第50話 ラスト3分間
残るはアディショナルタイムの3分間。本当ならもっと長いのではと思われたが、選手たちの疲労具合を考慮したのかもしれない。互いが心を削りあう、とにかくタフなゲームになっていた。
防戦一方の鬼島中学だったが、3―2のままどうにかここまでこぎ着けた。体力的にはもはや限界が近づいており、ピッチのそこかしこにできるスペースを埋めきれないでいるせいで、姫ヶ瀬FCに何度も決定機を許していた。
暁平を中心とする最終ラインが、経験の浅いキーパー竹下をなんとか盛りたてようと必死に体を張り続けているおかげでどうにか失点こそ免れているものの、あとはもう時間との戦いでしかなかった。
やけにフィールドが静かだな、と暁平は思う。ボールを蹴る音、体がぶつかりあう音、それに飛び交う指示の声ぐらいしか暁平の耳には届いてこない。
ボール、味方、敵、スペース。それらを繰り返し確認しながらプレーを続けていくうちに、自分の感情がどんどん摩耗していくのがわかる。喜びも優しさも哀しみも怒りもどこかに消え失せ、空っぽになった体のすべてをサッカーのために惜しみなく使う。それがとても心地よかった。兵藤の言葉通りなのが癪ではあったが。
刻々とタイムアップが迫るなか、久しぶりに鬼島中学のマイボールとなる。だがフォローを期待できないせいで単独突破を試みた五味が吉野に止められてしまう。なぜキープして時間を稼がない、と暁平は舌打ちしたい気持ちになったがもう遅い。
ボールを奪った吉野はそのままドリブルで持ち上がってきた。スピード感こそ欠くがその様には重戦車のごとき迫力がある。
姫ヶ瀬FCの強力スリートップはそれぞれ前線に残っていたが、筧に対応されるより先に吉野は兵藤へとパスを出す。縦に速く攻めたいこの場面であえて彼にボールを預けるのは信頼の証ともいえるだろう。
「ヤスも兵藤に当たれ!」
暁平からの指示に従い、センターバックの安永弘造が井上とともに兵藤のチェックに入った。ボールを奪うことにかけては鬼島中学でも屈指の手練れである二人を相手にしてなお、巧みにキープする兵藤は慌てない。
ペナルティエリア内でどうにかボールを呼びこもうと動き回る牧瀬には、佐木川がほとんどマンマークのような形で付いていた。同学年である彼らは互いに退くことなく体と意地とをぶつけ合っている。
佐木川に牧瀬を任せ、暁平の神経の大半は両サイドのフォワード二人へと向けられていた。久我とジュリオ、どちらでフィニッシュにこようとも簡単にシュートまで持っていかせるわけにはいかない。
兵藤が右足インサイドでボールを操りながら、ジュリオのいる左サイドへと目線をやった。そして流れるような動作で右足アウトサイドに持ち替える。
「それは前に見たって!」
エラシコを警戒しながら井上が吠えた。
前半終了間際、同様のプレーから対応の遅れた井上はファウルをとられて、失点へと繋がるフリーキックを献上してしまっている。自分の左側を抜きにくる、井上のその判断は暁平からしても間違っていないはずだった。
だがこの押し迫った局面で兵藤が選択したのはまさかのラボーナだ。軸足の後ろに蹴り足を通し、両足を交差させてボールを蹴るテクニック。トリッキーな技だけに、実戦の最中に使うのは非常に難度が高い。それを兵藤はやってのけた。彼の左足から出されたパスは右サイドの久我へと見事に通ってしまう。
すでに体をマーカーである要より前に入れていた久我が鬼島ゴールへと襲いかかる。それでも一対一で勝負を挑んでくるならたとえエリア内であっても自分に分がある、と暁平は考えていた。ボールを持っていようが持ってなかろうが、一対一の勝負においては絶対の自信が彼にはあった。
久我との間合いを測り、仕留められる一瞬の隙をうかがう。かつての彼ならここは自ら仕掛けてくるはずなのだが、無理押しでは決められないと見てとったか再び久我は兵藤までボールを戻してしまった。
しかしパスを出してすぐに久我がスピードを上げる。暁平の反応もわずかに遅れた。兵藤はワンタッチで素早く折り返し、鬼島の左サイド深く、ペナルティエリアのラインを越えたところでまた久我がボールを受けた。
ただ、久我の位置からではゴールへの角度がほとんどなく、おまけに追いついた暁平を背負ってのプレーだ。残り時間を考えると状況としては詰みに近い。
ジュリオや牧瀬、もしくは吉野の飛びだしではなく、あくまで久我にラストプレーを託した兵藤の選択に暁平としても疑問符が浮かぶが、その答えはすぐに突きつけられた。
左腕をいっぱいに使って暁平の体をかきわけるようなハンドオフで、久我がゴールラインぎりぎりを抜けていこうとする。疲労のせいかまたしても暁平の反応は一歩、いや半歩遅れた。そのわずかなタイムロスを久我は見逃してくれなかった。
この試合でも何度か見せた軸足が浮くほどのミドルシュートとは違う、蹴り足の振り幅がとても小さいシュートモーション。暁平が足を投げだす間もなかった。
緊張の面持ちで構えていた一年生キーパー竹下の左脇をかすめ、無情にもグラウンダーのシュートがあっけなくゴールネットへと吸いこまれていく。
3―3。土壇場での同点ゴールと後半終了とを告げる笛が続けて吹かれるのを、暁平は半ば放心状態で立ち尽くしたまま聞くよりほかになかった。
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