DEATHPOINT 2

「ん…………?」


 どれほどの時間が経ったのか。


 未だ仄暗いリビングのソファに寝そべる形となっていたジンの意識が、無意識の海から現実へと浮かび上がった。沈鬱したままのリビングを鑑みると、両親は共に戻っていないようだ。


 家族の写真が入ったフォトフレーム型のディジタル時計が、碧くにじむ光で現在時刻を表示している。

 落ちる前には一時だったはず。ほとんど無意識で携帯電話を開く。着信はなし――待ち受け画面に表示された現在時刻と見比べてしまう。


 既に時刻は十一時十五分。アナログ時計で言えば、ほとんど一周するほどの時間だ。となれば、両親は一度戻って、また出かけたのかもしれない。


 テーブルの上の置き手紙二枚が、その事実を無言で物語っていた。傍らには千円札が置かれている。


『起きなかったので仕事に行きます。また、私は起こせなかった…………。学校サボったらデスツァールだからね! (#^ω^) 母』


「失格。そこはルペルカリアだろ。爪で引っかくだけだろ。やっぱり狼騎ロキさんに任しておけば間違いねえ! っていうか、ライブ感すげーな、冴え渡ってるな」


『父より 多分というか絶対に今日も残業なんで、これで何か食べてきなさい。――労働基準法よ、タスケテーーオネガァイ……ガクッ』


「……………………」


 コメントしづらい置き手紙に閉口しつつ、ジンはコーヒーメーカーに一杯分だけ残されていた珈琲を入れる。


 俺は芸術家だからこそ、珈琲は甘いんだ――とは、たまに父親が言っている意味不明のフレーズだが、実際甘党の家系の真木永まきな家では珈琲一杯につきスプーン三杯は入れている。


 保温されていなかった珈琲は何時間か前にはいい塩梅の温度であったろうが、室温にさらされて今ではすっかりぬるくなっていた。


 しばらくソファに腰を下ろしていると、記憶の混濁した意識が整然と組み上げられ、ジンは程なく眠りに誘われる瞬間に思い出したブラッドテイカーの仕業とおぼしい女性の屍体に、じわりじわりと嫌な汗が流れていく。


 気嚢きのうのない飛行船から発せられた電子声が遠くから曖昧に聞こえてきた。飛行船はジンの自宅マンションへと航路をとっているようだ。徐々に近づいてくる声は、どうやらブラッドテイカー事件の続報を告げているらしい。


 荒唐無稽、フィクションでしかあり得ぬ怒涛の展開の連続で失念していたが、自分は殺人現場に居合わせていたのだ。そう、ある意味では隘路あいろで見た、血を抜かれた女性の屍体が幕開けだったのだ。


 白くて現実味のない転校生も、青白い顔の屍蝋めいた追跡者も、濡羽色の鎧武者の巨人も、鮮麗な蜘蛛の巨人も、総ての始まりは、キャトルミューティレーションとも言える血を吸われた女性の屍体だったのだ。


 今更思い出すとは、度重なる不可解極まる出来事と現象に、意識が薄れていたのだろうか。


 彼の身の丈を超えるベランダ窓から、強い光が灯った。暗いリビングに慣れていた視界が感光される。


 飛行船だ。いつしか、マンション上空まで接近していた飛行船が放つ空間投射エアスクリーンの光が、リビングに差し込んだのだ。


 ちょうど立体映像の無機質な女性の顔が投射されているようで、彼女の巨大な瞳が窓ごしに彼を捉えた。

 一度意識すると、それまで埒外にあったニュースを読み上げる電子声が、意味を成して耳に届いてくる。


『ブラッドテイカー事件の続報です。新たな犠牲者が発見されました。被害者は佐藤里子さん二〇歳、仕事帰りに襲われたものと思われます。現場から立ち去る近隣高校の制服を着た人物を見たという証言があり、警察が捜査を行っています。これからの外出は避け、自宅へ帰りましょう』


 ――近隣高校の制服。

 まさにジンが着ている服装がそれだ。追跡者によるものか、偶然居合わせた歩行者が見かけて通報したのか、どちらにせよジンを指しているのは間違いあるまい。


 必然、警察がよほど無能でない限りは、遠からずジンに辿り着くだろう。


 部屋に差し込む光が角度をスライドさせていく。気嚢きのうの存在しない飛行船がゆるやかに部屋の外、左から右へ横断していっている証左だ。


 やがて、飛行船の光が失せ、部屋には再び薄闇の静寂が訪れた。窓には夜景が再び蘇り、リビングは更に濃さを増した闇に包まれた。


 自分が容疑者となっている事実を知ったと同時、不意に玄関扉の向こう側から寒気に似た気配を感じたジンは、扉の覗き穴を使って外を伺った。


 息を呑む。外には着古した砂色のトレンチコートを着た、如何にも警察関係者といった風貌の男が二人、今にもインターホンを押そうとしていたからだ。


 響くチャイムの音。息を殺してジンはやり過ごそうとしたが、扉の外の刑事とおぼしい二人は、無骨なバールを取り出した。


 ――まさか、だろ?


 男が握りを確かめると、バールを振りかぶった。彼の眼はジンと彼らを隔てる扉に注がれ――覗き穴から見ればジン目がけて振りかぶっているとしか見えない。


「うあっ!」


 身を引いた瞬間、金属がぶつかり合う硬質な音が扉を叩いた。ジン側、つまり扉の裏側の衝突部が隆起する。続いて、無理矢理破ろうと衝撃が扉を幾度と無く襲い掛かる。かなり頑丈な扉を意とも介さないと言わんばかりに、打ち込まれる打撃に圧され、両者の境界線が侵蝕されていく。


 尻餅をついた形となったジンは、破壊音から逃げるようにそのままの体勢で後ろへ下がった。そんなジンの様子を知ってか知らずか、なおも打撃音と共に扉に刻まれる隆起痕。


「うわぁあああ!」


 恐慌に駆られ、後ろを振り返って駆け出す。しかし、狭い日本の住宅事情、それも賃貸マンションの一室分の面積などたかが知れている。すぐにベランダまで追い込まれる。


 ベランダの柵越しに見る夜は窮した視点では、これほど高く見えるものなのか。幾度となく覗いた夜の底が今宵はいつになく沈み、深い。


 そうこうしている内に、ばりばりと扉が割ける音がし、土足で住居に立ち入る荒々しい跫音あしおとが床面を叩く。


「く、来るな!」


 いよいよ追い詰められたジンはベランダを乗り越え、柵だけを手がかり足がかりに、自分を人質に足を止めさせようとする。サスペンス劇場で捕まりたくない重犯罪者が、自分の生命を抵当に入れて何とか逃げおおせようとする、例のあれだ。


 だが、トレンチコートの二人は意にも介さず、ベランダへ一歩一歩詰め寄る。


「無駄な抵抗はやめろ」


 言いながら、二人は懐から銃を取り出す。だらりと弛緩した様子から銃を構える。凶器を手にしているとは思えぬ様子は、彼らが尋常な――少なくとも、刑事という法の番人たる者の姿には到底見えない。


 構えられた銃口から、夜の闇より昏い深い空虚がジンを見つめている。何も無い、何も映らない、ぽっかり空いた虚ろ。先が消えた、行く宛てもない、寄る辺もない。空虚という言葉すら及ばない虚無。そこに、ジンは死の死たる意味を知った気がした。


 虚無より灼熱の赤が灯った。ついで、耳を聾する激音が轟く。撃針が雷管を叩き、生まれた火花を弾薬が酸素が一挙に燃焼/推進力とした弾丸が腔綫ライフリングによるジャイロ効果にエスコートされて、発砲されたのだ。


 弾丸の破壊エネルギーはジン本人には及ばなかったものの、彼の身体を宙空で支えていた柵には覿面な効果をもたらした。弾丸は持ちえる運動エネルギーで着弾点となった柵の一部を破壊し、ジンの体重を支える強度を減衰させた。すなわち、帰趨きすうするところは――


「うわぁあああっ!」


 絶望的な浮遊感の正体は、致死高度からの自由落下に他ならない。重力加速度に加圧された大気の膜が、弾力性のある不可視の壁となって、身体を弄ぶ。

 命綱などの身を救う手立てが無い事実は、ジンの意識を奪うには充分と見えたが、残念ながら慈悲深い気絶ねむりは彼に訪れなかった。

 狭まった視界の先、アスファルトの路面が自分を押しつぶそうと向かってくる様をまざまざと見せつけられる恐怖。


 だが、しかし。


「!」


 アスファルトの凹凸に溜まった土埃が衝撃に浮かび、砂色の煙となって円状に広がった。マンション七階からヒトの重量が地面に墜落した、V=√(2gh)のインパクト。実に、彼の肉体は時速71キロメートルオーバーで叩きつけられた形となる。通常であれば即死を免れぬ、人体を圧潰するに充分過ぎる衝撃だが。


「いっっ…………てぇ~~~!」


 足裏から脳天にかけて電撃の痛みが走り抜けたものの、ジンは着地に成功していた。目尻からちょちょ切れる涙が痛みの程を語っているが、骨身にしみる痺れと引き換えに骨にも異常はないらしい。


 頭上、先ほど落下した自分の居室のベランダを見上げると、柵に手をかけてこちらを覗く二つの頭を捉えた。扉をぶち破ったトレンチコートの二人だ。彼らはジンを認めてか、柵の向こうへと頭を引っ込めた。ジンを捕らえるために降りようとしているに違いない。


 足の感触を確かめて何度か地面を踏むと、踏んだ折りに痺れが一層支配力を強める。痺れの勢力は歩くのも困難なほどであったが、次第に勢力を弱めていった。


 ――いける。


 まだ痺れは足への支配権を完全に手放してはいないものの、歩くにはもはや支障はなさそうだ。


 ジンは我が家に後ろ髪を引かれながら、再び街へと歩き出した。




 いっその事、遠くまで逃げてしまおうか。


 そう考え、昨夜同様に駅まで出向いた。恐ろしい体験からしばらくは近寄りたくはなかったが、自動車の免許をもつ年齢ですらない彼には、電車以外に遠方へ逃れる術はない。


 ブラッドテイカー事件の容疑者とされている可能性も高いため、人目も気にして、あまり使われていないような出入口から駅構内へと入る。


 券売機に料金を入れて、自動改札機を潜る。脳に埋め込められたチップのクレジット機能(未成年のジンの場合、支払いは両親となる)で、自動清算することも可能であったが、足がつくのは確実だ。


 事、ここに至っては、警察さえも敵と見るべきだ。となれば、浅慮であろうとも、できるだけ追跡者の鼻に残り香を辿らせない方法を選ばなければならない。


 監視カメラを警戒して、途中で購入したニット帽を深めにかぶり、かつて世界第三位の経済都市とされたメガシティ方面への列車を待つ。そこからなら、日本の所要都市のほとんどへのアクセスが可能だ。


 歩廊で列車を待っていたジンだったが、待てども待てども、終着駅が中途半端に目的地の手前の駅に設定されている列車しか来ない。


 この駅は本線のほとんどの列車が停車する中央駅なのだが、それにしても、ここまで終点まで行かない列車ばかりなのは、如何にもおかしい。


 顔を見られる危険もあったが、意を決して駅員に尋ねる。


「あの、埋田行きの列車、いつになったら来るんですか?」

「申し訳ありません。今、あっちの方の列車は途中で止まるんですよ。ニュースにも出てますが、途中の駅で火災が発生して、運転を見合わせているんです」

「…………そうですか」


 致し方なく、料金を払い戻してもらって、駅を出る。


 南側の出口のロータリーでは、昨晩の静寂が嘘であるかに、ざわめきが夜の底でわだかまっていた。沈殿するざわめきの頭上から気嚢きのうの無い飛行船がニュースを告げる。


『日本が混沌世界からたもとを分かった第二次鎖国から、今日で二〇年となりました』


 声に、先ほど見ていた夢――記憶が再構築フラッシュバックする。




「え~、前世紀末、フィクションで散々取り沙汰された第三次世界大戦がついに勃発したわけですが、そこで日本は絶対不干渉の立場を取りました。本来ならば、無抵抗で侵略されてしまうのも当然ですが、日本の海域に壁――ビッグウォールを建設、更に壁を越えようとするものを無条件に撃ち落とすシステムを構築。第三次大戦の予兆に食品自給率をほぼ一〇〇パーセントまで引き上げていた日本は、こうして江戸時代以来の二度目の鎖国制度を敷いたのです」


 朝のホームルームを経て、一限目・歴史の授業。教師がしゃべっている内容はごくごく近代、親の世代に起こった歴史だが、現在彼らを取り巻く状況には重要な問題だ。


「そして――近代国家としては極めて狭小な国土をできうる限り有効活用するため、総ての国民、そして物品に課せられた、チップの導入。君たちには、物品来歴などを参照できるアレと言えば分かりやすいでしょうね。国民に埋め込まれたチップ――物品の場合は特定の部位となりますが――は、来歴を参照し、効率的な無駄のない社会システムを構築します」


 チップ。国民の身体情報から趣味嗜好、病歴に到るまでを記録している皮下情報端末だ。極めて限定された空間では、如何なる無駄を排した監視体制が必要となる。だが、それが国民を弾圧させる結果とあってはならない。チップは、その個人個人の総ての来歴から行動を分析し、次なる動向を監視・助言・誘導させる機能をもつ。


 賛否はあるだろうが、できうる限りの自由と安全を保障し、基板となる生活を安定させるのにチップは必要不可欠なシステムだ。これをAIが適宜、国民という群体の流れを誘導監視・情報統制している。


 今、ジンたちが高校生活を謳歌しているのも、ビッグウォールとチップとAIの恩恵があったればこそだ。


 仮に、外の世界の情報が漏れ入ったとすれば、戦乱の火種が各地で上がり、秩序は喪われるに違いない。現在の日本は、世界から孤立している故に秩序が守られているのだ。


 かつて、パンドラの匣から災厄が放たれ、希望が残ったとされている。ならば、此処は災厄に包まれた世界の中、匣に残った僅かな希望か。そう、現在の日本は、無秩序かつ野蛮傷だらけな外から隔離された箱庭の楽園ガーデンなのだ。


 ――という、歴史的ターニングポイントも、オガの興味は引けないらしく、横目でチラチラと転校生を見ている。

 …………いや、オガだけではない。ふと気づけば、教室のほとんどが転校生を盗み見ている。転校生と同じ、最後尾の席であるジンと眼が合った者も少なくない。


 尤も、この辺りの歴史はジンたちの世代にとっては耳にタコが出来るほどに聞き慣れているので、仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。


 例えるならば、この地域で小学生を過ごした者が夏休みの登校日に見させられる『火垂○の墓』のようなものだ。いくら戦争の悲惨さを伝える映画であっても、毎年毎年の恒例となっては流石に見飽きて、変に穿った目線で見てしまう。ジンが通っていた小学校で親戚のおばさんのモノマネが流行っていたのが、いい証拠だ。

 ちなみに、毎年の恒例行事になっている所以は、単純に舞台がこの地域である故からだ。俗称だが登場人物の名前を取って『節子池』と呼ばれている池も存在している。


「…………」


 集団の視線の先に無意識下で誘導されたのか、なんの気なしに転校生の方に眼を向けると――白と赤が混じった瞳が自分を見つめていた。


 心の芯にまで飛び込んできそうな視線は、あたかも瞳を見据えた生物へ命令を下す存在の圧力を含んでいるようで――。更に、ジンはその先、桃色の視線が指し示した意志すらも読み取れた気がした。曰く、世界を覆い尽くす欺瞞を暴けヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽと物語っているかにも見えたのだ。


 背筋に走った悪寒に、ジンの身体は即座に前を向いた。最初から彼女を視界に収めていないと主張する勢いで。だが、じゃれつく大気を振り解けないのと同様、一度絡みついた視線の妖力の感触がいつまでもわだかまっていた。

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