DEATHPOINT 3

「よう、マキナ!」


 いつまでそうしていたのだろうか。


 頭上を回遊する飛行船を見上げて惚けていた自分を呼ぶ声に、ジンは実世界に帰還した。


「おばんどす~」


 地上に眼を移すと、私服姿のオガと権蔵の二人がこちらへと歩いてきていた。


 黒いジャケットに、筆で描かれた抽象的な図案がプリントされたTシャツ、白いドリッピングが施されたジーンズを履いたオガが、いつも通りのどこか軽薄な笑みを浮かべて、弛緩した歩みで近づいてきていた。

 一歩遅れた権蔵は、黒と紫の二重構造になったカーディガンを白地に紫をムラ染めしたドレープシャツの上に引っ掛けて、五分丈ほどに裾上げしたレギンスといった、ユニセックスな装いだ。


「なんで制服? しかも、ボロボロだし」


 彼らの指摘で、未だに制服姿であった事実に気付かされた。


 顧みれば激動の一夜をくぐっただけあり、ところどころ破れや擦り切れが目立つ。逃亡者としては迂闊すぎると言わざるをえない。悪目立ちする上に、容疑をかけられている高校生の制服そのものを着ているなど、捕まえて下さいと言っているようなものだ。

 思えば、駅員も少し怪訝な表情をしていた。喧嘩に明け暮れる不良学生――程度に思われていればよいのだが。


「喧嘩――のわきゃないか。お前、喧嘩とかからきしだし、そもそもそんなタイプじゃないしな」

「ああ。そんなんじゃない。……そんなんじゃないさ」

「あれ? マキナって、今日、ガッコ休んでなかった?」

「ちょっと色々あってな。気がついたらこの時間…………この時間?」


 違和感に、思わず反芻はんすうする。


 思えば、昨夜の事件の後に帰宅して、泥のように眠ったとはいえ、時計が二周するほどの時間を眠りに費やしたとは到底思えない。


 もし、長針が二周近く回る時間――つまり、一日近くを寝ていたのならば、両親の書き置きの文面がおかしくなる。

 ポイントは、①起きなかった、②学校に行け、③父親が残した昼食代――二人とも帰宅が深夜一二時を過ぎる場合は携帯に連絡を寄越す。もし、眠りこけて、ほぼ一日経過していたなら――いや、そうなる前にどちらか片親に叩き起こされているに違いない。

 加えて、携帯にも着信はなかった。


 だが、一番不自然なのは――。頭に導かれたあり得ぬ想像に、ジンの肌は粟立たせられた。


 そう、あり得ない。


 ジンが気づいたもの、それを肯定するならば、自身の狂気を疑う方がマシだ。何故なら、彼が思い至った発想は、遍く地上に棲まう生物にとって不文律の否定に他ならないからだ。


 胸中の胸騒ぎを誤魔化す。


「学校行ってないって事はないだろう? 転校生の話、したじゃねーか」

「あれ? そうだったよな? じゃあ、来てたのか?」


 訝しがるオガ。対象的に、権蔵のいつもの笑みは微塵も崩れていない。


「それよりも、俺が言えた義理じゃないけど、お前らこんな時間まで出歩いてて大丈夫か? 補導されるぞ?」

「え? もう、そんな時間か?」

「今は…………十一時五十八――九分だね」


 ちょうど、時刻が切り替わったところらしい。携帯を取り出した権蔵が現在時刻を告げた。


 現在地は、ジン宅より徒歩で半時間ほどの駅であるから――駅員に尋ねるまで電車を待っていた時間を考えれば妥当な時間ではある。

 となれば、少なくとも、起きてからの時間の経過に不自然なところはない。


「そうか…………」


 地面が揺らぐ。いや、揺らいでいるのは自分だ。酒精アルコールを嗜んだことなどないが、酩酊というのはこの状態に近いのかもしれない。今のジンは波間の舟に等しかった。そして、彼が苛まれているのは、大人が飲む現実逃避の化学反応物資ではなく、己の脳内が導き出した狂気の幻想からだ。


「おい、お前、顔色悪いぞ。ちょっと休んだ方がよくないか? ほれ、そのベンチに座れ」


 今の自分は、オガが心配する程度には蒼白になっているようだ。


「無理矢理でも連れて行くから……なっ!」


 そう言うと、オガはジンの腕をくぐって己の首に絡ませ、そのままベンチの方へと連れて行く。


 ――こいつ、いい奴だよな。


 普段、思っていても言えない(そして言わない)が、ガツガツしていなければモテるのではないだろうか。


 ベンチに座ると、ロータリーを囲むような楼閣ビルと高架線路の先、最近出来たショッピングモールが煌々と夜闇を焼いている様子が見えた。古代より、夜を引き裂いて人は常なる昼を求めてきた。ならば、悪夢の住民たちは、昼を駆逐しようとする夜の眷属なのかもしれない。


 そんな益体もない考えに身を任せたジンの視線は、高架線路の先のショッピングモールから手前に立っている時計へと移った。秒針の無いアナログ時計の針が両方とも頂点を指し示そうとしている。


 ぞ、と氷点下の温度が背筋を撫でる。


 境界線の時間。時計の針が頂点を指す時、何かが隔てられる。いわば、境界線の時間。例えば午前と午後を隔てる境界線、例えば今日と明日を隔てる境界線。そして、日常と異界を隔てる境界線だとしたら――?


 思い至ってしかるべき発想に至らなかった自分の迂闊さを省みるのは、もう遅きに失した。

 何故なら、今、一二の数字を長短二つの針が刺し貫いたのだから。


 同時、絶対零度の極低温が世界を浚ったと錯覚させる程に、あらゆる音が静寂しじまへ去った。


 音がついと消えた瞬間のあり得ざる音――ジンには、血しぶき乱れる狂宴の続きを告げる鐘の音に聴こえた。時計が左回りで刻まれる。


 今宵もジンは踏み込んでしまっていたのだ。ヒトならざる者たちのヒト狩りの夜会に、魔宵まよいの世界に――。



「オガ!」


 内からの張力を喪ったオガの身体が崩れ落ちようとするのを、ジンは何とか支えた。


「おい、オガ! おい」


 ぐったりと力を亡くした人間の身体とは、これほどに重いものなのか。砂袋か何かで、手で浚えばすり抜けていくものを無理に留めているようだ。いつまでも支えてられぬと、ジンは自分の代わりにベンチに寝かせる。


「ダイエットしろ、ダイエット」


 努めて軽口を言っても、期待していた――或いは、返ってこぬと悟っていた――返事は、無い。


「あ、そうだ。…………権蔵?」


 振り返ると、不可思議な事に権蔵の姿はなかった。


 空気を攪拌するものが眠りにつき、徐々に沈んでくる大気の下――ロータリーには、深い眠りに溺れた人々しかいない。見渡す限り、その中に権蔵の姿は無い。


 首元がちりちりと冷たく痺れる、嫌な感覚。この感覚には憶えがある。


 る――――。


 常識の理外、常闇より生まれたとしか思えぬ、コート姿の怪物たち。夜闇や街角の深い影より 姿は見せぬが、近くにいる。漠然と、居所もわからぬ模糊もことした感覚だが、近場に潜んでいるのは確かだ。


「ん?」


 背後に気配。後ろには、ベンチに座らせたオガしかいなかったはずだ。


「うふふ、み~んな寝ちゃってるね~」

「…………」


 聞き慣れた声に、緊張感をため息と一緒に吐き出す。こちらが呆然としている間に、オガの隣へと移動していたらしい。


「なんか、知らないけど、この時間になると、み~んな眠っちゃうんだよね~。ほら、都市伝説? トンデモ科学? なんかあったじゃな~い? 零時から一時間、人間の身体は完全に眠ってしまうって奴。ボクは寝ないんだけど~、みんな絶対に寝ちゃうんだよ。だから、アレは正しいって知ってたんだけど~。でも、マキナ。キミは寝ないんだね~?」


 ひたり――。


「お前もだろ? 俺は――なんだ、よく寝たからな」


 弛めてしまった緊張感を再び引き絞り、マキナは辺りをそれとなく警戒の眼で見渡す。自分の後ろには友人二人がいるのだ。万一、奴らに遭遇したのならば、彼らに類が及ばぬよう場所を変える必要もある。


「アハハ、そ~なんだ。じゃあ、ボクはいつもよく睡眠取れてるって事かな~」


 ひたり――――。


 ――? 何の音だ?


 ともすれば聞き流してしまう程に、大気を微妙に騒がせる音。粘着質な液体が一滴一滴、レンガ造りの石畳を叩く、そんな音だ。


 それも――――――背後から聞こえてきている、ような…………。


「…………ゴンゾ?」


 何故か、ゆっくりと振り向く。


 否定したい現実を確認せねばならない。だが、できれば先延ばしにしたい――ジンの胸中の支配者はそんな感情に似ていた。


 振り向く先のベンチは空だった。


 誰も座っていない白いベンチに、黒いペンキの雫が一つ落ちていた。ペンキを塗り替えたばかりといった、真っ白いベンチにそれはあまりにも目立ちすぎていた。


 水滴に触れると――ぬめり、とした感触が指先に伝わってきた。まだ、乾くまでにいかぬ程に新しい液滴だ。ぬめりを転ばせながら、液の付いた指先を見れば、転ばしている内に厚みが薄れてきた液滴の本当の色が見えてきた。


 白いベンチを染めた黒い液滴は、透かせば深い深い赤。指先にへばりつくぬめりのある、液体の正体は血液。それも――ジン本人でさえ何故そう確信を抱いたかは分からなかったが――人間のものだ。


 知らず知らずの内に、身体が大量の酸素を要求し、ジンの息は乱れていた。大量の汗に水分が一瞬で枯渇してか喉が水を欲し、血に濡れた指先は大袈裟なまでに震え、逆の手で抑えつけても一向に収まらない。


 ぎい、ぎしり――。


 鉄が軋む音がジンに降り注いでくる。街灯が照らす領域が揺れ動き、視界の明暗が移り変わる。


 ぼた、ぼたり――。


 粘性の液体が石畳へと落ちていく。もはや隠す気もなくなったと見え、鉄の軋みに応じて、生々しい水音は耳朶じだを叩く。


 やおら光源へと視線を移す。


 街灯の支柱の真下――黒い斑点がドリッピングされていた。いや、黒ではない。正体は既に明々白々、どす黒い血の雨だ。


 更に支柱は左右に揺れ動き、その振り子運動に呼応して、支柱の鉄が苦鳴を上げる。


 水源/頭上、街灯の上/落ち続ける血/揺れる街灯の支柱――。


 恐怖の源泉を知ろうとする心理が本能的拒絶に勝っていたらしく、ジンの漂白された意識は支柱の上へと滑っていく。その間にも、ぼたりと血滴が糸を引きながら落ちていった。


 灯台もと暗し、とはよく言ったものだ。指向性を与えられた光源の側は、むしろ、放つ光により深さを増した闇に彩られる。この場合も、何らかの影があるようだが、足元へと向けられた街灯の光が邪魔をして、灯具の上は冥闇で判然としない。


 指を翳して、透かし見る。瞳孔が最適な感光度を見出し始めたか、次第にまばゆさに眩んでいた視界が像を結んでいく。


 大きい灯具のひさしに腰掛けている影がある。人間ではない。ソレは人を抱えて、首筋に顔をうずめているのだ。

 いわば、ジンに襲いかかってきた黒いコートの――闇の眷属。


 ――まさか。


 オガと権蔵は、彼らの手にかかってしまったのか。特に権蔵。彼は黒コートの狩場に――幸か不幸か魔酔まよい込みながらも、遭遇はしていなかったらしい。ならば、いずれ目撃者となるであろう人間を始末するのは当然――むしろ、今までされていなかった方が不思議だ。


 そして、ようやくジンの色境しききょうがソレを捉えた。


 ぐらり、と絶望感に身体が傾ぐ。脊髄反射で踏みしめた靴音が、通常では聴こえぬであろうロータリーに響くほどの音量で鳴いた。


 妖艶だった。淫美とさえ言えた。


 ぐったりと力を――おそらくはその生命の灯火さえ――失くした小笠原オガの首元に顔をうずめていたイキモノがこちらを見下ろす。

 ガーネットみたく深く真っ赤に、だが有機的に明暗しつつ輝く瞳。口から覗く、牙歯きばの眼の覚めるような白。女と見紛う、華奢で整った顔立ちは血の気が引いた土気色で――。


「……………………」


 ジンは悟ってしまった。本当の絶望とは理解の埒外ではない。理解した上でなお否定したい、否定できぬ状況。


 ジンは知ってしまった。本物の絶望とはヒトを絶叫させない。絶叫という意味を成さない言の葉さえ奪う現実。


 絶望に落ち、足元が闇に覆われる感覚。重力を介さない墜落感。


 街灯に腰掛けたヒト型の怪物は、そんな哀れな獲物の姿を超然たる視線で睥睨へいげいしている。

 その血色の瞳に愉悦の色が垣間見えたのは錯覚ではなかろう。何故なら、これこそは狩人を含めた狩猟動物が持ち合わせた、悦びであり誉れに他ならないのだから。


 ……そう、極楽地権蔵ごくらくちごんぞう


 彼は、自称の如くに夜の吸血蝶として、絶対零時の世界に降臨した。


 近しい友人だったはずの小笠原達也の血液を嚥下えんかしながら、もう一人の獲物――真木永人まきなジンの恐怖を殊更煽る姿は、おおよそ人の血の通ったイキモノの姿では無かった。


「ん……ん……んっ……ぷはっ」


 ひとまず満足したのか、口の端から滴を垂らして、オガの首元から権蔵の血染めの接吻が解かれる。


 気づけば、街灯の支柱にも滴った血痕が付き、糸の切れた操り人形の様で力を失くしたオガの身体も相俟って、さながら串刺刑に処された咎人。かつて、串刺公ツェペシュが行ったとされるオスマン帝国兵の串刺しもかくやといった、壮絶さだ。


 ならば、亡骸の血肉を啜る権蔵は、一体何者なのか。権蔵は白いハンカチで丁寧に口元を拭いながら、日中で会った時と同じ気安さで話しかけてきた。まるで、自分が今行った『食事』のことなど、何も気にしていないかのような、そんな軽さで、だ。


「いや~、まさかマキナが絶対零時に魔酔まよい込んでくるなんてね~。思いもしなかったよ?」

「――絶対、零時?」

「そう、絶対零時。または、魔宵まよいとも呼ばれているね~。ボクは、魔宵の方が響き的にも好きかな~。ソレガシ、厨二病でござるので! キャハッ」


 いつもヽヽヽと変わらぬ言動だけに、却っておぞましい。お前は、いつも通りの思考で、いつも通りの口調で、いつも通りのかおで、平然とオガを――喰ったというのか……。


「あ~、あと、魔宵の間は――ボクを極楽蝶鳳ごくらくちょうあげはと呼ぶ事! これは決定事項で~す」


 くの字に折れたオガの身体を街灯に引っ掛けたまま、灯具のひさしでステップを踏む権蔵――いや、極楽蝶鳳ごくらくちょうあげはは、狭く不確かな足場にも関わらず、不思議と足を踏み外す事なく、また元々人間が乗るようには作られていない街灯が身をよじってもバランスを崩す危うさすらない。


「さて、絶対零時に魔酔まよった――となると、ブラッドテイカーはマキナって事になるよね。ブラッドテイカーは『ボクら』を狩れる、絶対零時の狩人なのだから」

「? 何を……」


 見るものに寒気を生じさせる酷薄な笑みを浮かべながら、あげはは意味の分からぬ独り言を呟いた。決して大きくはなかったそれだが、この沈鬱の底ではジンの耳にも充分響く。


「うん? こっちの話…………っていうか、自覚ないの? 面白いね。いいよ、少しだけ教えてあげる」


 四~五メートル程ある街灯からとは到底思えぬ、まるで玄関から足を踏み出す気楽さに違わず、彼は自称する蝶の軽さでふわりと着地。そのまま、慄然と立ち竦むジンへとやおら近づいてくる。


「ボクらは吸血鬼。絶対零時に羽化する……」


 柔らかな笑みを浮かべながら、貌を寄せてきたあげはは、真綿でゆっくりと首を締めていく甘い声で、秘め事を語るように耳元に囁いた。




〝……血を啜るオニだよ?〟

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