第26話 彼は敗北を知らねばならない
敷地内に四面設けられている人工芝のグラウンド、そのうちのひとつで姫ヶ瀬FCジュニアユースの練習が行われている。ミニゲームながら本番同様の気迫で少年たちがボールを競りあっているのを、上下ジャージ姿の男が厳しい眼差しで見守っていた。
この春からU―15の監督に就任した相良智徳、五十二歳。なぜかジャージの裾をロールアップにして、見苦しいくらいに毛の生えた脛を剥きだしにしている。これがいわば彼のトレードマークだ。
今、相良が選手たちにさせているのは技術や戦術の習得を主眼とした練習ではない。間近に迫った試合に向けてさらなる闘争心を引きだすためのものだ。二か月前に敗れた相手との再戦だけあって、どの選手の士気も高い。
腕組みをして相良は満足げにひとつ頷く。
そんな彼に背後から声をかける者があった。
「仕上がりは順調そうですね、相良監督」
相良が振り返ってみると、そこに立っていたのは七つ年下の羽仁浦慧だった。
仕立てのいいジャケットに色あいと素材感の異なるパンツ、中にはポロシャツというカジュアルな出で立ちではあるが、姫ヶ瀬FCのオーナー企業、ハニウラ・セラミックスの会長その人だ。
羽仁浦会長がグループ全体の総帥という立場から姫ヶ瀬FCだけに集中できるポジションへと移りたがっているのは公然の秘密であり、それほどまでに彼はサッカーに強い関心を寄せている。
そのため、わずかな時間の空きを見つけてはカテゴリーの違いを問わず、こうして練習を見学しにグラウンドへと訪れていた。
「おう会長、わざわざジュニアのほうにまで顔を出してもらってすまないな」
「いえいえ。これが私の趣味ですから」
現役時代から変わらぬ相良の粗野な口調に対して、羽仁浦会長は柔らかな物腰を崩さない。この形が二人の会話の常だった。
日本代表にまでなった経歴を持つ相良ではあるが、相手が誰であれ気に入らなければ噛みつくその性格が監督やコーチ、チームのフロント、そしてサッカー協会にとって扱いづらいものだったのは間違いない。
そのせいなのだろう、彼のサッカー理論の確かさにもかかわらず指導者としてのオファーはなかなかやってこなかった。引退後はスポーツ紙や地方のテレビ局でのサッカー解説がもっぱらの仕事だった。
だからこそ、周囲の反対を押し切ってU―15年代の監督というやりがいあるポストを与えてくれた羽仁浦会長に、相良は心の底から感謝していた。その口調はともかく。
「リベンジマッチの勝算はどうですか」
羽仁浦会長がいかにも楽しそうに言う。
「戦力的にはそりゃうちが優位ではあるんだけどな」
いつもならもっと威勢がいいはずの相良だが、どうしたことかその言葉はやや歯切れが悪い。
当然、羽仁浦会長は聞き逃さなかった。
「どうかしましたか。何か気がかりな点でも」
「いやな、会長。向こうにゃ一人、とんでもないのがいるんだわ。うちの問題児どもがどこまでやりあえるか、楽しみでもあり、不安でもあり」
「それはもしかして榛名くんのことですか」
羽仁浦会長は相良が予想していた以上の食いつきをみせる。
「前任の大浜さんがことあるごとに言っていたんです。彼、榛名くんがいればどの強豪クラブとも五分以上で渡り合えるのに、と」
「うーん、大浜のやつの気持ちはわかるわ。あの子がいたらそりゃうちだってどこのユースにも引けはとらんよ。この二か月でおれもいろいろな選手を見てきたが、同世代の真ん中より後ろのポジションじゃ彼がナンバー・ワンだ。世代別の代表に選ばれているやつらよりもな。突然変異のスペシャル・ワンってやつよ」
「そこまで、ですか。辛口で知られるあなたがそこまで褒めちぎるとは」
癖のある髪を相良はぽりぽりと掻いた。
「けちのつけようがないんだよなあ。かといって早熟なわけでもない。末恐ろしいことに伸びしろはまだまだたっぷりありそうだからな。今度の全国で『発見』される彼をめぐって熾烈な勧誘合戦がはじまるのは目に見えてる。それも日本のクラブだけじゃなく、青田買いを目論む海外のクラブも名乗りをあげてくると思うぜ」
参戦するかい、と訊ねた相良に、羽仁浦会長は真剣な表情になって答える。
「地元の至宝が流出するのは避けたいところです」
「なら、話は早いほうがいいか」
そう言った相良は、順番を待ってわずかなインターバルをとっている久我の名前を大声で呼ぶ。
「なんすか、監督」
やってきた久我は体を上気させ、息を弾ませていた。
相良のみたところ、久我健一朗という選手はとにかく手を抜くことを知らない。攻撃時には飽くことなくポジションチェンジを繰り返して相手ディフェンスの隙をうかがい、守備に回れば前線から激しくチェイスする。いつでも獲物を狙うその姿はまさしく猟犬だった。
「その前におまえ、挨拶ぐらいせんか。おれの横にいるこの人を知らんわけじゃないだろう。うちの会長だぞ」
まあまあ、ととりなすように羽仁浦会長が相良と久我の間に立つ。
「やあ、久我くん。リーグ戦でもクラブユース選手権の予選でも好調を維持しているね。ゴールを量産するだけじゃなく、数字に現れない部分での貢献も私たちはきちんと評価しているよ」
これがこの人の怖いところだ、と相良は思う。
トップチームだけじゃなくU―18、U―15のユースチームの状況まできちんと把握している。しかも今のところ本業は別であるにもかかわらず。
前任の大浜も若年世代の指導者としては悪くなかったはずだが、更迭されたのも無理はない。目利きであるがゆえに、羽仁浦会長はそれこそ練習段階から相当に高い質を求めているのだ。
しかし久我の神経も並の太さではない。
「あー、どもっす」
他の子であれば相手が自分のチームを持っている会社のトップと知るや、慌てて深々と頭を下げるのが普通だ。
なのに彼は動じた様子もなく、あごをしゃくったようなお辞儀だけですませる。
たとえ羽仁浦会長であっても、まるで「練習をよく見学にやってくる近所のサッカー好きのおっさん」みたいな扱いだった。
「バカやろ、もっとしゃきっと挨拶しやがれってんだ」
そうは言いながら、個人的には相良も久我の図太さを好ましく思っている。フォワードという人種はふてぶてしいくらいでちょうどいい、と。
「はあ。そんなことより何でおれがわざわざ呼ばれたんすか。まさか次の試合は外れろとかじゃないでしょうね」
もしそうだとしても受け入れるつもりがないのは、鋭い目つきでにらんでくるようなその態度からも明白だった。
「そんなことっておまえ……まあいい。用件はすぐすむ。おまえの友人についてちょっと聞きたいだけだ」
「おれ、友達なんていませんけど」
別に卑下するわけでなく、本気でそう言っているらしい久我をみて相良は頭を抱えたくなった。
かわって羽仁浦会長が久我に訊ねる。
「久我くんは鬼島の蹴球団出身だろう。そこで一緒にやっていた榛名くんに興味があってね。よければ少し話してもらえないかな」
キョウか、と久我は低い声でかつてのチームメイトの名を口にする。
「言っとくけど、あいつは絶対にここへは来ませんよ」
牽制ともとれるような素っ気ない彼の返事にもかかわらず、羽仁浦会長はまるで意に介さない。
「こちらのスカウトを彼が二度断ったのはもちろん報告を受けて知っている。けどね、来年になれば彼も否応なく進路を決めなければならない。そのとき、うちのチームもひとつの選択肢として視野に入れておいてほしいというのはそんなにおかしな話じゃないだろう?」
「キョウが、高校でもサッカーを……」
久我は珍しく考えこんでいるようなそぶりをみせる。
「なんだよ、気持ち悪いな。言いたいことがあるならさっさと言っちまえ」
ほれほれ、と煽る相良を醒めた目で見遣りながら久我が呟いた。
「おれ、高校に行ったあいつがサッカーをやっている姿がどうしても想像つかない」
怪訝そうな顔をした相良と羽仁浦会長に向けて、久我は口下手なりに言葉を続ける。
「好きだから、とかそんな理由でキョウはサッカーをやってない。あいつはたぶん、みんなとの繋がりを守るために戦ってる。だから勝利に対してやたらこだわるし、実際にずっと勝ち続けてきた。そんなあいつが、たとえばおれみたいに仲間と離れてまでサッカーをやっていくとはとても思えないんす」
最後には自嘲するような口調になっていた。
そんな久我の様子とは対照的に、羽仁浦会長はあっけらかんと言い放つ。
「なら話は簡単じゃないか」
羽仁浦会長の手が久我の肩にそっと置かれた。
「久我くん、きみが榛名くんに敗北を教えてあげるべきだ。他の見知らぬ誰かより、友人であるきみに敗れるのが彼のような人間には最も効果的だと思うよ」
「もう友達じゃねえですよ。おれは、ただの裏切り者だ」
「いきさつは私の耳にも入っている。きっと榛名くんはそんなふうに考えていないだろうが、まあいい。きみにもいずれわかる。きみはただ全力で彼を打ち負かせばいい。それで事態は好転するはずだ」
言っている意味がわからない、と久我は何度も首を横に振っている。
そんな彼に羽仁浦会長はさらに言い募った。
「勝っているだけの人間なんて案外脆いものだよ。昔の私がまさにそうだった。代々続いていた会社を、自分の力量を過信したせいで潰しかけて、そこからまた這いあがって。敗北を乗りこえる姿こそ美しいと私は思う。
久我くん、きみに敗れたそのときに榛名くんもちゃんと理解するはずだ。負けて失うものもあれば得るものもある、と。おそらく彼にとっては後者のほうがずっと多いだろうね。そうやってはじめて、榛名くんは自分自身の人生を歩きだすことができるんだよ」
熱を帯びた羽仁浦会長の視線を避けるように、久我はややうつむき加減になっていた。額から流れてきた汗がぽたり、と地面に落ちる。
「彼を縛りつけている頑丈な鎖を、きみの力で外してあげようじゃないか。仲間思いなのは素晴らしいことだが、肝心のやり方を間違えてしまっては誰も幸せになれないんだ。サッカーはそんな呪いみたいなものであるべきじゃない、そうだろう?」
羽仁浦会長の手が久我の肩から離れた。そして今度は二の腕をぽん、とたたく。
「長く引き止めてすまなかったね。さ、練習に戻りなさい」
またおざなりに頭を下げた久我が離れていくのを見届けてから、相良は羽仁浦会長へと絡むように言った。
「会長よ、まったくあんたは性格が悪いったらありゃしねえ。あんな不器用なガキを焚きつけやがって」
「人聞きがよくないですね。私はあくまで彼らのこれからを案じて、人生の先輩としてアドバイスしたにすぎませんよ。まあ、他意がなかったといえば嘘になりますが」
「ほれみろ。そりゃ、榛名みたいな超のつく逸材なら喉から手が出るほど欲しいのは当然だけどな」
「それもありますが、もっと短絡的な理由もあります。明日のゲームにちょっとしたスパイスをね、かけたかったんですよ。血が沸騰するような、死ぬまで忘れられないゲームを目撃したい。欲深い私は常々そう思っているんです」
「うへ、もはや会長も立派なサッカージャンキーだな。ハードルはちと高えが、ま、退屈はさせねえつもりだよ」
相良が監督に就任するまでは、どちらかといえば守備面でのバランスに重きを置いたサッカーが姫ヶ瀬FCジュニアユースのスタイルだった。
6番をつけるボランチの吉野圭周やキーパーの友近聡など軸となる人材がディフェンス寄りに偏っていたのもあるが、全国にはすでに育成メソッドを確立させているJリーグクラブのユースチームがいくつもあり、そういうチームを相手にすると劣勢の展開を覚悟しなければならないのが大きい。
だが二か月前とは顔ぶれが違う。前線に加わった二人の新戦力はすでに実力のほどを証明しており、点取り屋である久我との相性も悪くない。一年生のなかにもレギュラー争いに絡んでいる者がいる。
まだまだ粗削りながら、そのポテンシャルはいまやどこの強豪チームにも見劣りしないと相良は考えていた。目下の敵が榛名暁平を中心に強固な壁を築くなら、こちらは無理やりにでもこじ開けるまでだ。
羽仁浦会長と同じく、彼もまた年甲斐もなく己の血をたぎらせつつあった。
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