零譚(閑話的な散文)視えぬ隣人

──少し長い前置きになってしまうが、そこはどうか我慢して、せめてこの話の最後までは目を通してほしい──


 もしも、普通であったのならば。


 それは例えばの話であり、あるわけもなく、また考えたところでどうしようもない話なのだろうが、それでも時折考えてしまうことがある。

 幼い頃からが視えた。薄暗い廊下の先でうごめく黒いもや。風もないのに揺れるブランコ、山の向こうに消えた大きな人型の黒い影。少し開いた押し入れから覗く影には何かがいて、私を連れて行くその時を今か今かと息を潜めて待っているのだと、本気で思っていた。

 恐ろしかった。少しでも暗がりに近づけば彼等に引っ張られてここではないどこかへ連れていかれ、もう二度と戻っては来られないのかもしれない。常に何かに怯え、怖い怖いと泣く私の肩を、父と母は困ったように眉を下げながら、しかし優しく叩き続けていた。そのせいか幼い記憶の父と母は、眉を少し下げた顔をしている。

 始めは恐ろしいだけのものだったが、次第に彼等が人と同じようにただ在るだけのものがほとんどだということに気が付き始めた。明確な意思を持っているのではなく、偶然的に、何らかの要因が重なって意図せず生まれたもの。であるから、特に理由がなければ人を襲うことも、それどころか人と関わろうともしない。人が町にいるのと同じように、彼等もまたごく普通に町にいる。大多数の視えない人にとっては怪異なぞ存在しないというのが当たり前の認識なので、少数派の視える人が、大多数の視えない人の普通からはじき出されてしまう。哀しいかな、世の中の普通とは多数決によって決められてしまうことが殆どである。

 人と同じようにごく普通に町にいるのに、それらが視える人数の違いで普通が普通でなくなってしまう。普通とはなんと不確かで不安定な物なのだろうか。

 かくいう私も、その普通からはじき出された人間の一人であり、多数の人に構成される普通に憧れる凡人である。視えるだけで何だというのだ。これで何かしらの不思議な力を持っていて(例えば陰陽師の才能があるだとか)払ったり成仏させたりできるのなら、ドラマチックなのかもしれないが、生憎あいにく私にはそんな力はない。自称ではない。とある人物から『お前にはその方面の才能がてんでない。まだ猫に教える方がまし』とはっきりと言われてしまった。おまけに視える人というのはそうでない人と比べて襲われやすいのだという。実際のところ襲われやすいだけの能力。そんな面倒なものならいらなかったとすら思う。

 そんなことを三分の一も進まない国語の宿題を睨み着けながら考える。時間にしておよそ一時間。やる気はとうになく、進まない宿題を前に八つ当たり気味に自分の理不尽の原因を探していると、次第に私のまぶたは重くなり、最終的には始めの深刻そうな問題を放り出し、やってきた睡魔に抗うこともなくそのまま眠り込んでしまった。


 まだ桜も咲き切らない春のことだ。私は庭にある物置小屋へひとり向かっていた。先日亡くなった祖父の遺物が残された物置小屋はまだ手付かずで、整理されてしまう前に、一目祖父の形見を目に焼き付けようと歩いていた。

 古い木造の物置小屋の戸は立て付けが悪く、よわい六つ程の少女がやっと開けれるぐらいで、中は祖父か死んでから誰も踏み入らなかったのか、埃っぽい匂いが充満していた。棚にはよくわからない、古い、一見するとがらくたにしか見えないものが所狭しと並んでいる。私にはその価値がよくわからないので、この物置小屋は古くて暗くて埃っぽい嫌なところだというのが大体の印象であった。

 しかし、いつもなら怖いだけのこの物置小屋も、今日ばかりは祖父の面影を感じ、恐怖よりも切なさが勝った。先に祖父の仏壇に手を合わせてきたせいか、微かに線香の香りが漂っているようだ。棚の中から細長い箱を見つける。祖父がいつも愛用していた煙管キセルが仕舞われている箱だ。そっと蓋を開けると煙管が一本大事そうに収められている。見るからに古いが、大事に使われていたのだろう、全体的に艶々としている。縁側でこれを咥える祖父の背中は大きかった。私の前では決して吸うことはなかったが、祖父はこの煙管を肌身離さず持っていた。使い主のいなくなった煙管はこのままここで誰に手入れもされぬまま、ここに残りやがて忘れられてしまうのだろうか。持ち主のいなくなった煙管を見て、改めて祖父は死んだのだと理解したのだった。


『乳臭い娘が来たと思ったら突然泣き出しおって、一体どうした』


 突然後ろから響く声にはらはらと散っていた涙が止まった。心配よりも呆れが強く出ている、知らない声である。

 突如現れた不審者に、早く逃げなければと思ったが、物置小屋の出口は不審者の背後にあり、隠れようにも狭い物置小屋に隠れられる場所などあるはずもなく、そもそも既に見つかってしまっている。私は煙管を抱えたまま、固く身を縮こませるしかなかった。


「誰? 」

『返せ』


 不審者は私の問いかけに答えることも無く、返せと言ってくる。一瞬何を、と思ったが、直ぐに腕に抱えている煙管のことを言っているのだと理解した。

「これは、おじいちゃんのだから」

『お前の祖父の物である前にそれは私自身だ。知らん奴に好き勝手されているのを眺めるのは少々気分が悪いんでね。お前さんだってそうだろう? 』

「私自身って? 」

『視えるくせに察しの悪い奴だな。私はその煙管の付喪神だよ』


 そこで私は初めて後ろを振り返り、声の主の姿を見た。そして二、三度目を瞬かせた。この物置小屋で昔、茶器が手足を生やして動いているのを見た事がある。祖父にそれを話せば、長く時を経た道具が魂を持って動き始める、それを付喪神と言うのだと教わった。私が知っている付喪神とはその程度だったので目の前の、こんなにもしっかりと人の形をした付喪神に少々面食らってしまったのだ。


『さては信じていないな。結構、すぐに信じられてしまっては逆に心配だ。丁度いい、さっきお前さんが入って来た時に一緒に入り込んだ枝がここにある』


 男が枝を手に持って くるり と回すと、そこには桜の花が咲いていた。更にもう一度回すと梅が、差し出された枝の花に触れ、造花ではないことを確信する。最後にもう一周回すと花は消え、元の枯れ枝に戻った。少なくともこの男、人ではないらしいことは確かである。


『さて、信じてくれたところで話を戻そうか。それを返してくれ、じゃないと私は死んでしまう』

『おじさん、死んじゃうの? 』

『あいつが死んだんだ。使い手のいない煙管などすぐに捨てられてしまうだろう。私たちにとって棄てられるのは死に直結するからな、その前にさっさとここから出て新しい使い手を探すさ』

「棄てられると、死んじゃうの? 』

『お前さん達にとって、棄てるという行為は精々身の回りの整理くらいの行為なんだろうが、道具私達にとって持ち主の有無とはそのまま自身の存在の有無になるからな。持ち主のいない道具など、もはや道具としての存在意義がない。運良く使い手が見つからない限り、棄てられたらそのまま今生ともおさらばだ』

『……死んだらどうなるの? 」

『君は自分が死んだ後のことがわかるのかい? 』


 男は腰をかがめ、こちらに手を差し出している。早く返せということなのだろう。しかし、私とておいそれと祖父の形見である煙管を渡すわけにはいかない。今腕に抱えている煙管が彼自身だとしても、だ。どうしたら問題なくこの煙管を手元に残せるか、少し考えて私は一つの方法を思いついた。


「……私が、あなたの新しい持ち主になるのはだめなの? 」

『はぁ? 』


 頭上から頓狂とんきょうな声が降る。それもそうだろう、二十歳どころか十にも満たない子供が煙管の持ち主になろうと言い出したのだから、


「今はだめだけど大人になったら吸えるし、それに私が持ち主になれば新しく持ち主を探す必要もないよ」

『だとしても、お前さんの父親とか母親だとか、普通先にそっちへ聞くだろう』

「だめだよ、私の家で煙草とかを吸うのはおじいちゃんだけだったもの。それに視える人が持ち主の方が都合がいいことも、ある、んじゃない、かな……」


 最後の声は震えていたと思う、無理な提案だっただろうか。そもそも怪異と会話をするのも初めてなのだ。しばしの沈黙の後、からからと乾いた大きな笑い声が聞こえたかと思うと、目の前の男はいかにも面白いというように口元を押さえていた。


『なるほど、なるほど。それは面白い。最も最も、全くお前さんの言う通り。私は新たに持ち主を探す手間が省けるし、意思疎通ができる持ち主なら色々と便だ。……ふむ、つまり君は私にとっての命の恩人ということになるな』


 想像以上に重く受け止められていたことに困惑する。私にとって個人の持ち物が一つ増えただけで大したことではないのでそこまで重大にとらえなくてもよいのだが。そんな私の困惑を察してなのか、男は続ける。


『さっきも言ったように、棄てられるのは死と同じだからなあ。……そうだ、その視える体質の所為せいで面倒なことになったら、火の粉を払うぐらいはしてやろう』

「あ、ありがとう」


 男は満足げに立ち上がると、「そうだ」とこちらに顔を向ける。


『それなら、改めて自己紹介が必要だな』

「私の名前はゆうこ、ふじさわゆうこ」

『知ってるとも。私はお前さんよりここに長く住んでいるからね。あぁ、私の名だね』


 私の名は──



 『起きろ、いつまで寝ている』


 ふと感じた寒さに目を開く。どうやらだいぶ長い間眠り込んでいたらしく開いたままのノートにはしわが寄り、寝息で僅かに湿っている。寒いと言って締め切っていたはずの窓は開け放たれており、窓から吹き込む風がカーテンを揺らした。頬を撫でる風が微風ではあったが、冬独特の乾いた冷たさで、寝起きでまだ熱っぽい私の頭を冷やし、身震いさせるのには十分であった。


『いつまで寝ているつもりだ。窓もいつまでも締め切っていては気がよどむ。気が澱んでは良くないものが寄って来る。私が居れば心配することもないが、何もないに越したことはないのだ』

「出雲」


 静かだった部屋に低い男の声が響く。声のする方を見れば黒いカットソーに羽織を着て袴を履くという珍妙な恰好の男が数メートル上からこちらを見下ろしていた。彼の伸長が百八十はあるということを考慮しても、およそまともな人であるのなら天井付近から私を見下ろすことなど出来ない。更に言うのなら、彼の足は床にはついていない。つまるところ浮遊しているのだ。天井付近に ふわり と浮かび、彼の手にある煙管から細く紫煙が立ち上り、辺りに微かな線香の香りが立ち込める。こちらを見下ろす三白眼の小さな黒目は呆れの色を隠すことなく滲ませていた。

 言うまでもなく、彼は人ではない。いわく、煙管の付喪神なのだそうだ。本体は細く紫煙を燻らす煙管で、人の姿は仮のものだと。


 視える側であった結果、風変わりな隣人と出会うことがしばし、ある。

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