第4話

【第四夜・かぶの風呂吹き】


 詠子は、思い立って祖母を訪ねた。介護施設に入所している祖母に、柿なますを持って。久しぶりの帰郷だった。遠くはないのに、帰らなかったのだ。実家から1時間ほどのところに祖母は入所している。

 柿を持ってきてくれた父には、携帯電話のメールで「ありがとう」と送っておいた。それだけでなく、しばらく考えてから「美味しかったよ。柿なますにして頂きました」と付け加えたのは、詠子にしてはかなりの勇気を振り絞ったことだった。 

 「北川さん、お孫さんが見えましたよ」送ってしまったメールの内容を、あれでよかったのかと迷ったりしている詠子の耳に、よく通る介護施設の職員の声が飛び込んで来た。4年前の入所以来、詠子は数えるほどしか来たことがない。元気いっぱいの20代前半の若い職員に応対してくれた。

(いつ来ても、明るいところやな……)

この介護施設は採光に工夫があるのか、とても明るく開放的な印象を受けるところだった。

入所者が5人ほど集まって折り紙をしているところへ職員が声をかけると、全員が振り返った。それぞれがなんとも言えない表情をしている。幼女のような満ち足りているような、柔らかに緩んでいるような、奥に澱のような感情が潜んでいるような表情は、詠子をいつも戸惑わせる。詠子の足をぎくりと留まらせる。詠子は、どう対応していいかわからないので、どうしても足が遠のくのだった。

 ゆっくりとした流れの中にいる顔つきの高齢の女性たちに、やさしくじっと見つめられる。詠子の日常の中には無いテンポに、詠子は自分がひどく場違いに思えて立ち去りたくなるのだ。

「えい、子」

 詠子には耐え難い長さに思えた時間の後、折り紙をしていた集団の中から声があがった。高齢者特有の震える声で、祖母は詠子の名を口にした。

「おばあちゃん、久しぶり」

 詠子は反射的に声を出したが、祖母は反応らしい反応を見せず、介護職員の手を借りてなんとか立ち上がっただけだった。詠子は、まばたきしてから言葉を飲み込む。久しぶりね、よく来たね、という明るい弾けるようなやりとりを無意識に予測している自分を、毎回自覚させられる。祖母は、かくしゃくとしていた時でも、一度でもそんな態度を示したことはなかったのに。 

 自分の言葉が吸い込まれていくような錯覚を覚えて、詠子は胃の底がひやりとする。湧いてくる感情をなだめながら、介護職員に支えられてなんとか部屋へ歩いていく祖母の後ろをついていく。三十歳を越えてから、湧いてくる感情をなだめるのが上手くなった。


「何や」

老人ホームの小さな自室のベッドに腰掛けた祖母が、乏しい表情で訊ねた。いつものつっけんどんな物言いだ。詠子は、一つだけある椅子に腰を下ろしながら、やれやれと思いつつ答えた。

「お見舞い……っていうか、久しぶりに顔見に来ただけやけど」

いつものやりとりだった。祖母は痴呆症状があるわけではない。詠子がものごころついた時から、「会いに来るのに理由が要る」人だった。

「ちゃう、それは何や」

祖母は無表情のまま、詠子が机の上に置いた小さな朱色の紙袋に目をあてて、言った。

え?詠子は戸惑った。

いつものやり取りではない。詠子が持ってきたものや、身に着けている物に対して、叱責以外の注意を祖母が向けることは、いまだかつてなかったことだった。

「それ、は、何や」

痺れを切らしたように、祖母が一音一音区切って言った。

「あ……なます。柿なます」

詠子は思わず、本当のことを答えてしまい、しまった、と思った。黙って置いて来ようと思っていたのだ。感想など聞くつもりはなかったし、聞けると思ったことはない。話題にすることすら予想していなかった詠子の空白を突くような質問だった。

「……ま、もらいもんで作っただけやし」

言い訳するように、詠子は小さな声でつけくわえた。昼過ぎの明るい光が射しこむ室内で、詠子の声は空間に投げられて、受け止められることなく、漂って消えて行った。

 祖母は返事をせず、どこに留まっているとも知れぬ視線で考え事をしているようだ。詠子もなにも言うべきことが思いつかず、虚を衝かれた状態を取り繕えないまま黙っていた。遠くで人が動き、鳥が鳴き、風が吹く音がする、沈黙の時間が過ぎていく。

「それ、こっちへ」

先に口を開いたのは祖母だった。どこにも親しみのない抑揚であるのは変わりがなかった。詠子が子供の頃から、食事の世話から生活の面倒まですべて見てくれていたのは祖母だった。しかし、詠子にはいつも親しみの感じられない祖母だった。

 そういうことは、離れて暮らしていると、日常の中から忘れ去られていく。今現在の日常の中で大きな部分を占めている人たちの親しさと同じように、祖母の行動も予測してしまい、その度にそっけなさに傷つくことになる。そうではない、祖母はこういう硬い人であった。それを思い出すのに充分な声色だった。

(ああ、そうであった……)

詠子は身の内から湧き出てくるような思いを噛みしめながら、紙袋を祖母へ渡した。

「ん」

紙袋を受け取った祖母は、口の中で「うん」とも「ふん」とも聞こえる返事をしながら、中をガサガサと探った。タッパーを取り出した祖母は、目の高さにかかげてじろじろと観察した。

「ふん」

祖母はまた言って、バクリとタッパーの蓋をあけた。こぼれるかも知れないとか中身が寄るかも知れない、といった気遣いが全くないように見える動きだった。詠子にとっての祖母は、いつもこうだった。

「箸は」

齢九十歳の祖母の言葉は投げられて、詠子を打つ。それでも詠子は何も言わずに箸を差し出した。小さい頃に出て行った母親の代わりに、大学に入るまで徹底して生活そのものを維持してくれた祖母に感謝しながら、この祖母の態度になじめないままでいることに詠子は罪悪感を抱き続けていた。「おばあちゃん、大好きー」と甘えられる祖母であることを願った幼い頃を、母が生きていてさえくればと願ったことを、痛みとともに思い出し罪悪感を頂き続けた。詠子は、その満たされない焦燥感のようなものを生来の友のように抱えていくのだと思っていた。

――シャリ、シャリ。

 小気味よい音が狭い室内に響く。詠子は、柿なますを食む祖母の顎をぼんやりと見ていた。

「あんたは、これが好きやったな」

祖母がシャリシャリと音をさせながら、目の前の柿なますを見つめて言った。

「あ、そうやね……」

そうやったやろうか、と思いながら詠子は同意した。いや、そうではない。決して柿なますが好きだったわけではない。今でも決して好きなわけではない。ただ、無性にそれが食べたいと思うときがあるだけだ。

「あと、風呂吹き」

祖母は、かなりの勢いで柿なますを食べ続けながら、詠子の好物を挙げた。正確には、祖母が詠子の好物だと思っている物を、だ。

「そうやね……」

詠子は、祖母がタッパーいっぱいの柿なますを食べ尽くす勢いなので、胃に悪くないだろうかと心配しながら、上の空で返事した。詠子は、風呂吹きも特に好物だと思ったことはないと思いながら。

「あんたのお母さんが、好きやったから」

祖母は柿なますを食べる手をとめて、窓の外に目をやって言った。

「え」

詠子は、とつぜん、祖母の口に母が登場したので、驚いた声をあげてしまった。祖母は、母の話をほとんどしなかった。詠子が問わない限り話題にしなかったし、詠子への返答も紋切型で、母の好きなものを話題にすることなどついぞなかったのである。詠子が聞きたがっても、祖母は母の話は「どこそこの学校を卒業した」「背は何センチだった」といったことしか言わなかった。「好きなものはあれこれで、あの日一緒に食べて」など言った、思いを馳せるような話をしたことなど、ついぞなかったのである。

「曜子さんは、柿なますとか風呂吹き……季節のものをいろどりよく美味しく食べるのが好きやった。曜子さんの、柿なますは美味しかった。風呂吹きも美味しかった」

祖母は詠子の方を見ないで続けた。声が震えている。高齢者特有の声の震えなのか、そうでないのかは、詠子には分からなかった。

「この柿なますは、曜子さんの味を思い出させる。私の作ったものとは違う味で……お母さんの味なんは、あんたが曜子さんの子やからなんかな」

詠子はなんとも答えようがなかった。詠子には母の記憶はほとんどない。写真でしか見たことがないし、もはや詠子は母が家を出た年齢を越えた。母は詠子のように働いていなかったし、詠子は子供もいないし夫もいない。何一つ母と共通点がない。詠子は、母をどのようにとらえていいかわからないまま生きてきて、母が詠子のお母さんであった年齢を越えて生きている。

「曜子さんは、あの子の嫁ではないみたいに明るうて」

祖母が、「子」の発音を「こぉ」と発音するのを、詠子は柔らかく聴いた。全国に支社のある会社に勤めている自分は、地元の人と会うとき以外は、もうほとんど方言らしい話し方をしないし耳にすることも減っている。やたらにそういう方言が懐かしく感じられる。祖母が普段しない思い出話をするから、よけいに郷愁に駆られたのかもしれなかった。

 祖母の語る母は、詠子とはまるで似ていなかった。むしろ詠子は、祖母のかたくなさや人付き合いがうまくないところに似ていた。父もそうだった。だから母がそんな人であったことが、まったく想像できなかった。

「そうなん、お母さん、そんな人やったん。柿なます作るん、上手かったん」

詠子は祖母の気持ちをひきたてようとして口にした。とたんに、詠子自身のなかでも甘い気持ちが湧き上がってきて戸惑った。こういう懐かしい気持ちになる話を、詠子は意識的に避けていたのかもしれなかった。詠子が心からと望み、得られないものであったからかもしれない。

「そうや、柿なますなんてハイカラなもん、私はようせえへんかった。曜子さんは、なんでも試してみて『面白い、面白い』言うてはった……」

「そうなん?柿なますは、おばあちゃんの料理ちゃうかったん」

「あんたに食べさせてきた料理は、曜子さんがよう作ってた料理ばっかりや。曜子さんの味はようせえへんかったけど」

詠子は驚いた。祖母はかたくなに祖母の料理を作り、詠子を厳しく躾けてきたのだと思いこんでいたのだ。

「なんで……言ってくれへんかったん?」

「なんで、って、あんたがお母さんいいひんの可哀そうで、もう戻ってこおへんのにお母さんのこと懐かしがらせたら不憫で、そやけど、曜子さんのご飯食べさせてあげとうて、お母さんいいひんからって何か言われるような子に育てたら可哀そうやって」

詠子は、幼い頃の埋められない飢えのようなものがまざまざと蘇ってくるのを感じた。なんでそう言ってくれへんかったんやろ、と詠子は痛切に思った。思わず口に出しそうになったが、小さくなった祖母が、祖母なりの偏屈ではあるが精一杯の思いやりをもってそうしたのだということに思い至って、詠子はこらえた。そして、あの幼い頃からずっと今まで続いてきた欠落のようなものが、もう埋められない戻れない時間であることが宣告された気がして、詠子は痛みを感じた。

「やっぱり、親子なんかなあ……よう似てる」

祖母の声は震えていたが、柔らかかった。詠子がずっとずっと感じつづけてきた、人を頑なに拒むような固さは、その瞬間に限って消えていた。祖母が自分自身を覆い続けてきた鎧が、今だけ外れて落ちているのかも知れなかった。

 この人も、ずっと苦しんできたのだ。この人も老いたのだ。詠子は初めて祖母の気持ちの寄り添えた気がした。

「……次は風呂吹き、持って来るわ」

詠子が言えるのはそれだけだった。詠子は、また深夜の台所に立って蕪を炊く自分が、母の姿と重なるように思えた。もしかしたら、あの料理も、あの料理も、ポトフも――母の料理なのかも知れなかった。

 

 詠子は深夜に台所に立つ。ごろりと重みのある蕪の天地を切り落として、大きめに切り分ける。出汁をいっぱいに鍋にはって蕪を入れ、みりんと薄口しょうゆで味をととのえながらゆっくり炊いていく。換気扇を回していても白い湯気があがり、台所の窓を白く曇らせる。

 詠子は、蕪の風呂吹きをほとんど作ったことがなく、また好きでもなかったから、本屋でレシピ本を買わなければならなかった。そこで初めて気づいたが、蕪の風呂吹きの作り方が載っているものはほとんど見当たらなかったのだ。

――そうや、風呂吹きは大根なんや。

 詠子は突然思い当たった。長い間、自分が風呂吹きといえば大根であり、小さい頃に食べたものが蕪であったことに、ぜんぜん気づいてなかったのだ。風呂吹きは、詠子の中で食べるものではなく、「風呂吹き大根」という外で食べるものに、いつのまにか置き換わっていたのだった。

(ああ、道理で……。蕪の味が、が美味しいんか全然分からへんかったし……)

 ようやく見つけた京都の家庭料理の小さな本に蕪の風呂吹きが載っていた。ごくごく短いレシピの通りに味噌を測る。味噌を1㎏。ようけ使うんやな……と思いながら別の鍋へ入れ、そこへみりんと酒を入れる。

 近所の八百屋のおっちゃんが「自分の家の木のんや、薬使てへんし見た目悪いけど、ええ匂いやで」とおまけしてくれた柚子の皮をすりおろす。

 深夜の台所が湯気にみちている中、柚子の香りが一粒一粒光のように立ち上がる。じんわりと空気が重い中、柚子の香気があたりを払うように満ちていく。

(ああ、お母さん)

詠子は突然雷に打たれたように思い出した。詠子の記憶の底で確かに母がいた。母が作ってくれたのだ。詠子は動けなかった。

 じり。詠子がはっとすると、味噌が鍋の中でうっすら焦げそうになっていた。味噌の焦げる香りが立ち上がり、柚子の香りとまじりあう。

詠子は慌てて、火にかけた味噌を練り、すりおろした柚子の皮を入れて練った。味噌の甘い香りに爽やかな柚子の香りが溶け合い、台所に満ちていく。幸福の香り。詠子は胸いっぱいに吸い込みながら、自分の中の扉が開いていくのを感じていた。度し難い悲しみが、何かあたたかいもので埋められていくように感じた。

 淡々と料理の手順を踏んでいく。毎日の中に人生がある。詠子は、手を動かしながら、思いを馳せた。 

 蕪がやわらかに煮えると、たっぷりの出汁でひたひたにして、練った柚子味噌をかける。

(お行儀が悪いけれど)

詠子は口の中で言いながら、台所で真夜中に立ったまま、出来たての蕪の風呂吹きをひとさじ口に含んだ。口の中に広がる柚子の香り、味噌の甘くてねっとりとした味、ほろほろと崩れる蕪。

 同じだった。もうハッキリといつとは思い出せないけれど、確かに詠子は幼いころに食べたことがあった。大根に比べるとすこし強い蕪の香りも、まるで同じだった。かつて、間違いなく幸福な気持で食べた、と、真夜中の台所で突っ立ったまま、詠子は満たされていた。 

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