extra4 うちへ帰ろう

 いくつのトンネルを抜けたのか、松本要にはもうわからなかった。

 日が落ちかけているせいでより濃さを増した山間部の緑が次から次に車窓のはるか後方へと猛スピードで流れ去っていく。高速道路に入ってからすでに二時間ほどになるが、姫ヶ瀬市まではまだかなりの距離があるらしい。

 運転席でハンドルを握っている安永弘造の母が早めにライトを点灯させる。


「みんな、トイレは大丈夫? 行きたくなったらすぐ教えてね」


 けれども冷房の効いている車内の同乗者たちから返事はない。要も答えようとはしたのだが、どうしても声がうまく出てきてくれない。

 ややあって、ようやく助手席の矢野政信が「ありがとうございます。そのときはちゃんとお伝えしますので」と丁寧に返す。

 後部座席の右端にいる要はちらりと左に目線をやった。真ん中に座っている片倉凜奈は車に乗りこんだときからずっとうつむいたまま顔を上げようとしない。シートに深くもたれかかった左端の榛名暁平も生気のない表情で窓の外をぼうっと眺めているだけだ。

 要にはまだ取り返しがつかなくなったという実感がない。夕方すぎに家へ帰れば母と姉がいて、少し遅れて帰宅する父と一緒に四人で晩ごはんを食べる。そんな当たり前の生活が永遠に失われたと突然に告げられたって簡単に飲みこめるはずもなかった。


 以前、松本家の玄関近くには金魚鉢が置かれていた。もちろんなみなみと入った水の中で金魚が泳いでいる。

 まだ低学年だった要はあるとき悪戯心を起こした。水を洗濯機みたいな渦巻にしてやれば金魚はどうなるのか、と。さっそく実行に移して鉢を手にとったものの、これが予想以上に重い。バランスを崩してよろけた要は金魚鉢を床へと落っことしてしまった。ガラス製の鉢は半分ほどが割れ、ぶちまけられた水とともに金魚もどこかへ消えていなくなってしまう。母からこってり絞られたあと、靴箱の下にある隙間で金魚を見つけたときにはもうとっくに死んでしまっていた。

 不意によみがえってきたそんな記憶が要の心に残酷な事実を突きつけてくる。あの埃にまみれて汚れたまま死んでいった金魚が母であり、姉であり、そして父なのだと。


「あ……あ……」


 まるで痙攣したように要の手が震えだした。エアコンが強すぎるのか、何だかとても寒い気がする。

 自分の体じゃないみたいなその震えを止めてくれたのは、包みこむようにしてそっと置かれた凜奈の手のひらだった。少し熱を帯びていて汗ばんだ手。


「リン姉……」


 気づけば顔を伏せたままの少女は静かに泣いていた。要にできるのはもう一方の手を凜奈の手に重ねてあげることくらいだ。

 日もほとんど沈み、薄暗い道路にはいくつものライトが浮かびあがっているように見える。まもなく夜がやってくるのた。


「ちょっとだけ、話をしようか」


 安永の母が穏やかな声でそう言った。

 全国小学生サッカー大会の一回戦、ハーフタイム中に家族が事故に遭ったと連絡を受けて榛名暁平、片倉凜奈、矢野政信、松本要の四人は試合の途中だったがすぐ地元へ戻ることとなった。死んだにしても病院じゃないのか、と暁平が食い下がっていたが「頼む、姫ヶ瀬まで先に戻っていてくれ」とコーチであるホセに懇願されたためだ。「とてもじゃないけど……」という声も聞こえていたが、どういう意味なのか要にはわからなかった。

 誰が連れて帰るのか、という話になったときに真っ先に「わたしの車で」と手を上げてくれたのが安永の母だ。

 その彼女が「死んだ人はどこへ行くんだろうね」と切りだした。


「わたしが中学二年のときだからけっこうな昔よね。病気でずっと入院していたお母さんが死んだの。コウゾウのおばあちゃんなんだけど、残っている写真も若い頃のものばかりで『おばあちゃんって感じがしねえ』ってあの子は言ってたな」


 ゆっくりと、ほんのわずかでも車内の空気を乱してしまわないような慎重さで安永の母は話を続けていく。


「お母さんがいなくなってしまったことを理解できなかった、ううん、理解したくなかったわたしはお父さんにたずねたの。『死んだ人はどこに行くの? どこへ行けば会えるの?』って」


 要の手を凜奈がぎゅっ、と握ってきた。


「空の上なのか、土の下なのか、それともみんなの心の中にしかいないのか。でもお父さんの返事はそのどれでもなかった。『お母さんはもうどこにもいない。でも、どこにでもいるんだ』、わたしの目を真っ直ぐに見つめてそう答えてくれたの。謎かけみたいな言い方かもしれないけど、そのときのわたしには不思議と納得のいくものだったのよ」


「──まるで神さまみたいだ」


 ぽつりと暁平が呟いた。

 本当にそうだね、と安永の母が応じてからはまた沈黙が車中を満たす。

 要は彼女が口にした言葉の意味を考える。すでにあたりには暗い夜が訪れていた。遠く彼方に見える星の下、そのあまねくすべてに死んでしまった人たちがいるのだとしたらそれはいったいどういうものなのだろうか。

 たとえばきらきらとした小さい光の粒のような、と要は想像した。そんな綺麗なものになれたのなら、もしかしたらお姉ちゃんあたりは喜んでいるかもしれないな、と顔には出さずに一人さびしく笑う。

 ただただ早く家に帰りたかった。けれども、その懐かしい我が家にはもう誰も待ってはいない。夜が深まり、家が少しずつ近づいてくるほど要はそのことを意識してしまう。

 いったい自分はどこへ帰ろうとしているのだろうか。

 凜奈に暁平、政信もどこに帰ればいいのだろうか。

 お父さん、お母さん、お姉ちゃん。もし本当に神さまになったのならぼくたちが帰るべき場所を教えてほしい。

 吸いこまれそうな夜の闇に向かって要はありったけの願いを込めて祈る。

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