I am xxx.

I am xxx. 1

 ふと、ジンは見知らぬ場所で椅子に座っている自分に気づいた。青褪めた炎に、黒塗りの燭台が浮かぶ。闇間をその炎で透かし見れば、自分が立っている場所が洋館の一室を想起させる空間だと認識できた。


 まず、椅子。自分が座っている椅子は一人がけ用の椅子で、これも燭台と合わせているのか艶めいた黒に染まり、ただ、クッションだけが紅の色みを主張している。椅子の下には天鵝絨ベルベットの絨毯が敷かれており、靴を通してさえ、柔らかい質感が感じられそうだ。


 どこからともなく、時計の振り子が揺れる音が聞こえてくる。設えられた調度品も年代を感じさせる作りをしているが、どれもこれも黒い。これが室内の暗さによるものなのか、元々の色味によるものなのか、ジンには判断がつきかねた。


 そして、眼前。先の壁面はなんとか見えるというのに、そこだけはぽっかりと濃度を増した闇が浮いており、何があるのか一切捉えることができない。


 吸血鬼の視力は闇を見通していたはずなのに、何故、この無貌の闇ははっきりと見ることができないのか。


 降って湧いた疑問に、思考を巡らせようとしたところで、にわかに話しかけてくる声が一つ。


「起きたのか」


 つぶやきと共に、青褪めた光がシャワーとなって降り注ぎ、眼前にあった闇を照らす。向き合う形で自分と同じような椅子に座った誰かの姿が露わになったが、顔を伏せているせいで表情はおろか顔立ちも認識できない。


 不意に部屋を照らした光の正体を見極めようと顔を上げると、ジンと見知らぬ誰かの直上に天窓があり、複雑な硝子細工の向こうに青い月が煌々と発光していた。硝子細工を通して、絨毯をスクリーンに映しだされた月光は、三本足の鴉が身をよじって円を描いた形をしていた。


「いよいよ、支配権が危ぶまれてきたな」


 憎々しげに声を吐くと、対面している人影が顔を持ち上げると、必然、相貌が月下にさらけ出された。


「俺?」


 そう、対面側の椅子に座っているのは、幾度と無く――という認識自体が間違っているのかもしれないが――鏡に突き合わせた己の顔をもつ誰かだった。ぼうと灯る鮮血色の瞳、そしてどこまでも深いくらさを持つ瞳孔。なにより、鋭く伸びた乳白色のきばが、彼がヒトを喰うオニだと無言のうちに語りかけてくる。


「そうだよ、〝俺〟」


 ずるりと伸びた犬歯を見せつけ、〝ジン〟が片眉を上げてわらう。


「察しがいいじゃないか」

「このところ、随分な非常識に晒されていてね」


 こめかみを伝う雫の感触に不快感を味わいながら、ジンは虚勢を張って剽げてみせた。


「ふ、それは運が悪い」

「例えば、吸血鬼に襲われるとか、巨大ロボットに乗るとか、N市から出られないとか、――〝自分〟ドッペルゲンガーを見てしまったり……とか? ああ、俺って死ぬんかなぁ」

「ハハッ」


 ジンの言に〝ジン〟が笑みをこぼす。鏡像では断じて無い、自分であるのに自分でない存在が眼の前で笑っている様は、いびつで自身の狂気を疑るも、残念ながら主観的に自らの狂気を証明する手段は持ち合わせていない。


「安心しろよ。俺は――いや『俺達は』、だな――物質世界にいない。〝脳内ここ〟にいる。少なくとも、復体ドッペルゲンガーではないし、仮にそうだとしても死因にはならんさ」


 こめかみを人差し指で軽く数回叩き、〝ジン〟が足を組みかえて言う。


「何度も死ぬような目にあっているんだが?」

「ふむ。そりゃ〝俺〟が原因だな」

「……助けて~! やっぱり死んでまう~! 植物のように穏やかに生きたいだけなのに~!」


 なんなのだ。疫病神のバーゲンセールなのか? 前世でよほどの悪行を重ねてしまったのか? 別に世界に不満などなかったし、自分には特別な力があるとか、十代特有の宿痾しゅくあからは既に快復しているというのに、何故、妄想劇の主人公みたいな馬鹿げた事態に陥る?


 バタバタと椅子で暴れるジンを、痛い身内を見る目で〝ジン〟が眺めている。おそらく、自分が美琴を見る目にもそんな思いが含まれていたのだろう。


 氷点下の眼差しに耐えかねてジンは身を落ち着かせたが、眼前の復体の視線に篭められた思念は変えられようがなかった。


「落ち着いたか?」

「まあ、それなりに。お前……といえばいいのか? とにかく、眼の前の〝俺〟が原因で、俺が――ややこしいな――襲われたってことか?」


 溜め息をついた〝ジン〟が中座していた話を続ける。


「ああ。まず俺達が何なのか、を説明しようか」


 月光が翳ったのか、スポットライトみたく降り注いでいた光の柱の存在感が曖昧になってくる。


「簡単に言えば、俺達は二重人格って奴だ。正確には全く別物だがな。あのいけ好かない柩の王から聞いていただろう? ヒトの脳に刻まれている人格は、硝子柩に収められている間に植え付けられたものだって」


 無言で頷く。


「基本的に人格っていうのは記憶を基に脳が生み出したプログラムだ。〝お前ら〟が当然の事として使用している脳内チップ。あれの本来の機能は脳への記憶の着床なんだが、ヒトに作用はしても吸血鬼には完全に作用しなかったようだ」


 脳裏によぎったのは、電子鍵では拒否された自宅の解錠プロセスだ。


「ブラッドテイカー事件の犯人の足取りが掴めないのも同様の理由だ。まあ、本来、牧羊の管理のためのシステムだからな。吸血鬼に作用しなくても問題はなかったろうな」

「待て。管理用のシステムだと?」

「そうだ。不用意に〝家畜〟の数量を減らす殺人みたいな事件を極力抑え、限定された空間を有効利用できるシステムだ。なんといっても、バイタルから健康状態までモニターできる。よくできたシステムだ」

「マジかよ」


 頭痛を憶えて頭を抱え込むジンの頭上から、更に〝ジン〟は垣間見た世界の裏側を語る。


「マジもマジ。大マジだ」

「つまり、脳内チップはヒトの記憶操作と管理のためのシステムで吸血鬼には効かない?」

「まあ、基本的に吸血鬼は脳内チップなんて使わんだろうしな。例外は、あげはのような牧者ぼくしゃ役くらいのもんじゃないか?」


 言葉を切って、頬杖をついた〝ジン〟が悪魔的な笑みを浮かべた。


 親友――と思い込まされていただけかもしれないが――を手にかけたジンを嘲弄する意図がありありと相貌に現れている。


 悪意に満ち満ちた視線に、我知らず反吐を飲み下す苦い顔になったジンだが、一々反応しては相手を喜ばせるだけと悟り、続きを促す。


「結局何が言いたい?」

「結論を言えば、硝子柩キカイから誕生した吸血鬼――ラミーア・ア・マキーナ。吸血鬼とも喰いの吸血鬼――ブラッドテイカー。両方とも、〝真木永人おれたち〟の事だ。脳内チップで再現された、過去の真木永人まきなジンがお前。そして、吸血鬼の身体をもって産まれたことで、中途半端な脳内チップの影響を受けて、真木永人の記憶と吸血鬼の精神の生得論的基盤が生み出したのが俺だ。すなわち――」


 拇指ぼしを自らに当てて、深紅の瞳を燃やした〝ジン〟を見て、果たして今の自分の瞳は黒か紅か、ジンは鏡を見つめたい気分になった。


「吸血鬼としての〝真木永人おまえ〟だ」



「お、おおう!」


 思わず漏れでた悲鳴もむべなるかな。柏田が目撃したのは隣の楼閣ビルがひとりでに倒壊し、再構築、巨大なわに顎口がくこうへと変化する姿だった。建築素材で構成された鰐は頭蓋だけで宙を漂い、射干玉ぬばたまの巨大ロボット(?)の胸部を噛んだ。ロボットの胸部は金属質でそこいらの建築素材よりも堅牢な造りと思われたが、如何なる仕掛けか土瀝青どれきせいと文字通りの鉄筋の肉と重量鉄骨の顎骨と歯を持つ鰐の顎門あぎとは、予想に反して歯が立っていたらしい。本物のそれと同じ螺旋軌道を描き、土瀝青の鰐はロボットの黒い装甲を噛み千切った。


「……へっ、なんとなくそんな気はしてましたがねェ~」


 ロボットの今しがた喪失した胸部装甲の内側は、鈍色の血管や筋肉、真鍮を思わせる金色の神経が複雑に絡み合い、その有機的な構成物の中心に明らかに人工的な直線を描いたはこがあった。光を反射しない黒い匣は、柏田に西洋の柩を思い起こさせた。ただの匣ではなく柩と感じた最大の理由は、鰐の牙歯きばは匣の表面まで達していたらしく、『中身』を外気に晒していたのだ。『中身』――すなわち。


「……真木永さん」


 露出した匣の中で、ジンが柩の意匠を施された椅子に力なく坐していた。奇妙なのは、首元に突き刺さったコードだ。まるで、集中治療室で医療機器群に取り囲まれる患者だ。両目を閉じて起きる気配が無いジンの姿は、もはや快復の見込みが無いまま鰐に供された生贄か。とはいえ、拳銃程度しか持ち合わせていない柏田が助けに入ったところで無為であるどころか、柏田本人の命が危うい。


「薄情かもしれませんが、ここは静観しかできませんねェ~。悪く思わんで下さい……?」


 眼を見張った。いつしか、ロボットの露出した臓器の上に白い少女がジンを守っているかのように立っていたのだ。

 少女一人程度が鰐を抑止できるとは到底思えなかったのだが、牙歯はそのまま動きを止めていた。


「なかなか、興味深い展開になってきましたなァ」


 連れ合いを無くした楼閣ビルの屋上で、あくまで傍観者の立場で刑事はつぶやいた。




「吸血鬼の〝俺〟……」

「まあ、同じ真木永人同士だ。区別するために、俺はブラッドテイカーと名乗ろうか」


 瞳を見開ききばを舐める〝自分〟――ブラッドテイカーの愉しげな台詞に、遅まきながら気がついた。


「――ブラッドテイカー。そういえば、俺達がブラッドテイカーだと言ってたな? 本当に俺がブラッドテイカーなのか?」

「正確には、〝真木永人おれたちのからだ〟を使った〝ブラッドテイカーオレ〟だがな」


 肘掛けを両拳で叩くが、上質な木材で作られた椅子はびくともしなかった。眼前に座る、鏡の左右対称ではない本当の自分の姿をした〝自分〟が原因で、幾度と無く死にそうな目にあっていたとなれば、眼差しに呪詛を篭めてもむべなるかな。射殺さんと睨むジンに、ブラッドテイカーは全く意にも介さない。


「そう睨むなよ。俺だって悪いとは思っているんだ。だが、身体が一つに心が二つ、しかも吸血鬼殺しの止められない本能付きとあっては……うん、しょうがない。肉食獣が肉を喰うのと同じ。運命だと諦めてくれ」

「ふざけるな。地獄に落ちろ」

「やれやれ、嫌われたもんだな」


 背もたれに体重を任せたブラッドテイカーは、椅子の前脚を浮かせて天井を見上げる。そこでジンは、青褪めた月光を手で翳しているが、はじめにブラッドテイカーが顕れた時よりも月明かりの存在感が薄れていることに気づいた。


「もう、あまり時間がないな」


 つぶやくブラッドテイカーの傍らに、黒塗りの飾り机に古めかしい映写機が載せられている。突如として顕れた映写機は、主が指を鳴らしたのを契機に、カタカタと規則正しくフィルムを巻きながら、指向性が与えられた光をレンズから灯す。指向性をもった光がスクリーンに映像という形で映写される。ブロックノイズとは異なる、糸くずに似たものや砂嵐のような有機的さを感じさせるノイズが浮かんでは消えていく。


「随分古臭いもん使ってるな」

「はは、いいだろ? 部屋の調度に合っていると思わねえか?」


 数字が入った円が表示され、右回りに描線が消えていき、完全に消えると数字が一つ減っていく。映写機同様に古色としたカウントダウンが一〇から次第に減っていき、一となり、そして――。

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