第53話 夏の終わりに〈2〉
八月の終わりといえど涼しくなった実感はまだないが、日が傾くのは確実に早くなっている。
受験勉強のために毎日通っている市立図書館からの帰り道、川沿いの土手を自転車で走りながら悠里はふとこれから暮れていく空を写真に撮りたくなった。
鬼島少年少女蹴球団のホームグラウンドである河川敷までたどり着き、下りていく階段に腰かけて肩からかけていたトートバッグの中身を探る。取りだしたのは年季の入ったクラシックカメラだ。最近、どこへ行くときでも悠里はこいつを手放さない。
「これ、どうしたもんかな」
そう唸りながら暁平がこのカメラを持て余していたのは三回忌前々日のことだ。今年は八月に入ればサッカー部の全国大会が控えていたため、前倒しで七月末に法事が行われる運びとなっていた。
「おっ。キョウヘイ、まだそのカメラを残しておいてくれたんだな」
「あかりちゃん、写真撮るの本当に好きだったもんね。旅行のときなんかもうずっとファインダーを覗きっぱなしで」
寄ってきた悠里の両親が懐かしそうに思い出話をはじめだした。聞けば写真が趣味だった暁平の母の愛機だったそうで、手入れが行き届いていたおかげで今でも使うことは可能なようだ。けれども暁平が関心を示していない以上、このカメラには押入れで眠り朽ち果てていく運命しか待っていない。
それをもったいなく思った悠里が「あたし、使ってみたい」と手を上げたのだ。
どうにか扱い方を頭と手とに叩きこみ、さっそく三回忌の当日がカメラには復帰戦、悠里にとってはデビュー戦となった。
今回までは、ということでこれまで通り四家族合同の大きな法事となるなか、昨年の一周忌にはいなかった人たちの姿もちらほらと見受けられた。
最大のサプライズは久我健一朗を伴ってやってきた羽仁浦会長で間違いない。しかし悠里にとっては凜奈が来てくれたことが何よりだった。
一周忌にさえ彼女が鬼島に戻ってこなかったときはさすがの悠里も「もしかしたらもう会えないのだろうか」と不吉な考えが頭をかすめたほどだ。一年という月日は決して長くはないが、人が変わるには充分な長さらしい。
悠里にしたって、一年後の自分が暁平の母の形見であるクラシックカメラを手にしているなどとは思いもよらなかったのだから。
それから三日間、凜奈は鬼島に滞在した。日中は暁平たちの練習に加わったりホセがいる蹴球団に顔を出したり、夜は悠里と同じ部屋で寝泊まりして積もりに積もったたくさんのおしゃべりを。
暁平たちが死にもの狂いで戦ったあのゲームの熱が、凜奈の心の中に最後まで残っていた再びボールを蹴ることへの抵抗をどうやら跡形もなく溶かしてしまったらしい。
みんなが寝静まった最後の夜、電気を消して暗くした部屋で彼女は言った。
「ユーリさん、あたしサッカーするよ。それがきっとパパとママがこの世に生きた証になるはずだから」
力強ささえ感じられたその宣言に悠里はまたも泣いてしまった。
いったいいつから自分にこんな泣き癖がついたのか。
河川敷にある階段で、ファインダー越しに暮れゆく空を眺めながら悠里は「全部四ノ宮のせいだ」とひとり呟いた。
「シノくんがなんだってえ?」
「おわあッ!」
およそ女子らしからぬ叫びをあげてしまった悠里が焦りを隠せぬまま振り向くと、土手にはサッカー部の面々がぞろぞろと連なっていた。もの思いにふけっていたせいで気づかなかったことが今さらながらに悔やまれる。
先頭にいた暁平がにやにやしながら「で、シノくんがなんだって?」と繰り返す。少し離れた弓立もひゅう、と口笛を吹きながら「ここに乙女がいまーす」と茶化してきた。
悠里にとっては一世一代の不覚といってもよかったが、あえて彼らに微笑んでみせる。
「選ばせてあげる。素直にここから立ち去るか、順番に川に蹴りこまれるか」
それでもまだ何かからかおうとしていた暁平だったが、後ろの政信に「ややこしくするなら下がってろ」と止められ、代わりに要が両手を前で合わせながら釈明する。
「ごめんね、ユーリ姉。夏休みも最後だしみんなでもうちょっとサッカーしたいなって話になって、それでこの河川敷に来たんだ」
「カナメちゃんがそう言うなら……仕方ない。通れ」
一転して苦虫を噛み潰したような調子で彼らに通行の許可を出してやった。
悠里に気づかれないようにするため、静かにここまでやってきたであろう連中は我慢の限界とばかりに騒ぎながらグラウンドへと駆け下りていく。そのはしゃぎ方は住宅地であれば苦情ものだが、年相応の幼さとみれば可愛げもあった。
「おーし、じゃあ全員やったことのないポジションで紅白戦するぞー」
キーパー用の手袋をはめながら暁平が号令をかけている。どうやらこれから行われるのは練習というより遊びのようだ。
「ふはは、ようやくおれのキックを試せるときがきたぜ。榛名から何としてもゴールを決めてやらあ」
「おれディフェンダーとかやったことねえんだけど」
「サイドバックか、面白そうかも」
「キラーパス出し放題!」
口々に好き勝手なことを言っているがどの顔も羨ましくなるくらい楽しそうだ。
これはリンにも見せてあげなきゃ、と悠里は勝手な使命感に駆られる。
手作業で絞りを決め、シャッターダイヤルを回してからカメラを構えてファインダーを覗きこんだ。ピントも合っている。
夏の終わりを惜しむように、日が暮れかけても彼らがまだサッカーを止められないその気持ちはわかる。流れていったこの瞬間はもう永遠に手が届かないところへ消えていくのだから。
せめてそんな一瞬を切り取ってあげられたら、と思う。
いくつもの黒い影が地面に伸びて目まぐるしく交錯していく。カメラのレンズでボールを追い、みんなの一挙手一投足を逃すまいとシャッターを押すタイミングをうかがう。
そして悠里は人差し指に力を込めた。
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