終章1:師匠と鬼神
終章
天気は、春らしいうららかな陽気の晴天。心地よい風もひっそりと流れる京の気候は、縁側などで日向に当たって寝るとさぞ気持ち良いだろう、と想像させるほど温かく澄み切っていた。
そんな春晴れの京の路地を進み、晴明は賀茂邸へと足を運んでいる。保憲からの呼び出しを受けた彼は、保胤の同行を受けて賀茂邸の門をくぐった。
呼び出された用件はおよそ想像がついている。きっと、昨晩あった激務を労おうと考えてくれているのだろう。
保憲の性格からそう予想した晴明は、門で保胤とは別れ、賀茂邸の敷地を進む。保胤曰く、保憲は庭に面する縁側で待っているとのことで、晴明は屋敷に上がることなく、母屋の傍らを歩いてそちらへ向かった。
やがて、彼は庭前の縁側に座る保憲を発見する。
ただ、今そこにいるのは彼一人ではなかった。その姿を見て、晴明が思わず居住まいを正すと、その気配に気づいたのか保憲らは振り向く。そしてその顔に喜色を浮かべた。
「お、来たか晴明。まぁ座れ」
そう指示を出したのは、保憲の奥に座るもう一人の初老の男性だ。烏帽子から覗く髪や髭などは白く染まりつつある灰色で、顔中に薄い皺を刻んだその容貌は、賢者のような知的さを感じさせる。
男性の名は、賀茂忠行という。保憲の父であり、晴明にとっては大恩のある陰陽道の師匠であった。
忠行の指示に、晴明は少し畏まる。
「よろしいのですか?」
「あぁ、構わん。そう遠慮する必要などあるまい」
笑いながら言う相手に、晴明はその好意に甘えることにする。師匠の誘いに内心喜びを覚えながら、それをあからさまに顔に出すことはせず、謹んで保憲の横へと腰をかけた。
晴明が座ると、忠行は薄ら笑みを浮かべたまま口を開く。
「昨日は大立ち回りを演じたそうじゃな。とりあえず、ご苦労といっておこうか」
「はい。お労いいただき、ありがとうございます」
「何でも、
ニヤッと、忠行はからかうように言う。その問いかけに、「あ、いえ……」と晴明は少なからずまごつく。その反応を見て、忠行は肩を揺らしながら小さく笑う。
「冗談じゃ。知っておる、樹神という鬼神のために立ちまわったのだろう?」
「はい。その通りです」
「そうか。よくやってくれた。実は、彼女とは古い知り合いでな。古馴染を救ってくれて嬉しく思う」
「……え、そうなんですか?」
少し師匠の言葉を飲み込んでから、晴明は驚いた様子で尋ねる。その問いに、忠行は頷く。
「あぁ。保憲にはもう話した事じゃがな。もう十年以上前になるかのう……
「え?」
忠行の言葉に、晴明は目を点にする。そのきょとんとした反応に、保憲が補足説明のために口を開いた。
「要するに、樹神殿を鬼から人にしたのは、父上ということだ。私も、さっきそれを聞いて驚いた」
「……そう、だったんですね」
「うむ。昔、仕事で退治に赴いたのじゃがな、その際に別の昔馴染みに頼まれてな。どうか彼女に人として生きることを薦めて欲しいと言われてのう。それから実際に会って、彼女と話して、儂の半ば独断で封鬼の術を施した」
忠行が語る意外な関係性に、晴明は驚きを隠すことなく耳を傾ける。
そんな弟子の様子を横目にしてから、忠行は傍らに置いてあった湯呑みに口をつける。中身の
「あの際は、いろいろと脅しはしただが、彼女はその際に交わした約束を守っていたようじゃな」
「約束、とは?」
「ふむ、なんてことはない。人としてしっかり生きよという約束だ。決してまた人を喰らおうなどと思うでないぞ、とな」
かなりその時のことを大雑把に振り返りながら、忠行は述懐する。あまり、鮮明には覚えていないかもしれないが、記憶の隅には残っていた、そのような思い出話だった。
「此度の一件では、悪人によって散々な目に遭ったようじゃがな。それでも、彼女は儂との約束を守ろうと必死に耐えた様じゃ。律儀な女子じゃ」
「律儀、で済む話ではないでしょう。立派なことです」
やや軽めの忠行の言葉に、保憲が言い加える。その言葉に、忠行は嬉しそうに頷いた。
「そうじゃな。だが、これはただの危難の始まりにすぎんのかもしれん。彼女はこれから、死ぬまで自分の宿業に耐えねばならん。人として生きるということは、人として死ぬことと同義じゃ。本来、鬼神であればあと数百年以上生きることがかなったじゃろう。しかし、人となった以上、寿命はあと数十年しかない。それが一番の問題じゃ」
「確かに、それは深刻な問題かもしれませんね」
忠行がさらりと口にした危惧に、真面目な保憲は真剣な面持ちで頷いた。それは、過剰な考えようではなく、事の深刻さをよく理解しているからこその反応であった。
「いずれ儂らのように老いが進み、容貌が崩れ、身体に不具合・不自由が出た時こそが本当の正念場じゃ。彼女に、老いと死の恐怖と向き合えるだけの強さがあるかどうか。それと対してなお、人として生きて死ぬことを続けられるか否か、耐えられるかどうかが見物じゃな」
「それは、きっと無用の心配でしょう」
不安も窺がえさせる忠行の言に、晴明が言葉を返す。その言葉に、忠行と保憲の二人が振り向く。晴明は言った。
「彼女ならばきっと耐えられます。それだけの強さを、彼女は持っています。そう、俺は信じています」
「耐えられない、と私は思います」
樹神が誓約を守るということに自信げに肯定的な言葉を返す中、その声はすっと割り込んできた。
否定的な言葉を発したのはこの場にはいない第三者で、三人は皆一斉に声のした方向へ目を向ける。
すると屋敷の奥から、一つの人影がすっと現れた。
姿を見せたのは、黒衣を身に纏った青年・蘆屋道満である。
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