LESS THAN HUMAN 2

 彼らが歩いている通路は素っ気ないコンクリート打ち放しで、どこか跫音あしおとの響きもどこか陰気さを漂わせている。また、通路の隅には部材が積まれており、ここが観客に供する目的で設けられたのではない事実を無言で語っていた。内部の人間だけが使用する通路ともなれば、清潔さなど二の次で、とにかく使い勝手こそ優先されるのは当然のことだろう。通路の端に落ちた綿埃を見ながら、ジンの脳裏にそんな益体もない考えがよぎった。


 美琴に抱えられたジンは、お世辞にも整然としているとは言いがたい、搬入路とおぼしい通路を歩いていた。


 自分よりも頭ひとつほど小さい少女に抱き抱えられながら歩くというのは、なかなかに気恥ずかしいものがあり押し黙るしかなかったのだが、今に到るまでジンが無口になっているのは、それだけが原因ではなかった。


 というのも、美琴の髪から立ち上るかぐわしい香りが、さきほどからジンの鼻孔を刺激してくるのだ。石鹸にも似た控えめな、それでいて花の爽やかさを閉じ込めた薫香は、脳の皺に沁み渡っていき、彼を香境だけで陶酔に浸らせる。


 のみならず、時折やわい髪がジンをくすぐる。白い髪は艶がないように見えて、実際は常に水を含んでいると錯覚せしめるほどに滑らかな髪肌の、光の飛沫を散らすつややかさがあった。肌をくすぐられるたびに、背筋を水がさかのぼる感触が快感を伴って襲い掛かってくる。


 権蔵との戦いを経て沈鬱に落とされたとはいえ、人間、感情が長続きするものでもないらしい。それとも、十代の少年がもつ異性への興味が感情よりも先んじるのか。


 自分の現金さに内心呆れつつも、だが、ジンの心の一部は『良し』とつぶやく。


 確かに、悲嘆はあった。絶望も味わった。断絶し、終わりを迎えた友情は二度と戻らない。ジンが望んでも、それは泡沫へと化し、はじけて消えてしまってもう二度と戻らない。ジンができることと言えば、潰えた友情の記憶を偲ぶくらいのことだ。


 しかし、ジンは生きているのだ。ならば、生きている限り、生き続けなければいけない。死んだ者の代わり――など、キレイ事を言うつもりなど毛頭ない。ただ、自分が生きていたい、死にたくない。この単純な望みのままに、ジンの心は生き続けようとしている。


 自分が馬鹿であることは自覚している。大して自慢できることもないかもしれない。しかし、ジンはそんな己が好きだった。馬鹿であるならば馬鹿のままで。酸いも甘いも噛み分けた大人がどう言うのかは分からない。ただ、真木永人まきなジンという少年は、到らぬならば到らぬままの自分を好いていた。


 そして、残酷な考えではあったが、オガという親友を失くした自分が、オガを殺した権蔵という親友を殺した自分が、それでも自分という存在を保っているという事実に――自分が好きな己を保っている事実に、彼の心は『良し』と結論づけたのだ。


 いつか、親友をなくした世界に再び慟哭するかもしれない。いつか、親友を手にかけた事実が再び自分を断罪するかもしれない。だが、それも是非もないことだ。いずれにせよ、ジンはこれらを胸に生きていくのみだ。そして、贖罪の時が来たのなら――。


「ここよ」


 美琴の声がジンの思考を止めた。思考に意識を裂かれている間に、いつしか通路の突き当りまで辿り着いていたらしい。眼前、通路の終着地には木製のセンターオープン式の引き戸が、重厚な貫禄で彼らを見下ろしていた。陰鬱の気配が漂動している薄汚れたコンクリート剥き出しの通路にあっては、地下墓地カタコンベの棺桶じみた不気味さとなって映る。


 一、二世紀ほど遡った年代の手動式タイプライターを思わせる押しボタンが一つ、引き戸のほど近くに設えられている。引き戸の上には、真鍮製の半円形に針が付いた時計じみたオブジェがある。


 写真でしか見たことがなかったが、これは――かなり古い形式のエレベーターだ。とても、近年に改修された球場にあるとは思えない、古色蒼然としたエレベーターは平成というよりは、明治や大正を連想させる、遺響いきょうの趣きが感じられる。


 美琴がボタンを押すと、扉の向こうから確かに存在を意識させられる、かごが動く音が聞こえてきた。レトロな見た目に違わない金属が噛み合うような音だ。エレベーターは現代のものと異なって静粛性はそれほど考慮されていないらしい。


 やがて、引き戸が開かれると、深紅の天鵞絨ベルベットが見目麗しい、かご内部が姿を現した。例えるなら、高級ホテルのそれか。深い紅朱は天鵞絨ベルベットに強烈な印象を与えはしたものの、決して華美なだけではない雅趣漂う気品がたしかに存在していた。


 美琴に促されるまま、エレベーターに乗り込むと、天鵞絨ベルベットが固い靴底を静やかに受け止める。パネルを見れば、階数ボタンは二つしか存在しなかった。パネル上部にも半円状の階表示があり、針は上階を示していたことから、このエレベーターにとって今の階が最上階扱なのだろう。


 今のジンには助かるが、たかだか二階分ならばエレベーターなど無駄なのではないか、と少々勿体無さを感じたが、彼のそんな印象はしばらく後で否定されることとなる。


 美琴が押しボタンの下を押すと、エレベーターが多少軋む音を立てながらゆるゆる降下していく感覚が、ジンの身体を重力の逆方向へと圧した。





 予想していたよりも長い降下に、ジンは多少なりとも面食らっていた。降下し始めて、三〇秒は経っているだろうか。勿論、降下の速度が自由落下のそれと等しいなどとは思ってなどいないが、しかし、だからといって流石に長すぎるのではないだろうか。尋常のエレベーターならばどれほどの位置エネルギーを消費しているのか、ジンは若干問い糾してみたくなった。


 美琴は依然として無言で、閉まったままの扉をじっと見つめている。その、一点を見つめる瞳の宝石めいた輝きに、ジンは顔が熱くなるのを感じた。あまりに緻密な計算な元、熟練の職人が手がけた芸術作品のような少女の美貌に、哀しいかなジンの十代独身男性(彼女いない歴イコール年齢)の感情は太刀打ちできない。そして、単純に思考と直結していると言い切れるほど嘘の付けないジンの表情は、語るよりも明らかに赤面という形で感情を吐露していた。顔から沸き立つ熱を頭で振り払いながら、ジンは手持ち無沙汰に希望階数への到着を待ちわびていた。


 やがて、足が沈む感覚と共にエレベーターが止まったが、気恥ずかしさに感覚を見失っていたとあってはどれほど時間が経過したのか、定かではない。


 引き戸がゆっくり開かれ、重い響きの耳鳴りの如く低く唸る音が隙間からエレベーター内に滑り入ってきた。その重苦しさ故か、ジンの本能的な部分が警鐘を鳴らした。


 曰く、――眼にすれば、真木永人まきなジンの世界観は崩壊する、と。


 しかし、ジンの身体は本能の警告に耳を貸さず、むしろエレベーターの外へと歩を進める。あたかも、恐怖の源泉を見れば更なる絶望を知ると察していながらも、なお恐懼きょうくに抗えずにその正体を目の当たりにするようで……。


 はたせるかな、精神の制止に抗い、やおらエレベーターのかごから降りたジンが見たものは、地下とは思えぬ広々とした空間に備えつけられた奇々怪々たる機械システムだった。エレベーターは、その機械装置群の中心近くの桟橋に似た箇所に存在していた。桟橋は等間隔に配置されているらしく、前に背後に並んでいる。


 桟橋の手すりを握り、眼前に展開された異界めいた景色を眺望する。


 硝子ガラスか透明樹脂のカプセルが壁に沿って所狭しと縦に横にと整然と並び、それぞれが鈍色と呼ぶよりは灰色に近い機械にパイプで繋がっている。機械装置は巨大に過ぎ、建築物の様を呈しており、カプセル群の桟橋なども機械装置の一部として存在していた。


 意図の見えぬ灰色と透明色で構成された機械装置群。だが、とりわけ奇妙に尽きたのは機械建築物を構成する一部分だ。


 人の頭のレリーフ、もしくは胸像だ。それらが巨大機械装置を奇怪たらしめる構成物となっていた。機械装置も無機質な質感こそ金属のそれだが、意匠はどこか人骨じみた有機的曲面や臓物を思わせる部品群のひしめきがあり、一層の不気味さを醸し出している。有機的な描線とはいえ人体を扱ったオブジェであるかのような機械群は酸鼻な冷血さで、いっそ無機質なカプセルの方が温かみを感じさせるほどであった。


 自分が立っている桟橋の下を俯瞰ふかんすると、周囲の景色がそのまま地の底まで続いていると思わせる深度へ沈んでいた。終端は――照明で闇に包まれてはいなかったが、あまりの深度で霞がかって底を見ることは叶わない。


 このおぞましささえ感じる異空間に、どこか郷愁を掘り起こされたのは何故か。たとえるなら、ゼクスヴァンの体内に収まった時に感じた、既視感デジャヴのような懐旧かいきゅうの念に近い。思えば、ゼクスヴァンと初めて融合した際、どうしてそのような感慨を抱いたのか。


 疑問を噛み締めながら、透明なカプセルに目を移すと、それらには何かが封入されているらしい。照明の照り返しでうまく見えないが、確かに収められたなにがしかが弄うように見え隠れしている。


 覗き見ようと、我知らず身を乗り出したジンの眼に、カプセルが中身を露呈した。


「!」


 驚愕に息を呑んだのもむべなるかな、透明なカプセルの内容物は、カプセルそのものの用途を雄弁に物語っていた。同時に、それはこの階層の正体も余さず訴えかけている。


 透明な外殻に守られた内容物は――人間だ。蝋人形の如く身じろぎ一つしない、生きているのか死んでいるのかも定かではない女性の裸身が収められていたのだ。横たわった裸身は外部からの視線から身を守るものは何一つないものの、そこに劣情などは欠片も催さないのは彼女に生気を感じない故であろうか。


 見れば隣のカプセルには中年男性が、更に奥には老人がそれぞれ硝子細工の柩に葬られている。柩の内部にはコードが存在しており、その終端は針となって動脈へと刺さっていた。医学に全く明るくない自分がただ見るだけでどうしてそれが接続されているのが動脈である、と察することができたのかという違和感を拒むようにジンは無意識のうちに目をつぶった。


「なんだ、これ?」

硝子柩ガラスひつぎ


 我知らず、ジンの口からこもれでた疑問に美琴の声が応じた。


「硝子柩?」

「この常宵の世界の……食糧工場プラントよ」

「食糧……工場プラント!?」


 人と美琴の声を呼び水としたか、透明なコードを赤葡萄酒ワイン色に染めて、血液が汲み上げられていく。見るからに豊穣な鮮血は、ジンに鼻孔を酔わす仮想の陶酔をもたらした。反射的に甘く赤い味覚が舌に広がり、唾液が溢れる。


 おぞましく管中を滴る鮮血に酔わされ、ジンの身体が貧血を訴えかけてきた。眼前を黒い靄がそびえ立ち、酸欠の息苦しさと立っているだけで吹き出す汗にあえぎ、ジンは気が付くと片膝をついていた自分に気づいた。


「馬鹿な――食糧?」


 視界が黒く染まっていく中、自分のつぶやきが鐘の中で乱反射するかの如く駆け抜けていく。まるで寝不足の倦怠感と不調だ。世界が回る。


 膝をついたジンを表情の薄い少女の視線が見つめている。


 少女への見栄もあり、ジンのすぐ切れる意識の糸を少しずつ手繰り寄せる様は、さながら極楽から垂らされた蜘蛛の糸を伝い昇ったカンダタのそれ。


「どういう、意味だ?」


 ふらつく頭を左手で抑えながら、美琴に質問をするも、既にジンの思考――いや、本能は答えを導き出していた。


「吸血鬼の食糧、と言えば何か判るでしょ?」


 美琴の瞳が赫々かくかくと輝きを帯びる。


「血……よ」

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