第19話 殿方はマグロがお好き

 ずるずる。

「う……、ううん」

 おぼろげな意識の中、柳は自分が何かに引きずられていることに気が付きました。しかしそのことは柳が考えていたのと少し状況が違っていました。人喰い魚がいると聞かされていた池に飛び込んだので、柳は自分は直ぐに魚に食べられてしまうと思ったのです。

 もしやここは死後の世界だろうか、柳は瞼を開いてみました。肥溜めのようなどんよりとした空、そして民宿、最後ノ晩餐の建物の軒が見えました。

「ふへへ、変だなぁ……。やっぱり生きているような気がするなぁ」

 ずるずるずるる。

 仰向けのまま引きずられながら柳は誰が自分の髪の毛を引っ張っているのだろう、と思いました。

「あの、どちらさんですか。げへ」

 柳の声にずるずるを髪を引っ張る何者かの移動がピタリと止みました。

「ふひ」

“かこぉーん”

 鹿威ししおどしの音の他は何も聞こえません。

 柳はむくっと体を起こし周囲を見回しました。その時のことです。物凄い勢いで何か黒い影がかさかさかさと縁側の下に潜り込みました。

「うひゃ」

 柳はとっさに海老反りになるとわさわさとその影を追いかけ縁の下を覗き込みました。しかし、そこには人影のようなものはありません。真っ暗な空間には大きなカマドウマがびょんと一匹跳ねているだけでした。そのカマドウマも柳と目が合うとその気色悪さに虫なりの吐き気を覚え、ぴょんぴょんと姿を消してしまいました。

「ううん、何もいないな、……ぐへ?」

 ふと柳は縁の下の地面に指で書いたような文字を見つけました。

「も……“もっと、くるしめ。おかあさんより”」

 ……ぐへ。

 柳は何だか嫌な気持ちになりました。


「あ〜!柳さん、こんなところに居たですぅ」


 元気の良い甘ったるい声がします。柳はべたんべたんと縁の下から離れ、顎を引いて視線を上げました。縁側の上で鉈とお客さんの生首を持った和子さんがほっぺたを膨らませています。

「ぷんぷん!こんなところで油売ってないで体を売って下さいなのです!お客様がお待ちなのですよ」

「ふへ、体を売る?」

 原宿でバラバラに切り売りされて蛆まみれになったお母さんのことを柳は思い出しました。

「わ、わたし、さ、魚屋に売られるですか」

「ハァっ?……ああ、なるほど!ええ、マグロで全然問題ないですわよ」

「まぐろ……、えび、えびの方が良い、なあ」

「それでそんな風に海老のように仰け反っているんですの? 変な人。えびより、マグロの方が殿方に受けが良いですわよ。さあ、いつまでも裸でいたら風邪をひきますわ。これを着てください」

 和子さんは柳にところどころ乾いた茶色い血の染みが付いた生成りの汚い襦袢を丸めると、思いっきり柳に投げつけました。


「あら、少し大きいけど似合ってますですぅ」

「ふへ、そ、そんなことない、で、ですぅ、げへへ」

 丈も全く合っていない汚い襦袢に袖を通した柳は一層惨めでした。背中には「糞売女」と大きく刺繍がされています。

「いいえ、間違いなく世界でその服が一番似合ってますですぅ。さあ、もういいですかね。いきましょう」

 そう吐きすてるように言うと和子さんは手に持っていた生首を池に放り投げました。


 柳と和子さんは長い廊下をどこまでも歩いていきます。

「あ、そこ。足元にねばねばしたとてもこわいものがあるので気を付けて下さい。足が溶けますよ」

「ふひ、はい、ですぅ」

「あら」

 ふと和子さんが足を止め、柳の方へ振り返りました。

「その喋り方、さっきから、もしかして私の真似をなさっているんですの」

 柳はできるだけニヤっとならないように頑張ってニコッと微笑みました

「げへへ、和子さんは、せ、せんぱいですぅ、なので、見習って……」

「あら、ふふ。そんなことを言いだせば醜女さんは私にとっては年増女のようなものですから、人生の先輩なのですわよ。だから、わたしも醜女さんを見習って真似をしてみますですぅ。よく見てて下さい」

 言っていることの意味はよく分かりませんでしたが柳は嬉しくなって「ぶ、ぶよぶ〜よ!ぶよぶーよ!」と叫びながら手をパチパチと叩きました。

 和子さんは目を閉じてふう、と深呼吸しました。

「……」

「……う」

「……う?」

 次の瞬間突然、和子さんの左右の目は上下逆にぐりんと回りました。そのひょっとこのような顔に柳は「ひぃっ」と声を漏らして固まりました。


「うっしっし、おら、ばか、おら、ぶす、犬コロのげろふんにょう、うっしっし!うっしっし!」


 和子さんは柳の周りを身体障害者のように痙攣しながらくるくると踊って徘徊しました。

「……」

「うっしっし、あほう、どあほう!! しりあなまぐわいのどちくしょう!!はぁ、はぁ……どうですか?似てます?」

 和子さんは呼吸を整えるとにこりと柳に微笑みました。そしてくるりと向き直り、再び廊下をずんずんと歩き始め、柳は黙ってそれについて行きました。柳はとても悲しかったので和子さんの真似をするのはもうやめよう、と思いました。

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