第二話「消失と、再会」
雨が、降っている。
「まるで、今の俺の心の中みたいだな…」
なんて詩人みたいなことを呟いてみたはいいが、それがあまりに似合わないものだから思わず彼―緑間祭は失笑してしまう。
緑間は窓を開け、空模様を窺った。重たい鉛色の空、しばらく雨は止みそうにない。
ふと、携帯の着信音が鳴った。馬鹿みたいに明るい、今の緑間とは対照的なアップテンポのその音楽がやけに耳障りだった。
一息ついてディスプレイを覗くと、映し出されたのは可愛い後輩である響の名前で、「またか」と緑間は呟く。申し訳ないとは思いつつ、緑間は後輩からの電話を放置した。
つい五分ほど前には琴乃から電話がかかってきているが、その電話にも彼は出ていない。おそらく心配してくれているんだろうと頭ではわかっているのだが、誰かと話す気分にはどうしてもなれない―それが緑間の今の心境であった。
あれから五日、緑間はずっと家に引きこもっていた。学校にも行っていないし、姉とも最低限の会話しかしていない。
(……静)
七月七日。あいつは俺を庇って死んだ。自分の命よりも俺の命を優先して。ただの幼なじみの為に―あいつは、命を捨てた。
あの日、静は執拗に一人で帰ると言って聞かなかった。その日に限って、だ。俺の気持ちも知らないで。
夢を見た。
放課後、いつもなら一緒に帰る岐路に、静は一人で着いていた。隣りに俺がいない、変な夢だった。そしてもっと変な事に、夢の中で静は交通事故に遭って死んだ。変な夢じゃなくて、ただの悪夢だった。予知夢でないことを心底祈った。
万が一それが正夢であったとしても、俺と静が一緒に帰らない日なんてそうそうないから。だからそれが現実になるわけがないんだと、そう思っていた。それなのに、
―静が、一人で帰りたいと言い出したのだ。
どうしても今日だけは、と何かに怯えているかのような目をしていて、今思えばあの時の静は、どこか様子がおかしかった。おかしかったことに気づいた時には、あいつはもう。
いつもなら、“わかった”の一言で済んでいただろう。静がしたいと言ったことは極力、出来うる限りさせてやりたいと思っていたから。
それを言われた時、頭を過ったのは今朝見た夢のことだった。あれがただの夢だとは、どうしても思えなかったから―どうしても、あいつを一人で帰らせたくはなかった。
話し合いは口論に発展し、それでも静は頑として一人で帰ると聞かなかった。結局俺は、「勝手にしろ」と突き放すような言葉を置いて、その場を去った。静と喧嘩をしたのなんて、何年ぶりだっただろう。まさかあの日のあれが、静と喧嘩する“最後”になるなんて、思ってもいなかった。
そうしてあっという間に一日が終わり、俺は一人で下校していく静の背中を教室の窓から見下ろした。あの背中を見るのが、もしかしたら今日で最後になるかもしれない―なんて、そんなことを、一瞬でも思ってしまって。
夢での出来事が脳を過ぎった。
そうしたらやっぱり不安になって、後悔したくなかったから俺は全力であいつを追いかけた。
『行くな!静!渡っちゃダメだ!』
追いついた時にはもう、静は夢で事故が起きる交差点にさしかかっていた。もしもあれが、万が一にも正夢になったなら―もう直必ず車が飛び出してくる。白い車だ。
俺が後ろから呼び止めると、静は鳩が豆鉄砲でも食らったかのように目を見開き、心底驚いている様子だった。俺は、とにかく必死になって渡るなと念を押した。
『馬鹿!来るな、祭!』
すると、あいつにしては珍しく声を張り上げた。今思えば、どうして静は俺に「来るな」などと言ったのだろうか。
だが、あの時の俺には、少なくともそんなものに耳を傾ける余裕は、皆無であったわけで。
(ふざけんな…あんなエンディング、まっぴら御免だっつうの!)
たとえ俺が死ぬ事になったとしても、静だけは生かしてみせる―そんな風に思っていた。
今日があいつの誕生日だったから。
あいつが生まれてきた日だから。
結局、生かされたのは俺のほうだったわけだけれど。
案の定、夢の通り白い車が静に向かって飛び出した。これほど望まない正夢もあったもんじゃない。
必死に手を伸ばしても、俺と静の距離は埋まらない。
俺は結局間に合わなかった。
でも、だからと言って静は死ななかった。飛び出してきた車を、寸でのところであいつは避けたから。
俺は静が無事だという事実に心底胸を撫で下ろし、涙をぐっとこらえてしかりつけるように怒鳴った。俺と帰っていればこんなことになってなかったのに!
静は情けない笑顔を浮かべて、俺の説教に耳を傾けていた。助かった事に安堵したのか、あいつの体は小刻みに震えていたように思う。
とりあえず、夢は終わった。静は死ななかった。俺も死ななかった。それが現実だ。
それだけの現実が、泣きそうになるほど嬉しかった。
嬉しかったのに。
『…ああ、そういうこと』
そうして二人で信号を渡る直前、静は悟ったような―まるで昨日の夕飯のおかずを思い出したかのような、軽い口ぶりでそう言った。
その直後、信号を無視した赤い車が俺たちに向かって突っ込んできた。おかしい、こんなのは俺の夢にはなかったはずだ。
呆気に取られて動けなくなった俺を、静が歩道側へと突き飛ばした。その衝撃でしりもちをついた際、俺は思わず目をつぶってしまった。
この時目をつぶったのは、俺にとっては多分不幸中の幸いで、もっと言えば幸せなことであったんだと思う。
目を開けた俺の前に広がっていたのは、真っ赤な鮮血と道路に転がっている幼なじみの姿だった。
―静は、俺を庇って、車に。
(あ…ああ…)
気がおかしくなりそうだった。
俺たちは幼なじみで、小さい頃からずっと一緒にいて、これからも一緒にいる予定だったし、あいつには俺がいないとダメだから、だから―なんて。
嘘だ、本当は、あいつがいないとダメなのは俺の方だ。俺の方だった。
でも、静は今、俺を庇って、血まみれの状態で倒れ伏せている。生きているのか、死んでいるのかさえわからない静に、俺は何を言えばいいのか。
あいつがもう目を開けないことを、俺自身のどこかよくわからない冷静な部分が、悟っていて。悟りきっていて。その事実が冷たく胸を撫でた。
そうして我に返った俺は、静に駆け寄って体を揺する。よくあるドラマのワンシーンのようだった。
静の体は重たかった。華奢で痩せ型なこともあり、静は高校男子の平均体重を大幅に下回っていたはずだった。それでも、静の体は重たかった。体を支えることを、放棄しているようにさえ感じた。
息はもうなかった。その目は開く気配すらなかった。
『…っ静あああああああああああ!!』
俺はその後気を失った。目を覚ましても、あれはやっぱり夢じゃなかった。
葬式ならびに告別式は一昨日と昨日、滞りなく行われた。少しくらい滞ってもいいんじゃないかと思うくらい、本当に、あっさり。
静の両親は相変わらず行方知れずで、あいつが亡くなったことすら、多分知らないだろう。連絡が取れなかったあいつの両親の代わりに、孫の死を聞きつけた静の祖父母(
式場では、みんな泣いていた。俺の家族も、青子の家族も、藤黄家の人たちも、クラスの連中も、もっと言えば、そこにいた人たちみんな、静が死んで泣いていた。
響と琴乃と優には、どうしても伝えることが出来なかった。いつまでも隠しておけることでないことくらい、わかっていたはずなのに。
青子の姿だけが見えなかった。
俺は泣かなかった。いや―泣けなかった、の方が正しい。多分まだ、現実を受け止める事が出来ないでいたんだろう。
俺は本当に弱い人間で、今も昔も何一つ変わってなんかいなくて、見たくないものから目をそらす子供だった。
こうやって“あの日”のことを回想出来るようになった今でさえ、「ただいま」と言って静がひょっこり帰ってくるんじゃないかと思っている。馬鹿だ、俺。
青子の方も相当状態が悪いようで、かろうじて生を繋いでいるような、危うい状態らしい。姉から聞いただけで本人には会っていないが、青子の状態は容易に想像出来た。
当たり前だ、俺たち三人は昔からの付き合いで、ずっとずっと一緒だったのだから。立ち直るには、相当時間を要することになるだろう。
勿論それは俺だって例外じゃない。
そもそも、立ち直れるのかさえ、定かでないのだから。
俺は多分、あいつに依存していたんだろう。赤崎静という人間に、どうしようもないほど固執して、依存してしまっていたんだ。俺の世界っていうのは、多分そんな感じで、静を中心に回ってた。俺にとってあいつは、それくらい大きな存在だった。
“あの日”からずっと、俺の胸にはぽっかり穴が開いている。どうしたって埋めようのない穴だ。最早埋めようとすら思わない、空いた空白。
何故穴が開いてしまったのか。
依存の対象がなくなったから?
それとも、俺の世界を回していた、大事な歯車が欠けてしまったから?
―きっと、そんな難しい理由を俺は持ち合わせてはいないんだろう。
(俺はただ、)
あいつがいなくなって、哀しくて苦しくて辛くて―泣いてしまうくらい、寂しいだけなんだ。
きっとあの馬鹿は、俺がこんな気持ちになるとは露ほどにも考えずに、自分の死を選んだんだろう。残される側の気持ちは、一切合財考え無しだ。
結局あいつは、どこまでも唯我独尊で、自分本位な人間だった。ただそれだけだった。それに対して怒りなんてものは湧いてこないし、むしろ清々しささえ感じてしまう。
(…ま、今の俺には清々しいなんて思う余裕、ないけどな)
馬鹿だと思われても構わない。ここ数日、ずっと静の後を追おうか考えていた―迷って、いた。ただの幼なじみの為にそんなことを迷うなんて、自分でもおかしいと思う。周りも多分、おかしいと言うだろう。
でも、だってしょうがない。俺とあいつの繋がりは、“幼なじみ”という枠の中に入りきらないところまできていたんだから。
それでも、例えそうであったとしても、やっぱり迷うなんておかしいんだ。
俺はあいつに生かされたんだから。
あいつに生かされた結果が、今の俺なんだから
あいつの分も生きる義務っつうのがあるわけで。後を追う追わないなんて、そんなことで迷っていいはずがないんだ。おかしいという自我がある。そこが俺と静の決定的な違いかもしれなかった。
俺は結局、静のようには生きられない。
「静…ほんと、馬鹿だよ。お前」
雨は止まない。
「そんな顔をしている人に、馬鹿だなんて言われたくないよ」
(―は、)
声が聞こえた。よく知った、聞き慣れていたはずの、それでいてひどく懐かしい声が聞こえた。
幻聴かと思った。というか、幻聴でないはずがなかった。だってこの声は、ついこの間失われたはずで。
俺の前から、跡形もなく消えたはずで。
「なんて顔をしているのさ…まあ、その様子だと視えているみたいだね、祭」
ああ、視えてる。視えてるとも。視えていないはずが―ないだろうが。
でも、だからって。
こんなこと、信じられるか。
「…それ、不法侵入なんだけど」
「何を今更。今の僕には法律なんて適用されません」
「プライバシーの侵害だ、馬鹿」
「それも今更だよ…って、なんで泣いているのさ、祭」
なんで泣いているのか、だって?お前がそれを俺に聞くのかよ。つくづく馬鹿だ。大馬鹿野郎だよお前は!この野郎!
「…泣いてねえ」
静は何も言わなかった。“どう見てもそれ、涙でしょ”とか、生きていた頃なら確実に言ってきたようなことを、何も言ってはこなかった。
代わりにその表情が泣きそうに歪んだ。あいつは、泣きそうな顔で笑ったんだ。
「ただいま…で、合ってる?」
「合ってねえよバカ静……おかえり」
こうして。
こうして、そうして、ああなった結果。
幽霊となった赤崎静と、幽霊が視え、尚且つ引き寄せてしまう霊媒体質である緑間祭は、少々奇妙な形で再会を果たす。
もうすぐ雨は、止むかもしれない。
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