LESS THAN HUMAN

LESS THAN HUMAN 1

 波に揺蕩たゆたい、魂の処無くしたジンは己をさらう満引きに身を任せていた。いや、身を任せる、とは正確ではない。支配権を放棄した意識により寄る辺を無くした身体が、ただ結果として波間に委ねきっていたにすぎない。そして、人工島の湾内にあっては、慎ましやかに抑えられたその満引きの単調な刺激は、彼の意識をより曖昧あいまいかつ緩慢にさせるに充分だった。


 横たわるような体勢で海面に浮かんでいる様を夜の曇天が見下ろす。既にゼクスヴァンが還って久しいとみえるが、黎明はまだ訪れないどころか東の空には予感すら感じられない。


 夜が明けない。尋常じんじょうでは無い、まさしく天変地異の出来事ではあるのだが、今のジンには何の感慨も湧き立たない。


 昨夜――というのも語弊があるが――に友人を残酷な形で喪い、ジンの心の一部は壊死し、自暴自棄に極めて近しい心境に陥っていた。このまま溺死しても、かまわないか。そんな諦観が寄越す無言の囁きが聴こえるほどに。


 一向に白む気配すらない空を眺めている、傍目から見ればそう映る景色でも、彼の眼は空を映しているものの真実に視ているわけではない。もし、今、夜が明けたとしても、彼はそうと認識していないだろう。視るという受動的行動と認識という生理的活動、平素ならば一つなぎとなっている生理的条件が今は成立していない。こつりと何かが軽く頭を小突いた感触も、いつしか空と海水以外のものが存在を主張してきた視界も、即座に気づかぬほどに。


 久方ぶりの海の揺動以外の刺激は、ジンの分離していた頭脳と身体を遅まきながら繋ぎ直す効果を与えた。視点と認識が直結し、ジンは見知った光景が変化している事実とそれの意味するところを悟った。


 太古に覇を競った戦士たちの旗の如く、整列した布を付けられた細い尖塔が天を突かんばかりにそびえ、海風でなびいていた。規則正しく整列したヨットの帆柱だった。


 ヨットハーバーだ。彼の頭に触れたのは、整然と帆を休めていた一艇の船殻だったのだろう。N市には西日本最大級を誇るヨットハーバーがあったと記憶している。となれば、ここがそうなのだろう。


 別段、石にかじりついてでも生きようという意志は無かったが、かといって、このような人目につく場所で野垂れ死ぬのも馬鹿らしいと考え、ジンは係留桟橋に上がると、水を吸って相当に重くなった衣類を引きずり、行くあてもなく歩き出した。彼の辿った足あとは桟橋に染みる海水が雄弁に語っていた。




 未だ、太陽が顔を覗かせない夜に、街は散りばめた燈火の彩りで闇に抵抗していた。


 あてどもなく、ただ足の赴くままに歩を進めたジンは、やがて日本全国の高校球児の憧憬の地、収容人数日本最大にして最古の野球場へとたどり着いた。人気も失せた球場が無言で佇む様は、魂を無くした空洞を覗き見ているようだ。


 野球に興味のないジンでも往年の緑の蔦の衣を纏った球場の姿は様々な媒体で見知っているが、震災を経て改修された球場は以前の蔦が絡まる青々しかった姿も、今は過日と真新しいレンガの地肌を見せている。

 虚飾の無い、身軽な剥き出しの姿はジンにとっては、蔦の葉がざわめく雑多な風貌よりも好ましいものだが、かつての姿を色濃く心に焼き付けている者にとってはそうではなかったらしい。

 再び植えられた、目地の隙間に指をかけて手を伸ばす蔦は、着実に球場を緑色に染めようと躍起になって版図を広げている。


 大海原の揺籃ようらんに身を晒した上に歩き通しとあれば、流石に疲れも蓄積されていた。どこか休める場所――と眼を巡らせると、正面の出入口が解放されていた。平素であれば、試合も行われない夜に出入口が解放されるなどありえからざる状況ではあったのだが、とはいえ疲れに膝も折れようかというジンに訝しる余裕などあろうものか。


 ふらりと、出入口へと入る。手招きしている出入口は、ジンの進入を認めると慎ましくシャッターを降ろした。


 今にも倒れ込みそうな身体を苦労しいしい動かし、観客席へと到る開口部が視界に映った。試合が行われていれば、照明塔から供されるまばゆいばかりの光の奔流と総毛立つ興奮の気配を吐き出していただろうが、現在のそこは昏い口を開けた沈黙だけが支配しており、普段の騒々しさと相俟って一層物悲しい雰囲気を漂わせている。 


 その空洞を通過すると、三塁アルプススタンド席となっており、右側の向こうのピッチャーマウンドを見下ろす観客席と、更に上方に鎮座する特徴的な銀傘のひさしが、夜の冥闇になお冥く存在を強調しながら、しじまの中で眠っていた。


 ジンは疲労を吐き出すように嘆息すると、身体の緊張まで吐き出してしまったのか、貧血症に陥ったかのように座席に腰掛けた。力を無くした身体はずるずると座席を滑り、背もたれの笠木に相当する部分に後頭部が引っかかり、自然、空を見上げる形となった。


 既に見飽きるほどに眺めていた夜天だったが、依然、天空に座するべき太陽の存在は露ほどにも感じられなかった。宵闇は地上の諸人に何の関心も抱いていないのか、あくまで昏い空はジンを含めた地に縛られた人と街を素知らぬ顔で俯瞰ふかんするばかりだ。


 そんな、延々と続くような闇夜に未だ曙光は訪れていないが、変化が訪れる時は唐突だった。


 にわかに何かが落ちたような音が、打ち捨てられた伽藍の静けさに沈んだ球場を震わせた。同時、視界に飛び込んでくる光と呼ぶにはあまりに鮮烈な閃光に射抜かれたジンの視神経が、許容範囲を超えた情報量に声なき苦悶であえいだ。落下音と聞き紛ったのは夥しい数の照明が点灯する音だったようだ。


 銀傘に設えられた投光器照明二基に加え四基の照明塔の放つ、合計七五〇を超えるアーク放電式ランプの苛烈とさえ言える発光が内野を照らす照度は、ルクス数にして二五〇〇を誇る。実に、睡眠障害治療の高照度光療法に使用される照度と同等である。


 内野の照度には劣るものの、外野であっても二〇〇〇ルクスで照らす球場の照明は、広大な一三〇〇〇平方メートルに渡るグラウンド面積を賄っているとなれば膨大な電力を消費しているのだろう。それでも興行的には充分な見積もりであろうが、選手プレイヤー観客ギャラリーもいないともあれば、無用な浪費に過ぎない。


 否。ジンは燦々とアーク放電の光が照りつけるグランドの――ピッチャーマウンドに白い影を見た。選手とも観客ともつかぬ、立ち姿。浜風に白いドレスをはためかせ白い傘をくるくる回す艶姿など、ジンは一人しか思い当たる人物を知らぬ。


 はたして、月夜視美琴つくよみみことは不似合いな野球場の中心で観客席から腰を浮かせたジンを見つめていた。


「…………」


 何故か、ジンは美琴の姿を見定めると、疲労に棒の不自由さを強いられた足をもつらせながら観客席を降りていた。まるで誘蛾灯に誘われる蟲の挙措だ。ふらつきながら、観客席とグラウンドを隔てるフェンスに指を絡ませよじ登ろうと…………。


 途端、彼の指は僅かな抵抗と共にフェンスを断ち切っていた。用を成さなくなったフェンスは、鋭い刃物が充分な速さではしったような途絶した滑らかな断面ではなく、力任せに引き千切られて伸びた末にぶつりと切れたと容易に察せられる様相であった。


 錆びていたのか――と訝しんでみるも、そもそも改修されてそれほど年数を経ていない、加えて伸び切って塗膜層から脱却した織金網の線材が晒した鈍色の地肌には赤茶けた腐食は見受けられなかった。何にせよ、織金網のフェンスは引き裂かれ、今や観客席とグラウンドを遮るものは空間とそこに満ちる夜気だけだ。


 グラウンドに降り立つと、多少の距離こそあるものの、あとは歩を進めるのみ。はたせるかな、ジンは程なく美琴と十歩ほどの間を置いて立ち止まった。


「こんばんは」


 耳朶に心地よく沁みる、鈴が鳴る如く流麗で甘やかな声は、しかし沈鬱に染まっていた。見れば、美琴の柳眉をひそめた相貌もまた、告解者の懺悔する姿を彷彿させる。


「一体、君は何者なんだ?」


 ジンの口から放たれたのは、ある意味根源的な問いだった。


「あいつらはなんなんだ? ゼクスヴァンってなんだ? 何故、権蔵はオガを喰った? 絶対零時? ブラッドテイカー? 吸血鬼? ラミーア・ア・マキーナ? 出来の悪い上に設定過多な三文芝居を観てる気分だ!」


 一度問えば、矢継ぎ早に口をついて出る疑問。


 当惑したジンの問いかけを、美琴は責められた子供のような表情で受け止めている。痛ましげな彼女の相貌――そこで、ジンは美琴という少女が感情を表に出している姿を初めて目にした事実に気づいた。


「ごめんなさい。質問には答えます。ついて来て……」


 ともすれば泣き出しそうにも見える顔で、美琴は追従を促す。誘うように差し伸べられたか細い手が幽かに震えて見えたのは錯覚か。


 だが、今、自らの世界観が混迷に陥っているジンに、彼女の心境を斟酌しんしゃくするほどの理解も余裕も無い。それほどまでに、ジンと美琴は心を通じ合わせておらず。そして、今も意識を保つ細い糸を手繰り寄せながら軋む身体の疲れに鞭打っているのだ。


 実際、立っているだけで足元が不確かになるほど憔悴し切っているジンは、意志に反して即座に身体を動かすこともままならない。


「これを――」


 彼の顔色をうかがって、ジンの様子を悟ったのだろう。いつの間に取り出していたのか、美琴の手には毒々しい赤色をした真空パックが乗せられていた。透明なビニールが深紅に染まっているのはそれが輸血パック――おそらくは全血のもの――だからだ。


 そうと認識した瞬間、身体が鼓動に圧されて揺れた。脈動する耳鳴りは、まるで鼓膜そのものが心臓に直結されているのではないか、と疑うほどにやかましく/そして、視界はまっすぐのものも歪んで見えて/まるで魚眼レンズで世界を遠望しているが如く/総てが色褪せて/その中で、美琴の純白とビニールにパック詰めされた深紅の液体だけが浮き上がって/噛み砕けるほど濃厚な血液の赤/めくるめく悦楽の予感に赤色の美酒へ/むさぼりつく妄想に獣欲をもよおした牙が/欲情に疼き/疼き/疼き/溢れ/溢れ/溺れ…………。


 麻薬中毒じみた誘惑をもたらした血に、前後不覚に陥るほどに擾乱されていく精神をぎりぎり保たせていたのは、目の醒める美琴の嫣然えんぜんな白さだった。


 拳と牙歯を噛み締めて、尽きせぬ欲動を抑えつける。にわかに訪れた血への欲情は来た時と同様、波が引くように収まった。強烈な欲動のおりをなんとか払いきれたのは、自分が自分でなくなってしまう、墜ちていく恐怖によるものだったのかもしれない。


「やめろ! そんなものは…………いらない……」


 ふと、ジンはグラウンドにうずくまっている自分に気づいた。眼前では、犬歯を伝った涎が黒土になお黒い花を咲かせている。


「ごめんなさい」


 頭上から再度の謝罪。

 そして、身体が軽くなる感覚。美琴が抱きつくように身体を支えている。


「行きましょう」


 そういうと、あくまでジンに負担をかけぬよう、やおら歩き出す。ジンとしては半ばおぶさっている形だ。


 細い、折れそうな肢体の美琴だが、どこにそんな力があるのか、ジンの体重のほとんどを受け負っても、彼女は微塵も揺るがず、しかと歩を進めている。


「…………」

「…………」


 見目麗しい少女に抱き抱えられないと、もはや歩くのもままならない己に恥じ入り、自然と無言になったジンだが、美琴にしても――少なくとも、ジンの知る限りにおいては――饒舌じょうぜつな質ではない。ともなれば、彼らの間になんとも言えぬ沈黙が横たわるのは必定とも言えよう。


 人工の光で照らされているとはいえ、寂然せきぜんとして押し黙った球場を響かせるものは、何もなかった。

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