THE MORNING GLOW. 或いは、暁のゼクスヴァン

ふじ~きさい

INTRODUCTION

INTRODUCTION 1

 降りしきる雨の礫が肌を打ち、そして輪郭を撫でて地へと落ちる。雫と化した礫は、その他大勢の波紋に混じり、足元の水溜まりを構成する一部へと変じた。


 夜に降る雨は、なおも街を楼閣ビルを、そして人を濡らし浚っていく。制服の胸元にべったりと付いたぬめりある液体も例外ではない。口元も同様だ。液体は自らのもつぬめり気で少々の抵抗を行ったものの、結局は雨水に混じり押し流されていく。


 まるで、先ほど楼閣ビルの間に密やかに存在する、この路地裏で起こった血なまぐさい出来事の証拠を隠滅しようとしているかのように、雨は振り続けている。


 立ち尽くす制服姿――近隣の高等学校の制服だ――の少年は茫然自失としたまま、眼前の光景を瞳に映している。


 突如、強い光が上空より通過し、仄闇のヴェールを脱いだ光景の鮮烈な色が視界を打ちのめした。ろくに光源もない路地裏に慣れていた視界が感光されたのだ。手を翳すと、赤や緑と曖昧に変化する光の残像が名残惜しそうに視界に焼きつく。


 瞼を半ば閉ざしながら光へ眼をやると、その正体が明らかとなった。

 飛行船だ。気嚢きのうの無い飛行船の放つ空間投射エアスクリーンの光が、ちょうど彼のいる路地裏に差し込んだのだ。立体映像の無機質な女性の顔が投射されているようで、彼女の巨大な顎下が彼の眼に飛び込んできた。


『連続殺人事件、通称ブラッドテイカー事件はまだ解決しておりません。市民の皆様におきましては夜の外出を控え、戸締まりを徹底するようよろしくお願いします』


 ブラッドテイカー。……血を奪うものブラッドテイカー吸血鬼ブラッドテイカー……ッ!


 個人の行動が脳内チップにより管理されているこの街において、衝動的犯罪や精神異常による犯罪以外は行動履歴により事前に調査を行い、未然に防がれている。また、脳内チップは保有者が捉えた光景さえも記録しており、そのデータさえも特定の周期で管制AIへと送信している。つまり、脳内チップ処置者が無自覚な密告者あるいは監視カメラの役割を果たしているのだ。


 実際、この街の犯罪係数は同規模の都市と比較しても、かなり抑制されていると聞く。だが、統制を嘲笑い、夜な夜な凄惨な殺人戯曲を演じている正体不明の殺人鬼がいる。


 彼もしくは彼女こそが、くだんのブラッドテイカーである。ブラッドテイカーが如何なる手段を講じて、脳内チップから絶えず送信されている行動履歴を欺瞞ぎまんしているのか、そして多数の耳目を逃れて未だ性別も掴ませていない理由でさえも判然としていない。


 飛行船から女性の声で管制AIからの広報が流される。宙を泳ぐ飛行船から発せられる音声は、ドップラー効果により途中で音域を変化させながら、次第に雨音にまぎれていく。声は、表情や造作以上に無機質で非人間的極まりなかった。


 やがて、飛行船の光が失せ、路地裏には再び薄闇の静寂が訪れた。


 足元では天の救済を求めるように差し伸ばされた繊手が、途中で力なく項垂れている。水溜まりに身体を横たえ、金髪は底の浅い海にたゆたっている。青白い顔色からは、既に熱を喪って久しい様子がまざまざと伝わってくる。裏付けに胸部も呼吸で上下していない。そして、雨水で透明度を上げながらも、なおも存在を誇張している赤い衝撃


 屍体だ。魂魄を喪った女性が驟雨しゅううに身を晒している。この戦慄すべき事実に少年が茫然自失とするには充分な理由であろう。だが、本当の意味で彼が思考をめたのはそこではなかった。

 彼の視線は物言わぬ女性の首筋で留まっていた。左の首筋、ちょうど頸動脈の上に当たる部位に、綺麗に二つ並んだ双子の陥没傷がある。あたかも、人が首筋に犬歯を突き立てたような――。


 人間に噛み付かれたのなら、犬歯の周辺の歯型もあって然るべきだろう。人間の犬歯はそこまで長く発達していない。正確に犬歯だけを頸動脈に突き立てる事ができようはずがない。


 大昔に観たホラー映画シネマの怪物か。発達した犬歯で人の血を啜る怪物だ。無論、現実であるはずがない。今どき、子供ですら信じない。――本来であれば……。


 何故なら、正体不明の殺人鬼、ブラッドテイカーの犯行はまさに吸血鬼そのもの。犠牲者は全身の血を抜かれ、左の頸動脈に二本並んだ陥没傷が特徴だったのだから……!


 馬鹿な妄想だ、と一笑に付すには余りにも恐ろしい現実だった。


 そして、自らの制服に生々しくこびりついた鮮血をみとめた瞬間から、彼の意識は停止していたのだ。だが、それも長くは続かなかった。


 雨音にまぎれて不意に感じた、確かな人の気配に正気を取り戻す。反射的に振り向くと、暗い路地裏において血の赤さと違った鮮烈さが眼を射た。


 気配の正体は、白い傘をさし、肩と背中を露出した白いドレスを纏った麗々しい女性だった。年齢は一〇代後半にさしかかろうとしているように見える。


 くるくると回る傘に守られた彼女は、空に浮かんでいた虚像の女性のそれとは、また違う意味で無機質な美貌を湛えていた。職人がその心血を注いだビスクドールのような、現実感の乏しい美しさと言えばよいだろうか。白い肌膚きふは屍蝋めいてさえいるが、却って彼女の無機質な美を引き立てているといえる。輝く真珠色の長い髪が肌をドレスを流れている。まるで、星の河ミルクロードのようだ。だが、もっとも特徴的なのは赤と白の入り混じった虹彩だ。


 血色の瞳に色の失せた真白いアルビノの彼女は儚く映るも、彼にはどこか屍体の血を啜って咲き誇る死桜しにざくらにも見えた。


「君は……?」


 誰何すいかした刹那、フラッシュバックに脳が暴れた。瞬きの内に様々な景色が寄せては退いていく。




月夜視つくよみ美琴みこと

「…………ああ、そうだったなヽヽヽヽヽヽ

「そして、あなたは真木永人まきなジン


 ――真木永まきなジン


 少年は、十数年間慣れ親しんだはずのその名前に、えも言われぬ違和感を覚えた。自分の名前だという自覚はある。ただ、どことなくおかしい。例えるなら、映画シネマの登場人物の名前のように――現実味が無い。


 不確かな感触に戸惑っているジンに、白い少女が告げる。


「あなたはこの世界の救世主。人間でありながら、奴らと同質へと登り詰めた到達者」

「? 何を言っている?」

「今は逃げて。奴らが勘付いた!」


 にわかに彼女――月夜視美琴つくよみみことが繊手を持ち上げ、ジンの足元辺りを指さす。導かれるようにそちらを見つめると、生を亡くし弛んだ屍体の口元がちらりと覗ける。雨の中、真っ白に焼き付くヒトのそれより明らかに伸長された糸切り歯――。それこそ、血を啜る怪物のようで……。


「なんだ、これは!? 一体……」


 質疑にジンが顔を上げると、既に彼女の姿は何処にもなかった。夢か幻か。気配すら既に無い。ただ在るのは、天から落ちる雨音のみ。


 いや。脊髄からうなじへと駆け上がってくる氷点のしびれが物語る。隘路の向こう側から迫り寄ってくる、何者かの気配を。


 気のせいかとも思ったが、奇妙なことに確信として在る。雨に打たれながらも分かる、滲んでくる脂汗が雄弁に語る。心臓を鷲掴みにする悪寒が示す。あの先から来るのは、霊長の頂を自称するヒトを嘲笑う上位捕食者に位置する存在だ。


 雨に喚び寄せられたのか、はたまた正体不明の上位捕食者ソレがけしかけたのか、稲光が天に複雑な光条で走る。兇兆を告げる不吉な青白い光がまざまざと刹那を灯し、ケダモノの唸りに似た雷声らいじょうが空を支配する。


 はたせるかな、大通りから隘路につながる入り口に三人の、俯いた顔を山高帽子の鍔で隠した人影が映る。大人二人に挟まれた子供が一人といった人影。彼らは夜闇の暗がりにあって、何もかもが黒かった。かぶった山高帽子から立襟の二重マント、杖と握っている手袋に履いている革靴までも黒い。


 無論、警察ではない。警察であった場合、傍らの屍体からジンが真っ先に疑われるであろうが、そうであっても警察であればどれほどよかったことか。少なくとも、同じ人間だ。しかし、彼らは違う。匂い立つ存在力がヒトと呼ばれる生物であることを否定している。


 近いどこかに墜落したのだろう。刹那の空から降る雷光が再び夜街を強烈に照らす。落雷の轟音を契機に、腹の底まで響き渡る音圧の中、黒い影がやおら顔を上げると、血色に爛々と瞳が闇間に浮かび上がる。三人が三人、揃って美しく整った顔立ちだが、彼らの顔色は不気味なまでに青ざめており、ジンの隣で熱を喪い横たわる女性のものより生気が無い。


 ――薄すぎる生物としての気配、均整のとれすぎて生理的恐怖をあおる作り物めいた美貌、帽子から僅かに覗く色素の抜けた頭髪、蝋人形の肌膚きふ、なにより肌を走る血液を奪い取ったように妖しく咲く血色の瞳。まるで、屍人の顔デスマスクだ。


 だが、見た目の印象から気配から感じたのは、異存在的な威圧感よりも強い既視感だった。そう、どこか人ならざる気配と無機質な風貌は、白いドレスの『彼女』――美琴みことが放っていた大気と同質だった。


 ただし、彼らの有り様は美琴に似てものの、怖気が走るほどの生気の無さは、彼女など及びもつかぬほどに冷血かつ空虚なうろだった。


 悪寒という冷たい稲妻が、ジンの背筋から頭頂までを瞬時に駆け上った。認識/判断/行動。その一つ一つの活動が平素よりも一段遠いヽヽ。咄嗟の出来事に対する対処で言えば最低と言わざるをえない。ジンの身体は行動という指向性を与えられないまま、呆然と停止していた。


 がちがちがちがちがちがちがち。


 雨音にも負けないリズムカルに打ち鳴らしている硬質的な音は、真ん中に位置どった屍蝋の子供がむき出しにした歯から聞こえてくる。そして、見えた。糸切り歯というには余りに過剰な長さの尖頭歯は、牙歯と呼ぶ方が相応しかろう。女性の首筋についた陥没傷がフラッシュバックする。


 ぞくり、と全身を氷の巨人に掴まれた感触。内から発生した氷点下の体温の中、自由に身体が動かない。脚が竦み、喉が乾く。制服のシャツを濡らしているのが雨だけではなく、内側から滂沱と溢れる汗が多分に含まれているのが分かる。震える全身で、蛇に睨まれた蛙という形容をジンは噛み締めていた。


 がちがちがち……


 怖気を誘う、噛み鳴らされていた歯のリズムが止まった。だが、ジンは理解してしまった。理解できてしまった。あれがもう一度鳴る時、ジンの生命の灯火を吹き消すべく、三つのヒト型が襲いかかってくるのだ――。


「~~~~~ッ!」


 おぞましい理解に逃走本能が刺激されたか、金縛りが脚から解けていく。氷解した肉体は思考よりも冷静な本能に突き動かされ、彼らを刺激しない程度に後ずさり、現状の脚部の機能を確かめる。


 …………がちん!


 震えは完全に取れないが、動きに関しては支障ない。本能的な判断と、打ち鳴らされた歯音はほぼ同時だった。


 途端、ジンが、そして屍蝋じみた三人が動き出す。ジンは何もかもを置き去りに走りだし、黒い影三つは恐怖の感情を追跡する。滔々と雨粒が路面を叩く中、ジンの生存をかけた逃走劇が開始された。

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