LESS THAN HUMAN 6

「くっ」


 口に苦いものを感じる。遅々として、しかし着々と距離を詰めてくる鈍色の靄――塵級機械ナノマシンの群れにジンは歯噛みしていた。


 いずれ捕まる――予期していた事実が、ほど近い未来として呈示されている。


 ――まだか……ッ!


 左マニピュレータで左脇に差した鋒両刃造きっさきもろはづくりの刀を逆手に抜く。


 ジンの――希望的観測を多分に含んだ予想では来るべき時は過ぎ去ったはずなのだが、現実はそうそう甘くないのか、じりじりと脚を引こうとする塵級機械ナノマシンの触手に触れるか触れないかの際どい距離を維持するだけで精一杯だ。


 ゼクスヴァンの解析力を超えた先にキュラバトリントスが存在するのだとしたら? ふと胸をかすめる寒い浮遊感を必死に否定し、我武者羅がむしゃらに空の海を泳ぐ。


「!!」


 だが、無情な現実は鈍色の靄がゼクスヴァンの脚に絡みつく未来を選択した。脚部の先が喪失/空戦において不可欠な姿勢制御が乱れる/即座にゼクスヴァンの電脳が対応に追われる/しかし、物質ハード面の瑕疵かし電算ソフト面だけでは早急に覆し難く――。


 均衡性に乱れが生じた機体の制御に要した分、僅かに高度と速度落ちる。そして、この事実は速度面で互角であった両機の勝敗の天秤をキュラバトリントス側に大きく傾ける結果となる。


「     ッ」


 刹那の判断。甦る、氷点下に奔る電光石火の直感。精密機械の冷徹つめたさと本能の灼熱あつさが、ジンの身体を支配する。


 強引に身体を振り/左のマニピュレータで掴んだ鋒両刃造きっさきもろはづくりの刀――小烏丸AMAKUNIの両刃を身体の振りに合わせて投擲とうてき/狙いもそこそこに放たれたAMAKUNIだが、そもそもこれほどの近距離ならば精密な狙撃は必要無い/そして、塵級機械ナノマシンの靄は風に逆らい、更に幾重もの蛇の手を伸ばしていた故に、兇刃きょうじんから身を守らせるのに僅かな遅延タイムラグがあり、加えて――。


 はたせるかな、夜鴉の放った霊刀は鋼の魔術師の靄の陵辱を受けることなく、キュラバトリントスの胸部に突き立てられた。振り返り様の投剣から、その終着までを余すこと無く見届けたジンは、遅ればせながら己の予想が的中した事実を知った。


 ――間に合ったァ……。


 我知らず、ジンは安堵の溜息をついていた。


 是非もない。AMAKUNIの刀身に絡みつかんとした靄が、動きを止めなければ、今頃は鋒両刃造きっさきもろはづくりの刀諸共取り込まれ、分解されている途中だったのだ。


 ゼクスヴァンが解析していた、一つの予想。これこそが、ジンが睨んだ勝利への鳥羽口とばくちだった。


 キュラバトリントスの塵級機械ナノマシンの靄。吸血機という途方も無い科学力の産物も、エネルギー保存の法則の束縛からは未だ脱することはできない。でなければ、癌細胞の如く際限なく増殖/暴走し惑星の塵級機械ナノマシン化――いわゆるグレイ・グーを起こすか、惑星自体をほどいて塵へと還す危険性から確実な制御を必要とされる兵器には使用されないはずだ。すなわち、浮遊する不定形の靄もその恐るべき分解力を発揮するには何かしらのエネルギー――燃料が必要となる。


 キュラバトリントスから木漏れ出る靄のエネルギーはどこから来ているのか。ジンは、ゼクスヴァンのデータから最も乖離した部分――キュラバトリントスの無くなった脚部に注目した。おそらくは、脚部があった部分にエネルギー槽を設置されているのだろうと睨んだ。


 元々あった脚部を省略/元々の機体構成を崩す必要性に迫られた=となれば、鈍色の靄はかなりの暴食なのではないか。


 ジンの予想は的中していた。実際、キュラバトリントスの肥大化した腰部~臀部はエネルギー槽となっており、エネルギーも大量に食う悪食あくじきの靄は今や増設された貯蔵すらも食い尽くしていた。


 必死に時間を稼いだジンにようやく勝利の兆しが見えた瞬間だった。

 動きを止めた靄だが、依然、接触すれば機体をほどかれるであろう。しかし、不定形だった靄が形を固着されている意味は大きい。


「おおおッ!」


 獅子吼ししくを吐き、空を駆ける。選定の聖剣もかくや、キュラバトリントスに突き立てられた鋒両刃造きっさきもろはづくりの霊刀を順手に握る。キュラバトリントスの機体を、黄金粒子を従えて勢いのままに振り切る。


 縦に割ける鋼の魔術師の巨体。尋常ならば、これでついとなるが、キュラバトリントスには操者が存在しなかった。胸部の操縦棺そうじゅうかんを切り裂かれようとも、ここに収まる者がいなければ、吸血機そのものが破壊されたという意味にはならない。


 如何なる理由でキュラバトリントスという例が生まれたのかは、今のジンに知る由もないが、確かなことは、現在のキュラバトリントスは胸部の破壊がそのままジンの勝利に直結しないという事実。

 むしろ、操者という弱点から解放された魔術師は、己自身の義血が尽きるまで、己の機体カラダもしくは電脳アタマが潰えるまで稼働を維持できる。

 ただ、キュラバトリントスが持ちえる魔術ぶそう塵級機械ナノマシンは既に活動を停止しており、たとえ魔術師が倒れ伏すことがなくとも趨勢すうせいは決しているのだが――。


 ならばと言わんばかりに、魔術師は己の唱えた暴食の魔術にその身命を捧げた。


 先の尖った細い指が天に救いを求める亡霊の如く、遥か頭上へと差し伸べられる。否、それは祭壇に供された生贄だった。指が人に喩えるならば頸動脈に当たる箇所を、電算システムの躊躇ためらいの無さで切り飛ばす。

 途端、キュラバトリントスを弾く勢いで義血が噴き出し、夜空に幾重もの弧を描き、動きを止めた塵級機械ナノマシンへと降り注がれた。


 キュラバトリントス本体に流れる義血――そこに含まれるエネルギーが鈍色の靄に再び活力を与えた。不定形の靄の蠢きは、先ほどまでの指向性を与えられたものではなく、むしろ餓鬼の暴食を体現化するが如く、あらゆる獲物を捕食せんと拡散を始めた。そこに、一切の理性はなく、また一切の本能すらない。


 暴走アウト・オブ・コントロール。下知を与えるものがいなくなった以上、鈍色の靄の悪食あくじき振りを制御しうる手段は、ない。


 義血という格別のエネルギーを与えられた塵級機械ナノマシンは、制空圏を着々と伸ばしていった。もはや、靄と呼ぶよりも暗雲と読んだほうが正しいだろう。

 暴走した塵級機械ナノマシンは分別なく触れる万象の構成物をほどいていく。術者であったはずのキュラバトリントスも例外ではなく、呵責無い暴食に呑み込まれ、もはや影さえもこの世のどこにも無い。


 使役者すらも飽くなき食欲のままに呑み下し、版図を広げていく塵級機械ナノマシンの暗雲は次第に地上にも魔の手を下ろしていた。上空はいい。これ以上高度を上げたとしても、塵級機械ナノマシンが捉えるものがあるとすれば、大気圏より先を周回する人工衛星くらいなものだろう。


 術者の義血という極上の贄により狂暴な本性を露わにした暗雲は、流石にグレイ・グーへと到る容量の義血を与えられたわけではないものの、生まれ育った――と、自分のものではない記憶が認識している街をほどき散らすには足るとみられる。


 制御器官キュラバトリントスなき暴食悪食の暗雲は、銀毒の副次的効果はあるにせよ純粋な物理攻撃である『武装形態Mode:串刺公に捧ぐ螺旋銀鍵・剣林地獄ワラキア』は、もはや死中に活を求めることもできない。吶喊とっかんしたところで暗雲は穿つらぬけぬ。


 手に持つAMAKUNIの一振りに焦点を合わせると、ゼクスヴァン内部データが情報伝達酵素を介してジンへと届けられる。


 小烏丸AMAKUNI――無名の吸血鬼の刀匠が鍛えたとされる鴉羽色の鎬地をもつ鋒両刃造きっさきもろはづくりの刀身は、装甲と同じ鳥羽色刃金トバイロノハガネと吸血鬼にとって猛毒に等しい銀の合金で構成されており、これは刃金としての強靭さもさることながら黄金粒子の伝達力が高いという特徴がある。この特徴により鞘に充填させた黄金粒子をしのぎに流し、黄金粒子の推進力を利用し斬撃の速度を向上させている――。


 刹那、ジンの脳裏を稲妻の如き天啓が奔る。


 そして、ジン/ゼクスヴァンはそれの虜になったように、AMAKUNIを納刀した。

 すると、数瞬の後、『絶招Joker:変異型火輪式融解クロウ・墓無き亡者への葬歌アッシュ・トゥ・アッシュ ダスト・トゥ・ダスト』の右マニピュレータが纏っていた、太陽を思わせるまばゆき閃光が鯉口より木漏れ出る。いや、それどころか、更にとどまらずに烈光は鞘全体をも内部から照らし、発熱からか、黒漆の鞘を真っ赤に染めていく。


「まだだ! 足りない! もっと引き出せ!!」


 ジンの咆吼にゼクスヴァンの咆吼が応える。内部の過剰熱量の排熱に、翼の一部が展開/蛇腹剣ガリアンソード状の尾羽――放熱鎖へと変化。粒子の黄金と発熱の紅により、ゼクスヴァンの八咫烏やたがすの威容は今や、金鵄きんしのそれ、或いは放熱鎖の尾羽もあって鳳凰のそれだ。


 帯びていたAMAKUNIが反転/刃を下としたく形へ/柄に左マニピュレータをそっと添え、ゼクスヴァンは若干前屈姿勢へ移行/一瞬へと最速トップスピードへと加速する意志も顕わにした。


 本来ならば、ここまであからさまな構えは狙いも悟られる悪手の極みと言えるが、相手が暴走の渦中にあり暴食の限りを尽くす塵級機械ナノマシンの集合体とあらば、そのような予測など望むべくもない。そもそも、状況を判じられる判断中枢たる電脳すら持たないのだ。


 呼気を吐き出し、集中力に視界が狭まっていく。支配圏を広げていく暗雲を構成する塵級機械ナノマシンの一つ一つは見えじとも、寄り添い蠢動しゅんどうする単位が理解できてくる。


 その、繊細にして鋭敏な感覚を更に研ぎ澄まし、しかし、ジン/ゼクスヴァンは脱力していた。


 あまねく森羅万象を貪ろうと、暗雲がその濃さと範囲を暴走する食欲に任せるままに増していく。


 決着は、近い。




「魅せてくれるな、ラミーア・ア・マキーナ。見ろよ、まるで極彩色の不死鳥のようじゃあないか?」


 愉しげに、心底愉しげに柩の王は、手放しで賞賛の拍手を叩く。美しい相貌に貼り付いた表情は、幼子のように無邪気な笑みだ。


 上空を眺めると、かなりの高度であるにも関わらず、紅と黄金の入り混じった八咫烏の神々しい姿がはっきりと見えた。放熱鎖の一本一本まで詳らかに、夜闇の中でより煌々と輝きを増している。


「こりゃ、キュラバトリントスはダメだな。ザナドゥ、悪いな。力不足だったようだ」


 空を遠雷に似たとどろきが渡った。そこに含まれた不服の響きを察することができるのは、柩の王以外では月夜視美琴つくよみみことくらいなものだろう。


「お気に召したのなら何よりね?」


 口から滑り出たのは平坦な声色だったが、その無味乾燥な音に反して、美琴の心は千々に乱れていた。


 ――あり得ない。


 朝焼けに燃える鴉の如き、ゼクスヴァンの様相。煌々と太陽の輝きを一身に放つ、吸血鬼の天敵たる姿こそは、ゼクスヴァン・オーバーロード。太陰の徒が触れようものなら即座に燃やし灰へと変える、太陽よりの使者である正体を顕わとした、最奥の必滅形態だ。


 しかし、尋常ならば、システム上の枷のために現状では力を発揮できないはずの形態である。当然、現状のそれは本来の姿ではなく、無理矢理にシステム開放した不完全体だ。知り得ようとも、そうでなくとも、禁断を侵すツケはいずれジンに振りかかるであろう。


 禁断――そもそもにおいて、ゼクスヴァンの兵装は対吸血鬼に限定されている。致命的なアレルギーを引き起こす銀で鍛造された杙、撒き散らす黄金粒子は太陽の火の粉、身を焼きつくす光の矢。いずれも吸血鬼が忌避する類のものだ。


 そして、吸血鬼にとって好ましからざるのは何も兵装に限った話ではなく、その操縦棺そうじゅうかんに眠るびともまた猛毒の跳梁を知らず知らずのうちに受け入れているのだ。

 血中の情報伝達酵素を介して接続されているゼクスヴァンの義血には、全身に運搬される黄金粒子が大量に含まれている。勿論直接接続されているのではないにせよ、微々たる影響は否定出来ない。そして、微量とはいえど吸血鬼にとっては身を灼く業火には違いない。


 まして、通常機動ならともかく、連続して臨界点付近を綱渡りしているような運用が連夜、だ。通常の吸血鬼ならばとうに絶命していてもおかしくない状況なのだが、ジンが未だ健在であるのは硝子柩由来の吸血鬼だからなのではなく、彼が完全に吸血鬼として目覚めていなかったからこそだ。


 だが、それも今夜限り。今宵、事故とはいえヒトの血を呑んだジンは吸血鬼として裏返った。今後、精神がジン――ヒト側を保つか〝彼〟――吸血鬼側へと転化するかは別にして、彼の身体は既に吸血鬼そのものの属性へと裏返ってしまった。


 ――やめて……。死んでしまう……。


 ゼクスヴァンがオーバーロードへ到ると、飽和した黄金粒子が機体内外を支配する。それは閉鎖された操縦棺そうじゅうかんも例外ではなく、隔壁を赤熱化してじわりじわりと木漏れ入る。高濃度の黄金粒子に晒されるのであれば、ラミーア・ア・マーキナとあっても〝安全機構〟が必要であり、それがオーバーロード形態への解除キーとなっているのだが――。


 燦々さんさんと真夜中に発生した小太陽は、少女の心の声に貸す耳もなく、ただ空に己の覇を刻んでいた。




 そして、遂に暗雲と金鵄きんしが交錯する時が訪れた。暗雲が伸ばした手がゼクスヴァンの間合いへと侵入/した瞬間。


「! っアアッ!」


 気合一閃。


 裂帛の気迫を受けたゼクスヴァンの宝玉眼がより一層の閃光を放つ/金鵄きんしが残像を道連れに天をはしったと同時、天を地から一直線に昇りゆく黄金の描線が、夜闇を二つに分かつ。


 瞠目すべき、荘厳たる天宙を支える柱の正体は、鞘から解き放たれたAMAKUNIの輝跡だった。

 逆手で握られたAMAKUNIは半月を描き、更に黄金の閃光もまばゆい刀身は切っ先を超えて、実に数百メートルの規模に渡る光刃で闇間を斬り裂いたのだ。


 やたら危険なまでの距離にまで接近してでの邪道剣術、逆手居合――逆手一文字。正道である順手の居合には、間合い/隙/精確さ/描く軌道の多彩さ/続く二の太刀の自在さのことごとくで後塵こうじんを拝す逆手の居合だが、剣速の一点に絞って見てれば、順手のそれを上回る速度を誇る。


 二の太刀を考えなければ振り切りで優る逆手一文字は、まさに一撃必殺、まさに一刀両断の気概で放たれ、見事、塵級機械ナノマシンの暗雲を光刃で払い斬った。雲と空を真っ二つに割る偉業は、天地を分け放った創造主の業か、海を縦に割った聖者の業か。


 そして、刮目すべきAMAKUNIの一刀は、暗雲に格別の効果を及ぼしていた。破断面から霧へと還るかのように、暗雲がさらさらと宙へ溶けていく。元々が、吸血機の武装たる暗雲もまた、吸血機本体同様に太陽光に灼かれれば溶けて消える宿命さだめを背負っている。


 太陽に等しい圧縮黄金粒子の光刃にかかれば、畢竟ひっきょう、光の中に溺れ消えるは当然の話だ。ましてや、『絶招Joker:変異型火輪式融解クロウ・墓無き亡者への葬歌アッシュ・トゥ・アッシュ ダスト・トゥ・ダスト』と同様――いや、これを超える粒子放出量ともなれば、暴食の暗雲を貪るのも容易い。


 斬り裂かれた暗雲が大気に溶け、次第に濃度をなくしていく中で黄金と紅に染まったゼクスヴァンがゆっくりと元の濡鴉色へと戻っていく。


 暗雲が去った後には、闇夜に染みこみそうな八咫烏の威容だけが残った。




 黄金粒子の霧を漂わせつつ、ゼクスヴァンが夜空をたどたどしく降下する。喩えるならば、生まれて初めて梯子をおっかなびっくり降りている印象か。


 むべなるかな、金鵄炉の生産量を上回るのはおろか、貯蓄していた黄金粒子さえも底をつき、今のゼクスヴァンには満足な機動など望むべくもない。


 危うい挙措で球場へと舞い戻ったゼクスヴァンが地を踏みしめた瞬間、いよいよもって黄金粒子エネルギーが尽きたらしく、ともすれば意志に反して眠りにつく身体を押しとどめているかのようで――漆黒の巨人がかつて持っていた確固たる威風は如何にも頼りない姿へと変化していた。


 操縦棺そうじゅうかんから開放されたジンもまた消耗激しく、満足に己の脚で立てぬほどに憔悴しきっていた。四つん這いで、己の額から滴り落ちる汗が黒土になお黒い花を咲かす様を、息も荒く見つめるのみだ。


 突風が走り抜けた。突風の正体は、天へと戻っていくゼクスヴァンの猛烈な勢いに圧された大気の悲鳴だ。どうやら金鵄炉の黄金粒子生産量が帰還のための粒子量を確保するまでに回復したとみえる。


 夜空に溶けるまさしく闇夜の鴉が去ると、それを皮切りに雑踏の気配が復活した。


 にわかに、球場の外側から音が芽吹き、絶対零時の終焉を知らせる。今宵もどうにか闇夜の地獄をくぐり抜けたようだ。ただ、いつ絶対零時に魔酔い込んだのか、ジンはついに思い出すことはなかった。知らぬのは本人ばかり、この度の絶対零時を引き起こしたのが自分だと、彼が気づく日が来るのかどうか。


「……あ?」


 呆けた声は、四つん這いになった自分の手の甲を改めて認めた瞬間に発せられた。がさりとひび割れた肌荒れが両手の甲に刻まれていたのだ。あたかも、乾燥しきって亀裂が生じた荒野のように、だ。


 鏡に映った自分の顔よりも慣れ親しんでいるはずの手が見慣れたそれではない。ひやり、心中が生んだ寒気が体の芯を駆け登る。感触を確かめるように指をこすると、はさらと白い灰が地に落ちた。


 見れば、身体のそこらかしこにひび割れの断裂が存在していた。水気はあるにも関わらず、ひび割れた肌はどこかいびつで、ジンの心中にえも言われぬ不安を呼び起こす。


 肌のクレバスの底からは血液やうみの類は一切なく、底抜けの冥闇ぜつぼうジンを覗きこんでいるかに感じられる。


 ここに、彼の姿を映す鏡やそれに類するものがあれば気づけただろう。ジンの相貌を縦断する亀裂――額から左眼の端付近へと抜け、更に頬を避ける描線で首で止まった亀裂を。


 乾燥によるものではない肌の断裂の正体こそ、吸血鬼がゼクスヴァン・オーバーロードを行使した際の代償だ。


 今のジンは知らない。ただ、本能に依るものなのか、偶然なのか……。自然と左手で亀裂のいった顔の左半分を覆い隠し、ジンは仰向けに倒れ込んだ。奇しくも、そこはピッチャーマウンドで、彼はグラウンドで一番高い部分に位置していたのだ。


 眼前には藍色の雲がただよう夜空、足元は地のあしがかりがない。擬似的な宇宙空間での浮遊。


 いろいろ考えることばかりが積り、ジンは発狂寸前だった。不可解さと意味の不明瞭さに翻弄されるばかりのジンには、肉体的は言うに及ばず精神的にもかなりの負担を敷いていたらしい。


 重さすら感じることなく、ジンの瞼は閉じられ、戦士はしばしの休息に疲れた身体を眠りに委ねる。

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