第31話 伸宏の午後
柳は立ち上がると一つになった目でもう一度鎮太郎くんを見ました。
「ばいばい、げんきでね」
「何故そんなことを言うんだい。蝶になるだけさ。直ぐにひらひら翔んでこっちに戻ってくればいいさ」
「・・ばいばい」
柳はぴょんと屋上から飛び降り、鎮太郎くんと伸宏くんの視界から消えました。
地面がすごい速さで近付いてきます。
柳は、嗚呼、自分は本当に死ぬのだな、と思い、覚悟を決めて目を瞑りました。
しかし妙です。
「ぶへ・・」
いつまで経っても衝撃が来ないのです。
柳は瞼を開いてみました。
やはり物凄い勢いで落ち続けているように思えます。しかし、いつまで経っても地面にぶつからないのです。何とも不思議な心地でした。
「な、何これ」
やなぎ。
「うひ・・?」
ふと、柳は頭上から声がした気がして見上げると、そこには光を放つ蝶の羽根を付けた女の人が浮かんでいました。
「ぶへ、あなたは・・、樹海の・・」
外で生徒達が騒ついている気配が鎮太郎くんと伸宏くんがやってきた昇降口の中にまで伝わってきていました。
「グヒヒ。何があったのですかねぇ、ワトスン」
「もしかして、ブサイクな生徒が自らの容姿に耐えられなくなって身投げでもしたんでしょうかね。いや、あくまでも勘ですがね」
「笑止!」
鎮太郎くんは可笑しさのあまり涎を噴き出しました。
「早速そこいらの生徒に、聞いてみましょうよ」
「そうしましょうそうしましょう」
二人は手を繋いでスキップで昇降口の外に出ました。そして、直ぐに「おや」とあることに気が付きました。
騒つく生徒達の視線が妙な方向に集中していたのです。
鎮太郎くんと伸宏くんは首を傾げながら生徒達の視線を追うように視線を上げていきました。・・すると、
「な、何ですかあれは!」
そこにガタガタと震える柳がいました。
「ぶへ、ぶへへ。恐かったぁ」
「き、貴様。何でそんなところに貼り付いているのですかぁーっ!」
校舎の壁に柳がヤモリのように貼り付いていました。
「あの、ふひ、恐くなっちゃったので、へへ。ごめんなさい」
「違う、そうじゃ・・、ち、違うっ!」
“どうして貼り付いているのか”では無く、“何故貼り付くことができるのか”が聞きたかったのです。しかし、鎮太郎くんは動揺の余り問い直すということすら今は上手に出来ません。
「あの、上履きは屋上に置きっぱなしなので、へへ、一旦戻るよっ」
柳はそう言うと手足をべたんべたんと動かしながら凹凸も何もない壁面を上手に登っていきます。
「・・・」
伸宏くんは絶句して震えています。
「こ、こら! おい、醜女! 上履きなんてどうでも良い、良いから一度こっちに降りて来なさい!」
「あの、でも、へへ、大事な上履き・・。あ、ぶへ。きゃっきゃっ、鎮太郎くんパンツ見ないで!」
「・・・」
「で、でも、鎮太郎くんなら、ちょっとだけなら、いいよっ」
「・・・」
(このブスがぁッ・・!)
周囲の生徒が気色悪さの余り、何人かバタバタと倒れ、口から黒い泡を吹きました。
(いけない。ここで怒っては逃げられてしまうやも知れぬ)
鎮太郎くんはひとつ咳払いをすると心を落ち着けました。
「柳、上履きは幾らでもある。しかし君は世界に一つしかない」
鎮太郎くんの屁理屈が始まりました。
「ふへ・・?」
世界にひとつの君が、たくさんの上履きのひとつを取りにわざわざ戻ることはない。そうだろう。分かるかね?
うん、分かる。
「では今直ぐに戻ってこい」
「う」
柳は納得した様子を見せてべたんべたんと降りて来ました。そして、つま先をちょいちょいと伸ばして足が地面に着く辺りに来ると、飛び降りて着地しました。
「ふへ、あの。蝶になれませんでした。ごめんなさい」
「この出来損いがっ!・・おや?」
鎮太郎くんは周囲の生徒達から多くの視線を浴びていることに気が付きました。
「何ですか、この土人共。何か物珍しいことでもあったんですかね。面白い物が見たければ鏡でも見ればどうですか」
「・・クソが」
周囲の生徒は口々に鎮太郎くんに罵声を浴びせるとその場から去って行きました。
「ふう」
「あの、鎮太郎くん。気分が少し悪くなってきたので、僕も、その、一旦教室に帰って良いかな・・」
「柳、お前。本当に蝶になる気はあるのか」
「・・ふへ。ごめんなさい。あのね、神様に会ったの」
「だから会えなかったんでしょうがよ、今回! このクズが!」
「ぎゃん」
鎮太郎くんは柳の顔を握り拳で殴りつけ、柳は鼻血を出しました。
無視された伸宏くんはただぼんやりとその様子を眺めています。
「駄目だ、お前のような奴に蝶は未だ早かった様だな。貴様は海老からやり直しだ!良いな!?」
「ぶえ、・・ふぇえ」
「泣いてるんじゃないよ!」
「ぎゃん」
柳の顔がどんどん変形していきます。
「今日の授業後にまた海老修行に出発する。心の準備をしておきなさい。いいね?」
「あの、海老はもう。ふへ、大変だったので・・」
柳の頭の中に樹海の中で縛られたまま放っておかれて寂しかったこと、修虫くんのことや、御器ノ介、金夫にお蝶さん、民宿『最後の晩餐』の人々、寺地くん、色々なことが浮かびました。
「きき、聞いて。あの、腕も無くなっちゃったし、目玉もひとつ無くなっちゃった。恐いおじさん達にスプーンで食べられたのよ。でね、優しい蜚蠊が腕を一本くれるって言ってくれたんだけど、和子さんの脳味噌に卵を産んだから滅茶苦茶になったの、ぶへ」
「何を訳の分からぬことを」
全くその通りです。
「それにだね貴様の腕や目玉が無くなろうと僕は痛くも痒くもありませんよ。そんなことはどうでも良いから確実に準備しておきなさいよ。お前の愛しの鎮太郎様からの命令です。良いですね?」
「ふへ、あの・・」
鎮太郎くんはギロリと柳を睨みました。
「は、はい・・」
「・・ふん」
「ぐひ、ま、待って」
昇降口に早歩きで去っていく鎮太郎くんを柳は鼻血を散らしながら追いかけました。
「う」
そしてふと、柳は女神が浮かんでいた辺りを一度見上げました。
「やなぎ」
「ぶへ、あなたは・・、樹海の・・」
「やめるの?」
「だって、鎮太郎くんが死ねってするの」
「わたしはたずねるだけよ。きめるのはあなた。ひと が なんといっても かんけい ないのよ。どうしたい?」
「ぶへ、あのね。本当は続けたいの」
「つづけたいの? つづけるの?」
・・・。
柳は鎮太郎くんの方に顔を戻すと「ぐひ、待って、鎮太郎くん」と言って追いかけました。
伸宏くんは校舎にもたれ掛かると、いつも通り最悪の曇り空の下、黒杉山を遠くに見つめながら煙草の煙を吐き出しました。
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