DEATHPOINT 5
「ジン……」
ゼクスヴァンが生んだ豪風に痩身を包んだドレスをはためかせ、しかし、美琴の華奢な身体は微塵も揺るがない。手にした日傘も無風の時と同じくくるくると回るばかりで、強風にあおられているとは到底思えぬ。
まるで、大気の暴圧から隔離されているような奇っ怪なる立ち姿は、彼女もまたヒトの域を逸脱した者である証左だろうか。
そして、また、荒れ狂う気流を意にも介さない逸脱者が、彼女の背後に現れた。
「かくして、彼は機械の囚われ人となりました。彼の行く先は何処なのか」
「…………あなたがそれを言うの?
上空のゼクスヴァンから視線を外し、美琴が振り返った先には黒いインバネスコートとスーツに身を包んだ洒脱な美丈夫だった。あの夜にジンが目撃した、女性の血を啜っていた男だ。夜闇を射貫く赤い瞳に、血の気の失せた美貌、更にネクタイと黒い裾から垣間見える裏地が深紅であることから、見るからに吸血鬼然とした風貌だ。己の生態を隠そうともしていない恰好は、おそらく彼なりの洒落っ気なのだろう。
「あなたが、極楽蝶
「へえ、操作を行った時に脳内チップの整合性を確認したのか?」
「…………」
滴った生き血を思わせる深紅のネクタイを弛めると、男はゼクスヴァンと吸血蝶を見上げる。冥闇の中で高速のドッグファイトを演じている二機の衝撃波が、雷鳴の瞬きと音力で暗夜を彩っている。加えて、弾ける粒子の残滓から、夜に咲く火薬仕掛けの散華に似ている。激情と生命が衝突して散っていく様は、かくやかと思われた。
「見守ろうじゃないか。僕の、或いは君の希望となるかもしれないラミーア・エクス・マキーナを、さ」
並べられた門を空に走る
すぐ後を、風を掴んだ翼で鮮やかに舞うゼクスヴァンが追う。
ジンの視界――上方向に散りばめられた夜景が広がり、眼下に底抜けの空が虚ろに横たわっている。それらが起き上がり、逆転し、底抜けの暗夜に沈み、人工の星野へと上昇。目まぐるしく視界を右往左往縦横無尽に移り変わっていくのは、ジンの肉体/ゼクスヴァンが空を超音速域で泳いでいる故だ。
超高速域の視点に慣れたのか、一瞬ごとを次第に認識できうるようになっていたジンは、追っている吸血蝶の裸身像のビットギャグで拘束された口が顎を外さんばかりに開くのが見えた。
「!」
刹那、襲ってきた悪寒に身をよじる。自然、
絶叫。それも大気を震わせるものではない。空間そのものを震わせる、衝撃の絶叫だ。
避けられたのは、ひとえに憎悪に
続けざまに、
壮絶な巴戦だが、
両者の速度――
そして、決定的な事実として、ゼクスヴァンには射撃武装が搭載されていない。つまり、手の届く範囲、体捌きが及ばす間合いの内側でしか攻撃ができない。手を伸ばしても掴むことができない絶妙な距離は、しかし、届かぬからこそ断絶した隔たりとなってゼクスヴァンに現実を呈示している。
「――――」
冷徹な思考が徒労と判断。だが、今まで頭脳の命令に従っていた肉体が否定――。怒りの冷々さに凍え純化した頭脳と異なり、怒りの熱に苛まれた肉体は仇敵を逃すわけにはいかぬと、自明の理すらも拒み、執拗に
理に適わぬ愚者の追走。それは、親友を殺されたジンの感情の最も根源的な欲求だったのかもしれない。届かぬと分かっていながら広げた五指を
そして、肉体に引きずられたジンの頭脳が今、直結したゼクスヴァンの電脳に必要な情報の閲覧を要求していた。肉体の飽くなき執着に判断を委ねた頭脳は、やがて求めている機能の検索結果から次手を紡ぎだす。
ゼクスヴァンの翼から木漏れ出る黄金の粒子。直感的に、機体保護に加えて、飛行時の推進力と制御を司っているものだろうと推察はしていたが、はたして、電脳が寄越した情報はこれを肯定していた。
ならば、この粒子を加工することは可能だろうか。
ゼクスヴァン各部機能を確認/粒子は金鵄炉と呼ばれる絡繰心臓によって生成され、これの鼓動によって義血を介して全身を駆け巡る/そして、各部の放出口から必要に応じて粒子の飛散を行っている。
金鵄炉の情報にアクセス/鼓動の高速化、つまり、粒子の急激な生成と循環は可能か。照会結果は、是。だが、代償として一時的な機体性能の低下を招く。
無鉄砲な肉体に引きずられてはいても、凍りついた思考はなお純化されていたままだった。一切の躊躇なく、これを実行。途端、がくりと身体/ゼクスヴァンが鈍った感覚。更に、早鐘を打つ鼓動と急激な血液の循環に悲鳴を上げる血管が、ゼクスヴァンそのものとなっているジンを苛む。自らの肉体であれば、許容以上の血液の供給で毛細血管が破れ、身体中に内出血を起こしているに違いない。
全身の疼痛に顔を歪めながらも、
逃げる
むしろ――衝撃波に捕まって脚を止められる方が拙い。速度の鈍った今のゼクスヴァンでは、一度離されると二度と追いつくことは叶わないのだ。そこには、一分の
一方で、ゼクスヴァンの血管に過負荷を与えていた義血内の黄金粒子だが、ゼクスヴァンそのものを連環させることによって加速させていた。黄金粒子は収束と加速を経て、ゼクスヴァン体内で一条の矢へと鋳造されていく。
掌に設けられた粒子放出口に黄金光が灯る。打ちのめしてくる風圧にも揺らめかない、確固とした灯火だ。
何を成そうとしているのか理解はしていなかっただろうが、それでもゼクスヴァンから匂い立つ狩猟者の気配を嗅ぎ取ったらしい。
危ういながらも回避できていた、先ほどまでのものとは違う。
だが、もはや怖じる理由も必要も無い。
掌をにわかに
必滅の衝撃波が吐き出されようとする一刹那前――実に13.33333……ミリ秒前に、黄金の矢は狙い能わず、裸身像の喉を射貫いていた。当然、空間を犯す呪詛の絶叫がこの世を震わせることはなかった。
狙撃された吸血蝶が宙に浮かんだまま動きを止めた。命中を見届けながらも、既にジンは二本目、三本目の光矢の生成を開始していた。
「なっ……!」
真円の焼痕を三つ穿たれた
「キミは…………誰だ?」
信じ難い眼の前の現実に呆然と疑問の声を漏らして、天から墜落する
浮かぶことはないと理解はしているのだろうが、それでも墜ちていく恐怖に怯えて
浮遊は叶わなかったが、落下速度を抑えることはできたらしく、墜落した高度から見れば、着水の衝撃は慎ましくに過ぎた。
ヨットハーバー近くに着水した
よろめくように海上に浮かんだ吸血蝶の姿は痛ましいものだった。貫かれた右
「ひゃっ!」
男とはとても思えぬ甲高い声を上げ、
一矢報いる一心からか、或いはこれは起死回生の最後の一撃だったのかもしれない。
空間そのものを刃と化した一撃は、先の空間振動による衝撃波同様に守ろうとして守りきれるものではない。受ければ、たちまち装甲の分厚さや頑強さとは異なる次元で対象を破壊する、絶対切断の
実際、近づきすぎて反応できなかったゼクスヴァンの装甲を容易に斬り裂き、不可視の飛刀は彼方へと消えた。あまりにも見事な切り口はそうと認識していなければ、斬られた本人にすら気付かれぬ鋭利さを物語っている。
ただし、
今のジンに
既に敗北を喫した事実に心奪われてしまったのか、それとも先ほどの一撃で遂に力尽きたのか、
黄金粒子が収束し、ゼクスヴァンの右手を黄金光に染める。ゼクスヴァンの眼を灼く右手は、
「…………何か言い残すか?」
今宵、ゼクスヴァンに乗り込んで以降、初めて口を開くジンの声は凍りつき、
「まさか、ボクを……殺す、の?」
「ああ。お前がオガにしたように、な」
死の恐懼におののく
「仕方ないじゃないか。ボクは吸血鬼。人の血を吸わなきゃ生きてらんない生き物なんだから!」
「そうか、仕方ないな。じゃあ、
だが、意味はあるのだろうか。ジンの声から伝わる絶対零度の冷々しさは、一片の
「い、いくらボクがオガを殺したって、ボクもキミの友達じゃなかったの?」
彼の脳裏の諦観に支配された冷徹な本能が決した
「友達さ。だから、今のお前を見ていられない。お前が壊した。お前が殺した。オガは、俺の……お前にとっても親友だったはずだ」
頭上から落とされる、ジンの押し殺した
その、余りにまぶしく神々しく、そして光に背を向けた者達にとって余りに恐ろしくおぞましい、滅びをもたらすプロメテウスの火は、この夜天においては日の出にも似た。
そして、〝日の出〟が意味するところ、すなわち――。見ているだけでじりじりと身はおろか、魂魄すらも焦がしていると錯覚する劇毒を前に、
だからこそ、
「今のボクを見ていらんない? ボクが壊した? キミも同じだよ。同じ吸血鬼さ。吸血鬼は窮極的に人の血を吸わなきゃ生きられないんだ! いくら、心で人間とうそぶいても無駄だよ! それに
ゼクスヴァンの表情は変わらない。この
「…………地獄でオガに詫びるんだな」
そして、判決者の無感動さで刑を宣告、執行する。
頸を掴かまれた
を介して
太陽光と同質のスペクトルを持つ、フレアが
「ぁぁぁぁぁぁぁああ!」
音声チックを思わせる、そんな
感染した義血を通して
「ぁぁ…………」
慈悲深い太陽毒は速やかに
彼岸へと一足先に旅だった主を追いかけるように、
やがて、存在の証として灰燼だけを残し、
「……なんだ……?」
不意にゼクスヴァンとの
――涙、か。
一度認識すると、ジンの意志に反して、堰を切った涙が
「…………っく、ぅおおおおおっ」
震える自らの身体を抱きしめ、ジンは狂おしいほど胸を締めつける感情の迸りに叫びながら、
黄金の蛍火は夜闇を泳ぎ、謳う彼女の側にまで寄ると
「灰は灰に。塵は塵に」
ゼクスヴァンにほど近い、ヨットハーバーに係留されているピンネーカーヨットに美琴は立っていた。そこからは、背ビレめいた放熱板を黄金に染めたゼクスヴァンが見える。ジンの悲嘆の叫びは分厚い装甲に遮られ、外気を震えさせることはなく、傍目からはゼクスヴァンは依然として堂々と峻厳たる霊峰の威容を夜に誇っている。
だが、平素と変わらないと見られる雄々しきゼクスヴァンの巨躯が、ジンの慟哭が届かずとも、美琴には背中を向け震え泣く幼子の姿に感じられた。
「素晴らしい」
そんな美琴が抱いた印象を知ってか知らずか、場違いな賞賛の声と
如何にも愉しげにカラカラと笑うのは、いつしか天指す帆柱に腰掛けていた漆黒の美丈夫、美琴曰くは
「あにはからんや、ゼクスヴァンに設定されていない武装を自ら編み出すとは、な。まさに刹那の独創性。武装を超えた絶技。悠久にはついぞ辿り着けぬであろう境地を見た!」
先の
「あえて分類するならば、変異型火輪式融解クロウかな。我々には恐ろしい武技だよ」
「恐ろしい、と感じているようには見えないけれど」
足元より投げかけられた、白髪の美少女の台詞に
「恐ろしくも嬉しいのさ。君の謳う葬歌を名に捧げようか?」
「変異型火輪式融解クロウ・
「君はそういうの、好きだろ?」
「…………」
からかうようなひょうげた台詞に美琴は沈黙という回答を返したが、足元の彼女がしかめた表情をしているところを美丈夫は察していた。
「気分を害したかな? なら、謝るよ。こちらも、いささか興奮気味でね。こんなに嬉しいのはいつ以来だったやら……」
――おおおおおぉぉぉぉ……。
涼やかな笑みを浮かべる
「おや、お前も嬉しいのか?
ザナドゥ。理想郷の名を冠された存在こそ、
そんな正体不明の
「間もなく、今宵の絶対零時も終わる。離別と死別、歓喜と報仇に慟哭と哀切、それらが入り乱れた、よき
届かぬ声で背を向けたゼクスヴァンにつぶやくと、
はたして、夜空に溶けゆくように存在の透明感を増し、
あとに残されたのは、一陣の風と揺れる波と、あおられた白髪を手で押さえた
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