零譚(閑話的な散文)視えぬ隣人
──少し長い前置きになってしまうが、そこはどうか我慢して、せめてこの話の最後までは目を通してほしい──
一
もしも、普通であったのならば。
それは例えばの話であり、あるわけもなく、また考えたところでどうしようもない話なのだろうが、それでも時折考えてしまうことがある。
幼い頃からそういうものが視えた。薄暗い廊下の先で
恐ろしかった。少しでも暗がりに近づけば彼等に引っ張られてここではないどこかへ連れていかれ、もう二度と戻っては来られないのかもしれない。常に何かに怯え、怖い怖いと泣く私の肩を、父と母は困ったように眉を下げながら、しかし優しく叩き続けていた。そのせいか幼い記憶の父と母は、眉を少し下げた顔をしている。
始めは恐ろしいだけのものだったが、次第に彼等が人と同じようにただ在るだけのものが
人と同じようにごく普通に町にいるのに、それらが視える人数の違いで普通が普通でなくなってしまう。普通とはなんと不確かで不安定な物なのだろうか。
かくいう私も、その普通からはじき出された人間の一人であり、多数の人に構成される普通に憧れる凡人である。視えるだけで何だというのだ。これで何かしらの不思議な力を持っていて(例えば陰陽師の才能があるだとか)払ったり成仏させたりできるのなら、ドラマチックなのかもしれないが、
そんなことを三分の一も進まない国語の宿題を睨み着けながら考える。時間にしておよそ一時間。やる気はとうになく、進まない宿題を前に八つ当たり気味に自分の理不尽の原因を探していると、次第に私の
二
まだ桜も咲き切らない春のことだ。私は庭にある物置小屋へひとり向かっていた。先日亡くなった祖父の遺物が残された物置小屋はまだ手付かずで、整理されてしまう前に、一目祖父の形見を目に焼き付けようと歩いていた。
古い木造の物置小屋の戸は立て付けが悪く、
しかし、いつもなら怖いだけのこの物置小屋も、今日ばかりは祖父の面影を感じ、恐怖よりも切なさが勝った。先に祖父の仏壇に手を合わせてきたせいか、微かに線香の香りが漂っているようだ。棚の中から細長い箱を見つける。祖父がいつも愛用していた
『乳臭い娘が来たと思ったら突然泣き出しおって、一体どうした』
突然後ろから響く声にはらはらと散っていた涙が止まった。心配よりも呆れが強く出ている、知らない声である。
突如現れた不審者に、早く逃げなければと思ったが、物置小屋の出口は不審者の背後にあり、隠れようにも狭い物置小屋に隠れられる場所などあるはずもなく、そもそも既に見つかってしまっている。私は煙管を抱えたまま、固く身を縮こませるしかなかった。
「誰? 」
『返せ』
不審者は私の問いかけに答えることも無く、返せと言ってくる。一瞬何を、と思ったが、直ぐに腕に抱えている煙管のことを言っているのだと理解した。
「これは、おじいちゃんのだから」
『お前の祖父の物である前にそれは私自身だ。知らん奴に好き勝手されているのを眺めるのは少々気分が悪いんでね。お前さんだってそうだろう? 』
「私自身って? 」
『視えるくせに察しの悪い奴だな。私はその煙管の付喪神だよ』
そこで私は初めて後ろを振り返り、声の主の姿を見た。そして二、三度目を瞬かせた。この物置小屋で昔、茶器が手足を生やして動いているのを見た事がある。祖父にそれを話せば、長く時を経た道具が魂を持って動き始める、それを付喪神と言うのだと教わった。私が知っている付喪神とはその程度だったので目の前の、こんなにもしっかりと人の形をした付喪神に少々面食らってしまったのだ。
『さては信じていないな。結構、すぐに信じられてしまっては逆に心配だ。丁度いい、さっきお前さんが入って来た時に一緒に入り込んだ枝がここにある』
男が枝を手に持って くるり と回すと、そこには桜の花が咲いていた。更にもう一度回すと梅が、差し出された枝の花に触れ、造花ではないことを確信する。最後にもう一周回すと花は消え、元の枯れ枝に戻った。少なくともこの男、人ではないらしいことは確かである。
『さて、信じてくれたところで話を戻そうか。それを返してくれ、じゃないと私は死んでしまう』
『おじさん、死んじゃうの? 』
『あいつが死んだんだ。使い手のいない煙管などすぐに捨てられてしまうだろう。私たちにとって棄てられるのは死に直結するからな、その前にさっさとここから出て新しい使い手を探すさ』
「棄てられると、死んじゃうの? 』
『お前さん達にとって、棄てるという行為は精々身の回りの整理くらいの行為なんだろうが、
『……死んだらどうなるの? 」
『君は自分が死んだ後のことがわかるのかい? 』
男は腰をかがめ、こちらに手を差し出している。早く返せということなのだろう。しかし、私とておいそれと祖父の形見である煙管を渡すわけにはいかない。今腕に抱えている煙管が彼自身だとしても、だ。どうしたら問題なくこの煙管を手元に残せるか、少し考えて私は一つの方法を思いついた。
三
「……私が、あなたの新しい持ち主になるのはだめなの? 」
『はぁ? 』
頭上から
「今はだめだけど大人になったら吸えるし、それに私が持ち主になれば新しく持ち主を探す必要もないよ」
『だとしても、お前さんの父親とか母親だとか、普通先にそっちへ聞くだろう』
「だめだよ、私の家で煙草とかを吸うのはおじいちゃんだけだったもの。それに視える人が持ち主の方が都合がいいことも、ある、んじゃない、かな……」
最後の声は震えていたと思う、無理な提案だっただろうか。そもそも怪異と会話をするのも初めてなのだ。しばしの沈黙の後、からからと乾いた大きな笑い声が聞こえたかと思うと、目の前の男はいかにも面白いというように口元を押さえていた。
『なるほど、なるほど。それは面白い。最も最も、全くお前さんの言う通り。私は新たに持ち主を探す手間が省けるし、意思疎通ができる持ち主なら色々と便利だ。……ふむ、つまり君は私にとっての命の恩人ということになるな』
想像以上に重く受け止められていたことに困惑する。私にとって個人の持ち物が一つ増えただけで大したことではないのでそこまで重大にとらえなくてもよいのだが。そんな私の困惑を察してなのか、男は続ける。
『さっきも言ったように、棄てられるのは死と同じだからなあ。……そうだ、その視える体質の
「あ、ありがとう」
男は満足げに立ち上がると、「そうだ」とこちらに顔を向ける。
『それなら、改めて自己紹介が必要だな』
「私の名前はゆうこ、ふじさわゆうこ」
『知ってるとも。私はお前さんよりここに長く住んでいるからね。あぁ、私の名だね』
私の名は──
四
『起きろ、いつまで寝ている』
ふと感じた寒さに目を開く。どうやらだいぶ長い間眠り込んでいたらしく開いたままのノートには
『いつまで寝ているつもりだ。窓もいつまでも締め切っていては気が
「出雲」
静かだった部屋に低い男の声が響く。声のする方を見れば黒いカットソーに羽織を着て袴を履くという珍妙な恰好の男が数メートル上からこちらを見下ろしていた。彼の伸長が百八十はあるということを考慮しても、およそまともな人であるのなら天井付近から私を見下ろすことなど出来ない。更に言うのなら、彼の足は床にはついていない。つまるところ浮遊しているのだ。天井付近に ふわり と浮かび、彼の手にある煙管から細く紫煙が立ち上り、辺りに微かな線香の香りが立ち込める。こちらを見下ろす三白眼の小さな黒目は呆れの色を隠すことなく滲ませていた。
言うまでもなく、彼は人ではない。
視える側であった結果、風変わりな隣人と出会うことがしばし、ある。
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