LESS THAN HUMAN 3

「然り」


 にわかに耳に届いた声は、自分たちが立っている桟橋の向こう、硝子柩の群れが並んだ中にぽっかりと空いた、どこへと続いているかも知れぬ開口部から聞こえてきた。


 見れば、距離が離れていてもそれと判る青白い顔と妖気を帯びた血色の瞳、そして黒い二重マントと山高帽――絶対零時の追跡者の一人だ。嗜虐の予感に歯を剥くが如く笑みに、てらてらと濡れ光る剣歯が伸びる。


「絶対零時の継嗣……」

「ほう、なかなか粋な呼び名を」


 彼を認めた美琴のつぶやきに、追跡者――絶対零時の継嗣は吐息を呀に当て、猫科猛獣の威嚇じみた高く鳴いた。背筋を曲げ、腕はだらりと脱力し重力に任せた絶対零時の継嗣の男は、今にも飛びかからんと身構える。


 そう見た瞬間、距離にして優に一〇メートルはある空間を一息に埋め、男が伸びた爪をジンの頭蓋目がけて突き立てにきていた。息を呑む暇もあればこそ、肉体反射に任せるままに顔をそらすと、脅威の爪撃はジンの顔の皮一枚をかすめて虚空を切った。


 瞬間にして距離を詰めたからくりは、男の尋常ならざる脚力による跳躍だった。男はジンの頭上を飛び越える軌道で強襲し、そのまま開口部からジンの立っている桟橋の中央を挟んで反対側の硝子柩に着地した。


 吸血鬼のまさしく人外の膂力に、硝子柩の脆い外殻が耐え切れようものか。畢竟ひっきょう、着地点となった哀れな硝子細工の柩は、中身もろとも光を孕んで虹色となった欠片と体液を飛散させる。氷のつぶてのような硝子と濃厚な血が同時に空を舞う姿は、極寒の鉢特摩はどまに咲く六花むつのはなと紅蓮を思わせた。


 この刹那の万華鏡とも言える霊妙な色景色に見とれたせいで、次の絶対零時の継嗣の動きにジンの反応が一瞬遅れた。


「はっ!?」


 続く男の行動は地を舐める低姿勢の突進だ。これも凄まじく速く、万華鏡に心奪われてから反応までの遅滞タイムラグが致命的な隙となった。


「ぐっ……!」


 姿勢は低いがしなる長い腕はジンの頭を余裕でわし掴み、もう一方の腕は胴を抱え、そのまま速度を維持して桟橋を渡る。突進の衝撃に肺の中の空気を押し出され、ジンの肉体のレスポンスがワンテンポ遅れる。そして、それだけの時間を男に与えてしまった/すなわち、桟橋を走破するに充分な時間/導き出される答えは――。


 硝子柩との衝突にほかならない。中で眠る人間に一切頓着する心遣いなどあろうはずもなく、絶対零時の継嗣は硝子の檻を破砕する槌にジンを見立てて、脆い柩へと叩き込んだ。


 衝撃/ブレる視界/激痛に軋む頭蓋骨/引き伸ばされる長くない時間/視界の体感が加速する代わりに音が消え/割れ砕ける硝子に閉じ込められていく錯覚/まるで凍った湖が割れて水面に引きずり込まれているような/背後に熱を感じ/トマトが潰れるのに近い感触/弾ける赤い液/硝子と混ざり、透けた欠片と深紅の飛沫が宝石みたく/背中に少し固い何かが当たり、そして折れていく/赤い葡萄酒ワインに溺れされ/口に侵入し――。


「あるべき姿に還れ、ラミーア・ア・マキーナ」


 音が失われた世界では声も聞こえなかったが、男の紡いだ言葉だけは――読唇術の心得などなかったが、理解できない意味とは別で認識はできた。

 ……ごくり。口中で水気を感じ、我知らず、乾いた喉を潤すために嚥下えんかする。


 途端、心臓の鼓動がひときわ高鳴った。脈打つ心臓の身体ごと叩きつける鼓動はひどく熱く、まるで溶岩のようで、心臓はおろか血管の隅々に到るまで燃えるのではないかとジンに思わせた。


 口から侵入し、今や血管を巡る濃密な他人の血はジンの肉体に劇的な効果をもたらした。肉が、骨が、人あらざるものへと置換されていく感覚に、ジンの背筋を怖気という水が伝い落ちる。熱が身体を支配し、血が沸騰していく。


 その中でも、最も明確に変化したのは色境しききょうだった。

 視界が、どこか今までの世界観と異なる。例えるならば、紗幕を剥がされた明瞭さだ。まるで、これまで見てきた世界が否定されているかのようで――。

 今では、青白い男の血管に、奪いとったヒトの血が流れる様がまざまざと透けて見える。


 ――こ、これ…………は?


 口中に疼く痒みの正体は、自らの犬歯の伸びに歯肉が押し広げられているからだ。通常ならば激痛を伴うであろう異常にして急激な歯の成長だが、それを支える歯茎は裂かれる苦痛に絶叫するどころか、鈍い痒み程度にしか感じていないというのか。


 逞しく循環する血液に呼応して、自分の黒い瞳が充血して赤色に染まっていく様を、ジンは見えもしないというのに明敏に悟っていた。


「がぁぁああああああッ!」


 我知らず、吐き出した声の塊は叫びと呼ぶよりも吼えとする方が正しい。それも、自分の知る――自分が普段聴いている自分の声では、ない。奇妙な響きを孕んだ、ヒト型吸血動物の咆吼だ。

 思えば、先程まで万力もかくやといった握力で締め付けられ、骨ごと悲鳴をあげていた頭蓋も、今は沈黙するばかりだ。


 四肢に意識を移せば、既に自由を取り戻しているのが把握できた。

 頭蓋を締めつける男の腕を右手で握りしめる。


「む、ぬううう……」


 握った瞬間、男の腕が返す感触で、ジンは男の尋常ならざる膂力を既に自分が上回っている事実を察していた。力を込めれば、反比例して頭蓋の圧迫が弛む。


「キシャッ!」


 更に握力を加えると、腕を圧潰する圧力に耐えかねた男が、奇声を上げて研ぎ澄まされた爪をジンの腹部へ突く。指の隙間からそれを認めると、左手でブンディ・ダガーの刃となった揃い合った鋭い爪を払いのける。


 苦し紛れの、命中には程遠い一撃だったが、男が狙った効果は覿面てきめんにしてなった。防御に割かれたジンの思考が右手の拘束を弛め、絶対零時の継嗣は骨まで響く手錠からまんまと逃げおおせた。


 とはいえ、その顔に余裕の色は無い。泡を食って後退するコートの黒い裾が翼のはためきを見せた。


 走り出しはおろか、距離を詰めるに到るまでついぞ瞳に捉えることが叶わなかった黒い死神の動きを、信じられぬと目を剥いた愕然がくぜんたる表情までつぶさに見て取れる。


「……ハハッ」


 爽快感と開放感、そして超越の絶頂にジンの身体が打ち震える。既に戦いの趨勢すうせいは語るまでもない。予感、或いは確信として胸に抱く。


 ――俺はこいつよりも強い。


 同時に、自分が人外の存在へと裏返ったヽヽヽヽ哀しさとやるせなさが微量、胸中を占める成分に含まれる。


 血精とでも呼べようか。アルコールの鈍化に似て非なる、または麻薬に壊される脳の絶叫がもたらす全能感に似ているのか。吸血に伴った危険な高揚にジンは完全に酔いしれていた。


 世界総てのものが、俺の慈悲なる陵辱を与えられるのを待ちわびている――。脳裏をよぎる、そんな狂った発想すら、今では至極当然の摂理として受け止めていた。


「来なよ、遊んでやるよ」


 ジンであってジンで無い、名も無き吸血鬼と化した〝彼〟は今や、ジンの記憶をもつ一己の怪物だった。


「シャァァァァ!」


 絶対零時の継嗣の威嚇の吐息すら、嗜虐の予感を心待ちにしている〝彼〟には、美女との睦言のように心地よい。応えてやるのが礼儀と、ぞろりと伸び切った剣歯を笛に見立てて吐息を乗せる。


「シィィィィィィィィ……」


 裏返ったばかりとは思えない、実に堂に入った吸血鬼振りである。

 吸血鬼同士の闘争本能が知らず知らずに示し合わせていたのだろうか。無言の了解と共に同時に桟橋を趨った。


 駆け抜けていく。走破が生み出した風圧が髪を逆立て、鼓膜が大気と擦過する音色に震える。獰猛な笑みを浮かべ、倒れこむ勢いを糧とした怒涛の速度域は、無論ヒトの及ぶ境地に無い。

 そして、高速の世界に〝彼〟の動体視力は十全に対応していた。


 桟橋の中心――男が現れるまで自分が立っていた場所に、変わらず佇立している美琴の痛ましいものを見る悲しげな表情が垣間見えた。


 猛獣もかくや、絶対零時の継嗣の技能の恩恵も武芸の心得も見えぬ咬みつきは、卓越した身体能力により完全に威力が収束されていなかろうと必殺性をもっている。影すら追いつけぬ豪速の不可視性をもっている。


 しかし、それは所詮ヒトの身であれば……こそだ。


 〝彼〟の動態視力は絶対零時の継嗣の一挙一動を余すことなく捉え、肉体は意識に先んじて対応する挙動に移っていた。


 左手を男の側頭部に添えると、力の方向性を誘導。いなされ、男の動きが本人の描いた仮想のレールから外れる。突進の勢いの殆どを誘導された絶対零時の継嗣の鼻面を〝彼〟の膝が迎え入れる。


 既に、重心の均衡を欠いた絶対零時の継嗣がこれを回避できるはずもない。


「ギャッ!」


 おぞましくも端正な顔立ちが血に染められるも、〝彼〟はそれで容赦の手を弛めるわけもない。次いで腕を取り、均衡を取り戻そうとする身体の挙措を利用/絶対零時の継嗣の過剰な膂力は自らを勢いよく撥ねる。腕を捻りつつ、重力方向へ――。頭蓋を固い桟橋の床面に叩きつける。


 かくも美事な手並みは喧嘩も碌にしたことがない、かつてのジンには到底及ぶべくもない。ゼクスヴァンの記憶素子から情報伝達酵素を介して脳に打ち込まれた、動作プログラムが〝彼〟の五体を効率的に駆動させたのだ。


「ふ、ふはっ。ふはは」


 先ほどまで泰然としていた男が地べたを舐める姿は、なかなか見どころのある爽快な眺めだった。嘲りにこみ上げる嗤いがあふれる。


 哄笑もそのままに貫手を男の心臓に突き立てる。ほどなく、男は蒼い炎に溶けて灰へと変わっていく。


「はは……は……?」


 継続する高笑いだったが、充分な血量を取り入れていなかった〝彼〟は、絶対零時の継嗣を超える身体能力と通常の吸血鬼が身に収めようはずもない武技を使いこなしていたものの、吸血鬼としては半端者だったらしい。高揚が水が引く勢いで去り、〝彼〟はジンに立ち戻った。


「……俺、は……?」


 異常に汲み上げられた身体能力と、それに引きずられる形となった精神。窮地を脱したのはいいが、知らぬ自分自身に戸惑うのも仕方が無きことだ。


「お見事お見事。実に見事な手前だ」


 亡骸と化した絶対零時の継嗣が青白い炎に包まれて灰燼へと還る向こう側、拍手喝采する男の姿に美琴がつぶやく。


「……柩の王」


 癖のある髪は一歩間違えればまとまりのない印象を与えかねないのだが、その黒髪は不思議と散らかった様子はなく、玄妙なつやがあった。色気のある黒髪の下の顔立ちは端正というよりは酷く現実感の無い美しさで、生物特有のが見受けられない。インバネスコートとスーツに身を包んではいるが、さながら理想の肉体を削りだした彫刻の肉体美は隠せない。


 柩の王と呼ばれた美丈夫が血振りした腕から、床面に一直線に赤い花が植えられる。血の花をまき散らし、艶然と笑みを浮かべる男の顔にジンは見覚えがあった。


「久しぶりだね、ラミーア・ア・マキーナ。真木永人まきなジンくん?」


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