番外編1. 春を越えて
長い冬を越えてまた春が来る。
秋と連絡が途絶えて3年。あれから大学を卒業して就職をした。
今は小さな出版会社で働いている。
仕事には慣れてきて、単調で変化のない生活が続いている。
平穏な日常と言えば聞こえは良いが、裏を返せば何も起こらない退屈な日々。
空気を吸って、ご飯を食べてお風呂に入り寝る。それの繰り返し。
大人って退屈だと思う。
たまに友達と飲みに行ったり遊んだりもするけれど、そんな時間は一瞬で終わる。
私はずっと秋の居た、あの3年前の日常に焦がれていた。
何年経っても消えることの無い強い感情。
知らなければこんなに苦しくはなかったはずなのに、絶対に忘れたくないという矛盾が私を苦しめる。
いけない、思考が負のループに落ちている…。
悪い癖だなぁと思う。
夜はあまり深い事を考えない方がいい。
いつまでもこんなんじゃ駄目だなと思いながら目を閉じた。
「水野先輩、今日飲みに行きません?」
そう誘ってきたのは会社のひとつ歳下の後輩だ。
彼女が動くとポニーテールがぴょんぴょんと跳ねるため、犬みたいな子だなと思っている。
髪色が明るいせいか、ゴールデンレトリバーを連想させる。
「先輩きいてます?」
「聞いてるよ」
「飲み行きませんか?」
「2回も言わなくても分かってるよ」
いかにも不機嫌そうな顔で私を見つめてくる。
「今週はまだ1回だけじゃないですか」
「先週は4回も付き合ったけど」
「うっ、それでもお願いしますってぇ」
うるうるした上目遣いで私を見るな。
「今日だけだからね…」
「やった!いつもの所、予約しておきますね」
また上手く乗せられてしまった。
ちゃんと断れない私が悪いのだけど。
先週は酷かったと思い出す。
仕事が終わり帰ろうとすると、隣席の彼女も同時に席を立ち有無を言わさぬスピードで「飲み付き合ってくれますよね?」 そう言うと私の手をとり飲み屋まで連行して行くのだ。
流石にこれはと思い、飲みに行く時は事前確認をすると約束をしたが結果はあまり変わっていない。
あの子が流れに乗せるのが上手いのか、私が流され易いだけなのか。
まぁどちらでもいい。結果、行くと決めたのは私なのだから。
ひとつ注意するなら今日が月曜日という事。
「飲み過ぎないようにしないと」
「先輩飲んで無くないですか?」
「飲んでるから。あとそのノリやめて」
日本酒の五杯目を飲み干した彼女の顔色は正常だ。
この子に合わせて飲んでいたら私は確実に死ぬ。
「そう言えば、新田先生が水野先輩から返信こないって落ち込んでましたよ」
「あぁ…。今日忙しがったの撮影もあったし」
新田先生は私が初めて担当した作家さんだった。
年齢もそう離れてはいないため、話も合い良くしてもらっていた。
プライベートの連絡先を聞かれたのは半年程前だっただろうか。そこから頻繁に連絡が来るようになり告白された。
丁寧に断った後、上司と相談をして担当を後輩の成瀬に変わってもらった。
そんな事もあり、いま目の前にいるこの後輩の誘いを断りにくい状況になっていた。
最初は仕事の引き継ぎのために集まっている感じだったのだが、いつからか飲み仲間と言ってもおかしくない距離感に変わっていた。
「私から新田先生に何か言っておきましょうか?」
「ありがとう、でも自分でするから大丈夫」
「何か、私に出来ることがあったら言ってくださいね」
ドンと音が鳴るくらい強く胸を叩き私を見つめてくる。
その真っ直ぐな瞳が誰かと重なって息が苦しくなった。
これではどちらが先輩か分からない。
「水野先輩って彼氏作らないんですか?」
成瀬の耳が赤くなっている。酔っているのだろうか。
「うん」
「美人なのに勿体ないとか言われません?」
「美人じゃないし、言われない」
「好きな人はいますか?」
「…」
「それ絶対いるやつじゃないですか」
「成瀬はいるの?」
「話しそらしましたね、いますよ」
意識がふわふわしている。私も酔っているのだろうか。
三ヶ月程この後輩と毎週のように飲んでいたはずなのに、恋愛の話をしたのは初めてだったことに気がつく。
大人になると話す話題の取捨選択が大切になる。
相手を傷つけないようにと思うと話題は必然的に少なくなり、心の距離は縮まりにくくなるのだ。
それが普通だし、間違っているとも思わない。
だけど、どこか少し淋しい。
社会人になってから友達を作るのが難しい理由はそういう事なのだろう。
「そうなんだ。付き合ってるの?」
「いえ、先月別れました」
軽く言った言葉が地雷になる時がある。やっぱり大人は難しい。
「ごめん」
「大丈夫ですよ、私が別に好きな人が出来たので別れてもらったんです」
「あらら、なるほど」
彼女にとって重そうな話ではなかったため安心する。
「先輩、そこで相談なんですけど」
机に両手をつき身体を乗り出してきた。
なんだなんだ?
「好きな人に振り向いて貰える方法知りません?」
「知らない」
「えぇ、冷たい!」
身体を元の位置に戻した成瀬が私を見る。
何か言いたそうにしながら、まぁそうですよねと下を向く。
アドバイス出来ることなんて本当にないし、なんなら私が教えて欲しいくらいなんだけど。
仕方ない後輩だなぁ。
「成瀬は明るいし気も使える。そのままでいれば大体の人は好きになってくれると思うけど」
「ありがとうございます、でも顔はいいとは言ってくれないんですね?」
「顔もいいと思うよ」
「嘘くさい」
空きグラスを横目に見て、ため息をつく。
成瀬がこれ以上めんどくさくなる前に早く帰ろう。
「先輩、わたし酔いました」
「知ってる」
月曜日の夜にこの酔い具合。
成瀬が社会人2年目とは信じたくない。
「タクシー呼んであげるからちょっと待ってて」
「うぅ、こんな可愛い後輩を一人で帰らせるつもりですか!!」
泣きながら私の服を掴んでくる。
成瀬が酔うとこんなにめんどくさいやつだったとは…、勘弁して欲しい。
「明日も仕事なんだけど」
「私の家から行けばいいじゃないですか!!」
「はぁ、タクシーで吐いたりしないでね」
「しませんよ!!」
「ここに住んでるの?」
「はい」
目の前にあるのは到底私の後輩が住んでいるとは思えない高層マンションだった。
「実家?」
「一人暮らしですよ、実家が太いだけです」
成瀬の酔いは移動中に幾らか醒めたのか、普段の彼女に戻っていた。
こんなに酔い覚めが早いのなら、着いてこなくても良かったと後悔する。
三ヶ月の間一緒に飲んでいて、あそこまで酔った姿を見るのは初めてだった。
だから心配して着いてきたのに。
「先輩!飲み足りないですよね?これこの前言ってたおすすめのシャンパンです!一緒に飲みましょう」
目をキラキラさせた成瀬が高そうな瓶を私に見せる。
「先輩がシャンパン好きって言ってたので買っておいたんです」
センスのいい黒のソファは座り心地がよく質がいいのが分かる。
大きな窓からは東京の街並みが一望できた。
星屑のような光が景色を際立たせている。
こんな時間なのに、イルミネーションを彷彿とさせる町は異常だと思う。
そして、そんな景色を美しいと思ってしまう私も相当狂っている。
不幸の上に成り立つ幸せ…。
『乾杯』
「ん!美味しい!」
「良かったです」
「本当に美味しい、けど値段やばそうだね」
「そうですねぇ、それ1杯で軽く3000円くらいですかね」
想像の3倍で持っていたグラスをテーブルに置いた。
お金持ち怖い。
「え、そんなの今開けちゃっていいの?」
「良いんですよ、いつものお礼です」
「お礼される様なことしてないんだけど」
「仕事教えてくれたり、飲みに付き合ってくれてるじゃないですか」
「それは別に普通でしょ」
特別な事をしていないのに、何かを貰ったりするのは調子が狂う。
「まぁ、本当は私が飲みたくて買っただけなんで気にしないでください。一人で飲むには勿体ないので先輩には付き合ってもらいますよ」
シャンパンもほとんど無くなり、程よいくらいに視界が揺らいでいた。
部屋にはプロジェクターが付いていて、よく分からない洋画が流れている。
間接照明は美術館にでも置いてありそうな造形をしていて、オレンジ色の光が心地の良い雰囲気を作り出す。
計算し尽くされた部屋だ。
床には直置きの物はひとつも無く、どこか生活感がない。
成瀬は会社では大雑把な方で、こんな部屋に住んでいるなんて想像できなかった。
シャンパンを飲む彼女の横顔は大人びていて、1つ下とは思えない。
ただの同僚では知り得ない、彼女の顔を知ってしまったような気がして少し落ち着かなかった。
「先輩、顔赤いですよ」
「あれだけ飲んだら赤くもなるでしょ」
「可愛いですね」
『飲みすぎ』
「え?」
誰かの声が聞こえたような気がした。
懐かしい、ずっと聞きたかったあの声。
幻聴だということは分かっている。
それでも、夢で会えた時と同じくらい心が揺らぐ。
「キス、してもいいですか?」
成瀬の白い指が私の頬に触れる。
息をするのと同時に唇が塞がれた。
いつの間にか映画は終わっていて、部屋は静寂を極めていた。
言い訳ができるくらいの条件は揃っていた。
雰囲気がいいとか、お酒を沢山飲んだからとか、そんな具合に。
「好きです、先輩」
成瀬が私に覆いかぶさってくる。
普段は一つにまとめている髪が私に掛かる。
シャンプーの匂いなのか、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
私は成瀬のことが好きなのだろうか。
後輩としては良い子だと思うし、一緒にいても楽しい。
キスも嫌ではなかった。
ただ、どうしようもなく心が動かなかった。
息が切れ始めている成瀬の肩を優しい力で上に押しやる。
「あ、すみません。嫌でしたか?」
眉を下げ、泣きそうな顔になりながら私を見つめてくる。
「ごめん私、成瀬の事好きか分からない」
「正直過ぎますよ、先輩」
「ごめん」
「女だからですか?」
「それは違う、ただ流されるのが嫌なの」
項垂れた栗色の髪が誰かと重なって、目の前の人物を愛おしいと感じてしまった自分に嫌悪感を抱く。
「こういう時は流されてもいいと思うんですけど」
「そう言うの好きじゃないの」
「はぁ、私が本気で先輩のこと好きでよかったですね。そうじゃ無かったら無理やり襲ってましたよ」
「成瀬、それ結構酷い告白のしかただよ」
「告白じゃないですよ。今してもok貰えないことくらい分かってるので」
成瀬が私から視線を逸らす。
その横顔はまた知らない成瀬の顔だった。
こうしてゆっくりと、相手の知らない顔を知っていく。
私は秋の顔をどこまで知っていたのだろうか。
私以上に秋の顔を知っている人は居るのだろうか。
私を好きだと言ってくれている人が目の前にいても、私は秋に会いたいと思ってしまう。
どうして隣に居るのが秋じゃないんだろう、そう思ってしまうのだ。
これが秋だったらとか、そんなくだらないことをキスをされた時にすら考えていた。
本当に最低だ。
「成瀬」
ソファの上で体育座りをしていて、名前を呼んでもこちらを見てくれない。
「成瀬」
「聞こえてますよ、何ですか?」
唇を尖らせ涙目の成瀬は拗ねた子供みたいだ。
「ずっと好きな人がいるの」
「それって叶いそうなんですか?」
「分からない、可能性は多分低い」
今は秋が何処にいるのかも分からない。
もし、再会出来たとしても時間は経ってしまっていた。
秋ほどの魅力がある人が放っておかれるとは思えない。
「不毛じゃないですか。叶わない恋を大切にするのって。」
「そうかな?」
「そうですよ、手に入らないものに焦がれてたって虚しいだけです。想い出なんて消化されていきますよ。忘れろとは言いません、ただそこに希望がないのであれば捨てるのもひとつの手段です。」
秋を思い続けたこの数年間、私は幸せだっただろうか。
何度も探そうか悩んだ。でもその度に、もし秋が私をもう好きじゃなかったらと思うと恐ろしくて何も手につかなかった。
「何となく分かってました。先輩に好きな人がいる事は。その人の事思っているんだろうなって瞬間を何度も見ました。その度に先輩はすごく切ない表情をするんですよ。」
自覚ありましたか?、と言い手を握ってくる。
成瀬が私よりも体温の高い事が手から伝わってくる。
「最初はただ見てるだけでした。でも、先輩が新田さんに告白されて、後任が私になった時思ったんです。この人の役に立ちたい、笑顔が見たい、そばに居たいって。」
さっきまで目も見てくれなかった成瀬が私の目をじっと見つめてくる。
「先輩が次に進む為に、私を利用しても良いんですよ」
肩に重みが加わる。
吐息が首にあたって擽ったい。
腰に手を回され、意識が首に集中する。
私はこの子と寝たら前に進めるのだろうか。
そんな訳ない、分かっている。
一回寝たところで秋への想いが弱まらない事も、むしろ余計に虚しくなる事も。
首から肩へ感覚が移る。
身体は熱を帯び、成瀬との体温差は殆ど感じ無くなっていた。
「今日の事も忘れたくなったら忘れても大丈夫です」
「忘れないよ」
成瀬の首に腕を回しキスをする。
昔、美味しいと感じなかったお酒を美味しいと思うようになった。
いつまでも待つつもりだった。
本当に私を好きでいてくれていたら、秋から連絡が来ると思ってずっと待っていた。
それなのに何年経っても連絡は来なかった。
社会人になって直ぐに連絡は難しいだろうと思い、来年はと期待した。
そして勝手に期待した分裏切られた時の絶望と虚無感は酷かった。
ずっと満たされない心は限界に近かった。
「水野先輩、痛かったですか?」
「え、どうして?」
「どうしてって、泣いてるじゃないですか」
成瀬が私の頬を舐める。親猫が子供を舐めるみたいに丁寧に。
「安心してください、先輩が嫌なことはしません」
成瀬の首筋にホクロがあることに気が付く。
彼女は肌が白いからホクロが出来やすいのかもしれない。
首筋のホクロから胸のホクロまで指を這わせる。
それと同時に成瀬の声が漏れる。
可愛い。
「成瀬、ありがとう」
そう言うと、彼女は泣きそうな顔をして私を強く抱き締めた。
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