HUMAN CLAD MONSTER

HUMAN CLAD MONSTER 1

「――またかよ」


 意識を取り戻したジンの第一声はもはや恒例となった、ゼクスヴァン搭乗後の気絶に呆れた言葉だった。


 記憶が断絶するに至った経緯や感情を都合よく忘れたジンは、己の肌に刻まれた亀裂に気づかずに立ち上がった。急な姿勢の変化に身体が耐えかねてか、立ちくらみを起こす。


「おっと」


 よろめいた姿勢を即座に正し、ジンは周りを見渡した。周りは、昏い空と地面以外には何もない。塩の匂いを孕んだ風が、ここが海の間近である事実を雄弁に告げていた。


 隔絶された空間だった。果てしなく続く地面は、しかし二方向に平行に伸びゆくのみ。幅は数十メートル程でそこからは切り取られたように、先が見えない。幅を固定され、際限なく続くと思われた地面は、ジンに高架道路か万里の長城を思わせた。彼が眠っていたのはその横幅の中心部だ。


「どこだよ、ここ……」


 あてどなく、地面を横切り端へと向かう。手すりなど気の利いたものは存在しない。元々、高所恐怖症のジンは端へと近づくほどに腰が引けて、ついには四つ手で地を着いた。そのままおっかなびっくり、そろそろと切り取られた空へと近づく。


 誰かに見られたら噴飯物の光景だが、ジンにとって幸運なことに意に介す他人の姿は無い。


「ひ、ひぇ~~~」


 ゼクスヴァンに乗って飛行までしておきながら、とは自分でも思わないでもないが、二〇メートルを誇る巨人の視界と生身の視界は全然違う。ましてや、現実味の無い高空などと違って、こちらは肌に打ち付けられる風が翼の無い矮小なヒトを突き落とそうと、圧倒的な現実感で襲い掛かってくるのだ。


 小動物もかくや、びくつきながら顔を地面の端から出す。


「ぎゃっ!」


 途端、脊髄反射の速やかさで、先程までの牛歩を嘘と言わんばかりの兎歩で両手両足を総動員して後退りした。


 垣間見た、切り取られた端の向こうの景色――。昏い空と墨を溶いたような海が広がり、その向こうに陸地が顔を出すのみの光景だったのだ。ただし、空の近さと相反して、海面からは打つ波に立体感が感じられぬほどに遠い。比較対象が無い以上、完全な当て推量だが数百メートルの高さはあるのではなかろうか。


「おっそろしいなァ!」


 恐怖に粟立つ肌を掌でこすりつけ、ジンは半ば泣き声で叫んだ。


 確かに、二~三階程度の高さから飛び降りても怪我一つなかった身体ではあるが、精神に根ざした恐怖を完全に払拭することはない。況して、流石に数百メートル(多分)の高さでは為す術もなく死ぬ。絶対に死ぬ。死なない理由が見当たらない。


「嘘だろ~。どうしたらいいんだよ。っていうか、ここどこなんだよ、マジでよ~」


「理想郷のはて匣庭はこにわの終着点よ」

「ぎゃぁあ!」


 周囲に誰もいなかったので、自然と独り言が多くなってきたジンの疑問に応える声が一つ。まさか聞かれていたとは思っていなかったジンは、不意討ちに無様な悲鳴を上げてしまった。


 声の方向には、海風にはためく裾を任せた美琴の姿があった。


「お、脅かすな! 月夜視つくよみ! 心臓に悪いんだよ」


 心臓を抑えて息を荒くしているジンを、意味ありげに赤い瞳が見つめる。


「? なんだよ?」

「いいえ……?」


 疑問符が付くような語尾のイントネーションで答えた美琴だが、本人が知ってか知らずかはともかく、そのような返答では逆になにかあると言外に語っているようなものだ。

 ただ、ジンも本人が言いたくなければ、自分がどうしても知りたい時以外ではわざわざ問いただすつもりもない。


「……まあ、いいや。んで、厨二フィルターを通さなかったら、なんて場所なんだ?」

「ちゅっ、……………………グレートウォールの上よ」


 心外だと言わんばかりに仄かに頬を膨らませるも、疑問には答えた。


 ――意外に表情豊かなのかもしれん。


「グレートウォールぅ? グレートウォールって、あのグレートウォールか?」

「貴男の言う〝あの〟がどういう意味かは分からないけど、ここはグレードウォ――」

「ああ、分かった分かった」

「…………」


 少しばかり面倒なやり取りになると予感したジンは、大体のところがわかった段階で美琴の台詞を撃ち切った。不服そうというよりも、むしろ脚本を覚えてきたのに誰かのアドリブで台無しにされた子供といった風に、美琴は少々落ち込んでいた。


 ――面倒なだが、悪いことしたかな。


 流石のジンも、ある程度は付き合ってもバチは当たるまい、と反省した。


「悪い。ここはグレートウォールなんだな? なんで、俺がここにいるんだ?」

「貴方に世界の真実を告げるため」

「あの硝子柩だけじゃまだ不足だってのか?」


 こくりと首肯し、おもむろに美琴は先ほどジンが覗き込んだのとは逆側の壁際を指差した。


「あそこを見れば、意味が分かるわ?」

「ぇえ~~? 高所恐怖症にはめっちゃくちゃ辛いんだけど……?」


「あそこを見れば、意味が分かるわ?」

「いや、だからね。高所きょ――」


「あそこを見れば、意味が分かるわ?」

「高――」


「あそこを見れば、意味が分かるわ?」


 思わず渋面を作るジンだが、美琴はいつになくかたくなだ。もしかすると、先ほどの意趣返しをしているのやもしれぬ。幾重も同じ台詞を繰り返す度に美琴の薄い表情が法悦のそれに変わっていく。


「…………」


 言う通りに渋々、逆側へと歩くジンだが、彼にも些かばかりの見栄はあり、先ほどの四つん這いの無様な姿は見せなかった。しかし、及び腰の歩みもまた充分に無様なものだったが、自分が腰が引けている事実に彼が気付かなかったのは幸いだったかもしれない。

 そして。恐る恐る深淵を覗きこみ、ジンは言葉を無くした。



 子供の頃、割れた氷に引きずり込まれた感触を思い出した。感じた寒さと冷たさが氷に依るものか恐怖に依るものなのか、底なしの水の手に脚を引かれ、そして助けを求める手は冷たく滑らかな氷に阻まれる、あの感覚だ。


 記憶自体が仮初かりそめだとしても、そこにあった感情は自分ではない、過去に存在していた真木永人まきなジンという少年が味わった真実だ。


 深淵から手招きされる恐ろしさを正しく味わいながら、ジンは眼前に呈示された真相を噛み締めていた。


 何も、ない――。あるのは、虚ろな冥闇くらやみに添えられた星々のかそけい瞬き以外には確かなものがない、口を開いた死の世界。


 彼らが立つグレートウォールをさかいとして、その先には虚無の宇宙空間が横たわっていた。


 さながら、実世界と虚世界を分かつ境界線か。いや、死の先に無が待ち受けているのだとしたら、あるいは生と死の地平だろうか。

 うつほが永劫にわたって広がる、有機物無機物の分別なくあまねく総てを根絶する、何もかもがい〝無〟という概念、境地。これを具現化したような景色だとジンは感じていた。


「はは。なあ、これはなんなんだ? 遂に現代科学は仮想を実感できる技術を作り上げたのかァ?」


 乾いた笑い混じりに問いかけるも、痛いくらいの現実味が語る残酷な真実をジンは既に理解していた。


 悪い冗談と肯定してほしいというジンの願いは予想通り破れ、目を伏せて美琴が顔を左右に振って否定を顕した。


「グレートウォールの先には世界は存在しない。ここは無秩序な血みどろの匣庭ガーデン


 理解せずにはいられない光景げんじつに刮目させられたジンの声は荒れ野の如く渇いていた。


「……………………最悪だ」


 今はただ、還りたい。


 世界の淵が揺らめき、形を成していく。滲んだ空間の向こうから、ゼクスヴァンが眠る柩――空渡りが顕現/ビッグウォールの海側の淵につけられた。


 現し世の真相に凍えてしまった後ともあれば、もはや、高所の原初的恐怖さえもジンの感情を寒からしめることはできなかった。


 確かな足取りで漆黒の柩の上に乗る。彼を見送る美琴。彼らの間に交錯するのは沈黙のみだ。


 ジンを乗せた空渡りが少しばかり顔を覗かせている陸地の方向へと飛ぶ寸前、両者の視線が合った。だが、ジンは無言のまま逸し、美琴は視線をそのままに押し黙ったままだった。


 空渡りは緩やかに宙空を泳いだかと思うと、次第に速度を上げて陸地へと消えていった。

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