PHOENIX 3
「素晴らしい。待った甲斐があったってもんだ!」
いつしか顕れた、黒い外套を翻した遊興の徒が満面の笑みを浮かべる。彼が隠しきれぬ喜楽の感情をさらけ出したのはいつ以来だったか。そうだ。ヴェドリが挑んできた時以来だ。久しく、本当に久しく忘れていた心躍る高揚感に、柩の王は酔いしれている。
柏田から見て、およそ一〇メートル――。侵入の際、吸血鬼に会った時に先に取るべき行動を心得ていた柏田の手は、滑らかな動きで懐の拳銃を構え、撃鉄を起こす。照門から照星へ、照星から斃すべき標的へ。撃てば、弾丸は確実に男の心臓を貫くであろう。
「誰ですかね?」
常に無い引き締まった眼光は、睨んだ先にいる吸血鬼が余りに危険な存在だと、彼持ち前の勘が告げた故だ。刑事の堅い問いかけに、吸血鬼は弛く笑いながら応える。
「柩の王、と呼ばれている。彼女の言葉を借りるなら、この匣庭の主だよ」
瞬間、視界から掻き消えた柩の王に、刑事は驚愕と混沌に瞠目した。喩えるなら、コマ飛ばしされたフィルム。一切の挙動すら無く、消失したのだ。
「素晴らしいよ、真木永人くん。私の、退屈な悠久に刹那の遊興を与えてくれないか。さあ、早く」
柏田の斜め後方に位置していたジンに、囁く声の息がかかるほど近くに柩の王は出現していた。
にわかに接近を許した事実に心奪われていても、彼のブラッドテイカーの闘争本能は健在/反射的に、肘をナイフに見立てて振るう。空振り/柩の王は先ほど顕れた位置に戻っていた。
「さあ? もう、謎解きの解答はもらえただろう? あとは戦うだけだ。戦わない、なんて
狂ったように叫ぶ柩の王。待ちわびた娯楽に垂涎しているのだ。狂喜しているのだ。
「シャッ!」
襲い来る柩の王に、ジンは見極めると瞳を見開く/振るわれる豪腕の軌道を読み、すんでのところで回避/勢い余って柩の王の鉄拳は壁面へと激突/並んだ硝子柩が巻き添えになり、虹色の欠片と深紅の美酒を撒き散らす/更に壁面が陥没し、クレーターとなり――。
豪風が彼らを襲った。踏ん張ろうにも、ヒト一人の体重さえも軽々と吹き飛ばすほどの風圧風力。それは生じたクレーターを起点として、周囲を呑み込まんと渦を巻いて吸い寄せてくる。ジンは、風呂の水が渦を描いて流れていく様を思い出していた。
がこ、がこり。陥没を形成していた瓦礫が、黒い闇に引きずり込まれていく。闇の向こうに、幽き光芒が見受けられる。
――まさか、宇宙?
ジンは、にわかにグレートウォールの上から見た景色を思い出した。匣庭――グレートウォール、N市と他の街を隔てる不可視の壁。そして、向こうに見える永久の黒が支配する空間。
「まさか、この街はッ! 宇宙空間ッ!」
そう、N市は宇宙空間に存在していたのだ。
ジンは遂に理解した。何故、太陽を見ることがなかったのか。ここが宇宙空間に建造された街――放牧場であるならば、吸血鬼にとって致命的な害毒など用意するわけがない。
何故、N市の向こうに行けないのか。
N市の規模までが、宇宙コロニーと言うべき街の面積だったからだ。
何故、飛行船を配置し、更に脳内チップで管理していたのか。
当然、家畜の管理という意味もあるだろうが、限定された空間で不測の事態が起こればコロニーが崩壊する恐れがある。
例えば、一つの病原体が蔓延して、都市を壊滅するという事態。防ぐには徹底した管理による統制が必要だ。
なおも深淵の闇に誘おうと風の手が足を引く。必死に冥闇の誘いを拒んで揺れる硝子柩のパイプを見つけ、掴む。生存本能が成したほとんど無意識の行動だった。
ジンは続き、飛ばされてきた美琴の腕を掴む。二人分の質量を一手に担う羽目に陥ったパイプは、更にジンの尋常ではない握力の陵辱も受け、ひび割れ砕けていく。
「う、うわぁあああ…………」
柏田の絶叫が次第に遠くなり、ぷつりと唐突に消えた。
ジンは、先ほどまで話していた者が放逐された事実を理解し、豪風に晒されて低下した体温とは別に肌を粟立てた。唐突に消えた声は音のない真空へと旅立ったことを意味していたのだから。
「…………ザナドゥ」
身も裂かんとする業風の最中、柩の王の声だけがやけにはっきりと響くと、真空の手招きが急速に勢力を弱めていく。
彼の呼びかけに応じたのか、
どう見ても無機物である壁面が生物同様の治癒力で、己の欠けた部分をその淵から徐々に形成していく。如何にも異常極まる現象の答えに――ジンは直感で思い当たった。
無機物が有機生物の挙措で欠損を再生するプロセスはジンにとって既知のものであったからだ。
――吸血機と同じ?
宇宙コロニーであるとすれば、壁面の
やがて、壁面は支配圏を広げ、深黒の
激風に苛まれていた
「逃げるぞ……ッ!」
この場でゼクスヴァンを
即座に決断。
この場で生身で戦っても勝ち目は無い。美琴を連れた状態で、柩の王とは戦えぬ。戦ったとしても、柩の王の膂力は自分を遥かに超えているとブラッドテイカーの本能が告げている。
「おやおや」
柩の王の嘆息の声を置き去りに、ジンは美琴を抱えて一目散に逃走した。逃げるという一点に集中すれば、柩の王に身体能力で劣るジンであっても、そう簡単に捕まりはしない。
「いいだろう。外での決着がご所望か。付き合ってあげよう」
「畜生! 二秒で着け!」
元来た狭い通路をひた走り、硝子のカタコンベに辿り着いた瞬間、ジンはゼクスヴァンの名を叫ぶ。
柩型空間跳躍オプション『空渡り』が追跡していたジンの周囲を精査/顕現に充分な空間を確認/空間跳躍/瞬く間にジン達の頭上に巨大な柩が滲み出る。
「ゼクスヴァァァン!」
ジンの意志を心得ていたゼクスヴァンは『空渡り』の蓋をずらすと、腕をジンと彼に抱えられた美琴へ伸ばし、彼らをすくい上げる。即座に、『空渡り』が再度の空間跳躍に入る。
刹那の後、ジンと美琴は甲山を俯瞰する座標にいた。
山間とあっては、眼下は墨を落とした闇の気配が濃いのだが、一方で鮮明に闇を削るものが一つ。
言わずもがな、麓の吸血鬼の根城――甲山XANADU。闇の世界の住民が、闇間において光を放つ建築物に棲まうなど、とんだ皮肉もあったものだ。
ジンの全身にじゃれつく柩の王の遊興の色が入り混じった殺気。
未だ油断ならざる状況は去っていないと悟り、ゼクスヴァンの
全感覚/吸血鬼に研ぎ澄まされた第六感に到るまでがゼクスヴァンに同調/夜の空の匂いを身体に纏わりつかせて、『空渡り』から飛び上がる。
常よりも鮮明さが増した視界が、いつしか甲山XANADUの屋上に座してこちらを見上げる柩の王を捉えた。拡張された聴覚が、柩の王のつぶやきを輪郭までも伝えてくる。
「さあ、始めようか、ゼクスヴァン? 待たせたな、ザナドゥ」
いつしか聞いた遠雷の唸り。しかし、それは眼下の高層建築物から発せられる
ザナドゥ――甲山XANADU。
XANADUはザナドゥと読むのか、とジンは他人事のように感じた。
コンダクトを振る指揮者に似た、大仰な手の振り。柩の王の指揮に応じ、夜の街の街路灯が空へと浮かび上がる。様々な街路灯が上昇してくる様は、十字架が林立する様を思わせた。
柩の王がゼクスヴァンを指さすと、王の下知を与えられた街路灯が弩弓に放たれた矢の勢いで殺到/街路灯の照明部分を
一角獣の衝角もかくや、螺旋に
さりとて、威力こそあれども夜空の覇者たるゼクスヴァンが一直線に向かってくるだけの矢に遅れを取ろうものか。
黄金粒子の瞬きも鮮やかに、夜鴉は迫る矢の脅威を何ほども感じぬ飛翔で跨ぐ。足元で夜気を貫く鏃が無念の
「!」
ゼクスヴァンを突如覆う影。
自らを差した影にえも言われぬ悪寒を感じたジンは、全速力でゼクスヴァンの身体を翻す。
頭上から墜落する鉄槌は神からの天罰か。
吸血機さえも容易に叩き落とせるに足る質量で、ゼクスヴァンの過去座標を通過したのは、巨大な五指だ。
ゼクスヴァンの宝玉眼が一瞬の内に過ぎ去った五指をつぶさに捉えていた。五指を構成していたのは、
「うっそだろ」
ごちるジンの眼前に更に突きつけられた現実。足元数百メートル下で宝石の絨毯を瞬かせていたN市が、隆起しうごめく。
海港が持ち上がり、淵/波打ち際が次第に五指へと変化していく様は、かつて見たシネマよりも真に迫っていた。
それもそのはず。偽りのものとはいえ、ジンに根付いているN市の姿が変質しているのだ。どこか遠い外国の風景よりも感情に訴えかけてくるのは当然といえよう。
「ザナドゥ。柩の王の吸血機。誰にも見えず、けど誰もが見ている――。その正体はN市という一つの世界」
「月夜視か?」
頭の中で美琴の声が響く。
「私はゼクスヴァンの電脳と乖離された中枢。今、電脳と結合してあなたに呼びかけている」
甲山XANADUの屋上付近から、真っ赤にまばゆい一対の光芒が目を射る。今や、ジンにも理解できた。あれは高層
巨大な、それでも全体の規模から考えれば余りにも慎ましい頭頸部。
屋上――いや、頭部に立つ柩の王が笑みを浮かべ……ゼクスヴァンへと奔る。
宙に浮かばせた瓦礫を飛び石に、空を渡る吸血鬼は胸中に疼く歓喜を隠そうともしない破顔で、漆黒の吸血機に迫る。
援護射撃に街路灯の矢が再び射出/ゼクスヴァンをその場に射止めようと過剰な絨毯掃射を敢行した。
総ては柩の王の計算の基/避けた先に口が裂けんばかりに獰猛な血を啜る鬼が笑っていた。
拳を小指から薬指、薬指から中指、更に人差し指に拇指へと握りこむ。彼の背後より動きに随行して、巨大な建築物造りの五指が握り拳の形をつくった。
そして、柩の王が拳を天から地へと振るう。
帰趨するところは――隕石級の衝撃と破壊力をもつ天よりの罰。寸での際どさで大質量を躱したゼクスヴァンだが、周囲を巻き込む大気の撹拌は流石に避けきれず、機体甲冑がビリビリと震える。
続けざまに鉄拳が今度こそ目障りな羽虫を叩き潰さんと、轟々たる風を絡ませて空を奔る。
「なめるな」
胸部甲冑展開/黄金粒子が燦然とゼクスヴァンを彩る/胸からせり出たのは、吸血鬼にとって覿面な効果をもたらすアレルギー源=銀杙/己の質量を遥かに上回る拳へと、一条の流星となって夜天を翔ける。
必滅武装、串刺公に捧ぐ螺旋銀鍵・
更に、それだけにとどまらず、次々に殺到する拳槌打ちを複雑に軌道を変えて撃ち貫いていく。夜空は今や、ゼクスヴァンの狩り場だ。明らかに質量に優る相手に、一歩も退かず掌中に飛び込み撃破を繰り返す。
「気をつけて。ザナドゥはN市そのもの。N市に存在する総てがザナドゥの支配下よ? つまり――」
美琴の声が契機となったか、ゼクスヴァンを囲む形で八機の吸血機が下界より浮上してきた。それぞれ形状や機体色は異なるものの、ゼクスヴァンに対する敵意の程だけは等しい。
「ハルヴァシオン、メルビスカトル、ノクトブラッスト、千本灰櫻、ダリオスクヮリリス、ンダス・ダス、ノクチュアリェイド」
一機一機視界に収める度に、美琴の機体名を告げる声に乗せて、拡張現実が機体情報を即座によこす。
「キュラバトリントスと同じ操り人形って事か」
「ええ。現存する吸血機総て出してきての大盤振る舞いね」
ゼクスヴァンの五指が黄金光に輝く。
「じゃあ、今更ながら開戦の狼煙を上げるか」
掌を手近の吸血機――メルビスカトルといったか――に向け、ゼクスヴァンは黄金の矢を射出した。
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