウンターに力一杯叩きつけたものだった。マスターはそれでも表情を変えずなにも言わない。クラシックが曲の繋ぎ目で一瞬途切れる、わずか1秒、でもそれがあんまり、途方もなく感じるほど沈黙は冷たかった。ウィスキーの氷がカランと音をたてて溶けた。

「冗談だよマスター、そんなに怒るなって。」

「そんなの本当に笑えないですねぇ、今の状態でも内蔵を抉られているようなのに?」

 え、と口元から漏れたときにはカウンター越しにウィスキーを奪われていて、あげくに飲みきってしまった。ロックを一気飲みって、と思いが先行したがこれはとんだマナー違反だ、失態だ。こんなことまさかほかの客にしてないだろうが、いくらなんでも良しとは言えない。

 グラスを置くと重たい口を許した。

「2階、あるんです、ここは店舗兼住宅なので。とはいっても屋根裏部屋みたいな雰囲気ですが。」

 控えめにそういうと背を向けてグラスを片し始めた。その耳がさっきのかなちゃんくらい赤く染まっているのをみて笑ってしまった。

「じゃぁ泊めてください。」

 大人になると欲しいものを純粋に欲しいと言えなくなる。人によりけりさまざまな理由があるが、そうなっていくものなのだ。変な恋愛理想論を語ったって恋愛下手だって、それを口に出して認められるだけ真っ直ぐなのだ。

 屋根裏部屋にはふたつの天窓がついていて、1等星が眩しく感じるくらいだった。その明るさが出来ればひとときのものでないことを祈っているうちに瞼はそれを遮った。我が家は今夜、誰ひとりとして在宅していない。たまにはそれもいいじゃないか、と思う。秘密を友に告げられなくとも、加速を止めてくれる誰かがいればいいじゃないか。

 空が白んだ頃に目が覚めた気がした。唇がほんのり温かかった気がしたのは、彼のせいか自身の熱のせいか知るよしもない。

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奥さん、ぼくと浮気しませんか? わたなべひとひら @eigou

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