INTRODUCTION 2

 走る。走る。走る。


 振り向くと追跡者の姿は見えないものの、ぞっとする心臓の冷たい鼓動は一向に収まる気配がない。ジンは息せき切って走る。身に纏わりつく死の予感から逃れるために。


 ベッドタウン特有の、申し訳程度のネオンが灯す繁華街の人混みをすり抜けて走る。ちらりと視界に入った時計の針が示していたのは、もはや十一時台というよりも十二時までの時間を数えた方が早いといった時刻だった。

 日が変わろうかという時間にも関わらず、夜の街は素知らぬ顔で動きを止めない。木を隠すなら森、とはよく言ったものだ。この人混み、しかも傘で顔を隠した人の群れだ。ある程度姿勢を低くしただけで、他人の傘で都合よく姿が隠れる。


 留まらぬ群れの中、ジンは時折後ろを振り返りながら、ひたすらに脚に鞭を入れる。持久力が続く限りの全力疾走。最中、ジンの心の隅で己の肉体の違和に疑問を抱いていた。はたして、己がこれほどまでの距離をこれだけの速力を維持できただろうかという疑問を、だ。


 行き先だけを定めたジンはルート171――通称『イナイチ』を横断し、北へ。日本書紀に創建の経緯が記された由緒正しい神社のほど近く、新池しんいけ脇の道路を走っていた。走り続けて、辿り着いた先は貯水湖を超えた向こう、夜闇に溶けそうな学舎だ。


 いつの間にか、洗い流すべきものは総て浚ってしまったからか、雨は止んでいた。雨音の代わりに、今度は鼓動がまるで心臓が耳の側にあると錯覚するほどにやかましい。そのくせ、かなりの距離を走ったのにも関わらず、息の荒さはそうとは思えぬ慎ましさだ。しかし、今のジンにそれらを顧みている余裕はなかった。


 門に掲げられた『私立第一西高等学校』の看板が地元民からは『イチニシ』と呼ばれている高校だと告げている。毎年、女生徒が夏の高校野球のプラカード嬢を担当していることで有名な、ジンの通う高校である。


 ジンは追手がまず来るであろう自宅を避け、逃げ場が確保できそうな校舎を潜伏場所に選んだのだ。


 格子状の校門をよじ登り、敷地内へと侵入する。門扉から飛び降りると、水を孕んだ運動場の土が抗議の水音を立て、報復にズボンの裾に土砂混じりの雫を跳ね上げた。とはいえ、既に全身を水が滴る濡れネズミとなっていたジンは意に介していなかった。


 闇に沈んだ学舎は墓場もかくやかといった薄気味悪い雰囲気が漂い、雨に耐え、夜闇に薄紅色の花弁を主張する桜の木は空恐ろしさを多分に含んだ美しさで、ぞっと背筋に冷たいものを感じさせる。背に腹は代えられないとはいえ、ジンはここを逃げ場に選んだことを多少後悔していた。


 運動場を走り、校舎の中へ。着替えがあったと記憶している保健室へと向かう。当直に見つからぬよう、外からのかそけき光を反射するリノリウムの廊下をそぞろ歩きで進む。闇に慣れた瞳が今では射干玉の暗がりに支配された校舎内を、驚くほど明快に捉える。暗いというのに、目を凝らさずとも見通せている。夜行性動物の視界とはこんなものなのかもしれない。


 そろりと、幸いにも鍵の空いていた保健室に滑り込むと、間もなく零時を告げようとしている時計の秒針が刻む音と消毒液の独特の臭気がジンを出迎えた。


 棚に収められている制服を拝借し、ようやく人心地がつくとジンを支えていた精神の糸が切れた。精神の糸が切れた彼は操り人形みたく力を無くし、壁にもたれかけたままずるずると座り込んでしまった。




 がこん、と時計を構成する三つの針が頂点を示した。同時、外から聞こえていた、あるかなしかの環境音が止まった。いや、室内にあった壁時計の秒針が動く音すら消え失せている。今、世界を支配しているのは、耳鳴りがするほどの静寂だった。


「な、なんだ?」


 見れば、時計の針が左回りで回っている。それも、長針が秒針と紛う速度で回っている。ならば、短針は長針の役目か。秒針に至っては、体感だが一秒で一回転しているように思える。異常な速度で、常とは逆さに回っている。


 ずずずずずずず……と精神が軋みを立てる音。ジン本人にしか聞こえない、怪異の圧力に押し潰れそうな心が上げている悲鳴だ。息がいつしか荒くなり、再び額や背中にじわりと汗が流れだした。


 窓から外を覗き見ると、敷地の外の道路から自動車のヘッドライトとおぼしい光が見えた。だが、それに動きは無い。


 続いて視線を巡らせた校庭に、穿たれた穴のような三つの黒い影。黒い山高帽子に黒い二重マントが意味する処は――。そして、三人の青白い顔が、夜闇に浮かぶ深紅の瞳が一斉にジンのいる教室へと向けられた。心まで囚えんとする深紅の瞳は、彼らの黒い装いよりもくらく、重い。


「!」


 蟻走感の駆け抜ける身体が条件反射的に逃走をはかる。事ここに至っては、跫音あしおとを立てぬような心遣いは不要だ。今必要なのは拙速。如何に早くこの場から立ち去り、彼らの追跡を逃れるか、だ。


 リノリウムが響かせる固い靴音が、夜の学舎内で反射する。ジンは階段まで走ると、位置していた三階から二階までを、踊り場ごとに飛び降りた。着地に少しでも失敗すれば捻挫は免れないであろう危険な高さであったが、なんとか脚を捻ることなく一階まで降りられた。流石に足の裏は幾度もの衝撃を受け止めた代償に痺れを伴った疼痛があるが、背後に迫り寄らんとする怖気に比べれば些細な事だ。


 いや。既に、背後まで瘴気を放つ存在は迫っていた。


 気配を隠そうともせず、一階から階段を登る跫音が鼓膜を震わせる。一段一段、ゆっくりと登ってくる音の主は、そうすることによって引き立てられる獲物の放つ絶望の匂いを味わっているのだろう。


 となると、階段で一階には降りられない。かといって、二階以上にこのまま留まっても悲惨だ。逃げ場のない上階では遠からず追い詰められる。


 ジンは階段から逃れるように、二階の廊下を走り、窓の下で広がる中庭の見える位置まで辿り着いた。注意深く、窓から眼下の光景を覗き見たが、追手の影は無い。窓を開けると、締め切られた室内へと入り込もうとする夜気が前髪を少し揺らした。


 窓から身を乗り出し、窓の外の僅かな突起に足を乗せる。窓枠をつかんでいなければバランスを崩して落下していたであろう。それほどまでに足掛かりが際どい。


 ここから飛び降りて、一気に校門まで走り去る――というのが、ジンが思いついた逃走経路だった。しかし、二階から飛び降りるのは勇気が必要だ。単純計算で先ほどの、三階から踊り場・踊り場から二階を合わせた高度なのだ。実際には階段を飛び越すために斜め軌道を描いていたため、二倍よりも少ない高度距離にはなるとはいえ、この高度は単純にして原始的な恐怖を喚起させる。


 それも致し方無き事か。余程のことが無ければ骨折程度で済む踊り場へ飛び降りるのとは違う、悪くすれば死に到る高度からの落下なのだ。


 だが、まごまごしていてはより確実な死に起因することになりかねない。なにせ、理由はわからぬが奴らはこちらを確実に殺害しようと迫っているのだ。何も、彼らが発言していたわけではないが、ジンは上位捕食者に対する動物的勘で悟っていた。


 なるべく着地の衝撃を緩和するため、落下地点を花壇に見定め、更に姿勢を低くして滑るように降下できるよう脳裏で心得る。


 できる、できるはずだ。


「う、わあああ!」


 意を決したものの口から出る悲鳴は抑えきれなかった。位置エネルギーを消費し、一瞬で夜気が髪をあおり、粟立った肌に擦れる。重力の軛に導かれて自由落下の破滅的浮遊快感と開放的原始恐怖が襲いかかる。時間単位で換算すると長い時間ではない。

 だが、ジンがこの時間を常より長く味わっていたのは、死を意識させる状況が分泌させた脳内物質に依るものだろうか。


 あたかも画像を拡大処理していっているかのように、次第に細部が明らかになっていく地上。風が体温を削っていく感触。瞳が渇き、足には確かなものが何もない。身体に伝わる膨大かつ高速の情報量に晒されながら、ジンはやがて訪れる衝撃に構えた。


 着地。歯を食いしばっていたにも関わらず、舌を噛みそうな衝撃に勢い余って、膝の折れた身体が転がる。二、三回転で勢いは相当に殺され、手足を投げ出す恰好で仰向けになった。じんじんと足裏から膝までを痺痛しびれが駆け巡っている。己の身体に問いかけると、衝撃は鈍くわだかまっているものの、その影響はどうやら骨には至っていないようだ。


「ふぅ~」


 痛みを散らすように息を吐き出す。

 視界には、自分を見下ろす校舎に切り取られた夜空が見える。


 いつしか雲が去ったとしている空はどこまでも深く重い。散りばめられた星々の瞬きも、素知らぬ顔で灯る常夜燈も底なしの冥闇くらやみの深みを増すために存在していると紛うほどに。


「よし!」


 起き上がる。未だ、地面を踏むごとに衝撃の残滓が存在を主張しているが、走れぬほどではない。

 追いつかれぬ内に来た時とは逆から校門をよじ登ると、ジンは沈鬱に押し黙った街へと戻った。

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