第21話:疑惑
21、
突然の事態――そう、それは完全な不意打ちであった。
晴明は、その事態にしばらく混乱する。頭を真っ白に、否、思考が
何があったのかというと――彼はいきなり捕まったのだ。
悪党に、ではない。国家機関、京の警察機関ともいえる集団・検非違使に、である。
その日、彼は朝になって出仕の準備をしていたのだが、そんな所をいきなり訪ねてきた検非違使に捕まり、両腕を二人の男に抱えられるように取り押さえられ、後ろ手を縛られると、そのまま命じられるまま連れ去られていた。
どこへ連れられるのか、という不安以前に、晴明はこの事態を全く飲み込めずに茫然としていた。
きっとこの状態に、保憲であれば「落ち着け、晴明」と声をかけてくれたであろう。あるいは満仲であれば「なんだ。ついに捕まったか。何をしたんだ、ん?」とからかってきたかもしれない。そう言って、二人なりに晴明を冷静にさせてくれたはずだ。
だが、そんなことを考える余裕すら晴明にはなかった。いきなり捕えられたことに、晴明は完全に思考能力を奪われていたのである。
*
しばらくして、彼が連れ込まれたのは大内裏の一角、左衛門府の中にある検非違使庁の敷地であった。その庭――正確には裁断を行なう場所に、彼は膝立ちの状態で座らされる。おとなしく命じられるままに座らされると、晴明はようやく徐々に、冷静な思考能力を取り戻しつつあった。
「あの……なんで――」
「静かにしろ。長官のお出ましである」
何故自分がこんな目に遭っているのかを尋ねようとした晴明に、彼を連行した検非違使は厳しく言う。
ちょうどその時、目の前にある建物の簀子の上から、数人の人物が現れてやって来た。直衣姿の者たちで、全員貴族と思しきか細い身体に身なりを整えている。
同時に、背後から何人かの人の気配がした。そちらへ目を向けると、何やら町人と思しき直垂姿の者たちが、晴明の背後に腰を下ろしたのが確認できる。
「顔を下げよ!
検非違使の命を受け、晴明は言われた通りに頭を下げる。すると彼の前では、検非違使の長官と思しき人物が、簀子の上で腰を下ろした。か細い体格であるが、頬骨が張った少し威厳を感じさせる中年の男である。
「お主が安倍晴明か?」
「……答えろ」
「は、はい、安倍晴明と申します」
横にいた検非違使に催促され、晴明は何とか声を絞り出す。少なからず動揺・困惑、そして状況を理解していない彼は、目だけきょろきょろ動かしながら、神妙な態度を装う。
「ふむ……。その様子だと、何故ここへ連れ込まれたか分かっていない様子だのう」
挙動不審な晴明の態度がおかしかったのか、長官である中年の男性からは笑いの気配が漏れる。
「そう固くなるな。お主自身には何の罪も……いや、嫌疑はかかっておるが、今の所何もする気はない。無論、事態によっては拷問――ではない、詰問に及ぶがのう」
ほほほ、と貴族特有の笑い声を、長官の男性・俊は漏らす。
その声に晴明は、今さりげなく危ない単語を口にしたよな、と勘付きつつも、表面上はそれに気づいていない様子を装った。
そんな晴明に、長官は続ける。
「お主には聴取に協力してほしいだけだ。聴取が上手く進んだならば、解放してやろう。のう?」
優しく、決して悪意はない様子を表立たせながら言うと、俊は横の検非違使に目を向ける。その視線に応じるように、官吏は晴明に目を向ける。
「安倍晴明、汝に問う。そなたは、在野の芸者・樹神と親しい関係にあるというが、誠か?」
検非違使の問い、その内容に、晴明は一瞬思考を止めた。彼は官吏から、自分に対する何らかの疑惑をぶつけられるのだろうかと思ったが、問われたのはそうではなく、彼の交友関係についてのものだった。ゆえに彼は、何を、一体どういうことかと困惑する。
「答えよ!」
「……し、親しいと言えば親しいですが、さほど親密な間柄ではございません」
言葉を震わせながらではあるが、晴明は神妙に答える。
その返答に、検非違使の官吏は俊に目配せをした。それを受けて、俊は袖の中から扇を取りだし、その先に頬を乗せる。そして、すっと目を細めた。
「そのように断言する根拠は?」
「えっと……何度か会ったことはありますが、まだ出会って数日しか経っていないからです。ここ二・三日は、顔も合わせておりません」
「ほう……それは誠かのう?」
相手が疑い深そうな表情をする中、晴明はこくこくと頷く。
「あの……ですがそのことが今こうやって私に聴取をすることと何の関係が――」
「口を慎め! お前は今嫌疑人――」
「よい。どうやらその女にかかっている容疑をまだ知らんのだろう。教えてやるがよい」
「……容疑?」
俊の言葉に、晴明は眉間に皺を寄せる。先ほどから、彼らの交わしている会話の意味がまるで分からない。彼らの間では話が通じているが、晴明には全く伝わっていない。
ただし、信じづらいことではあるが、樹神に何らかの疑いがかかっていることだけは理解する。
そんな晴明に、俊の横の検非違使が告げる。
「旅の芸者・樹神には今、京の住人を誘拐した容疑がかかっている。誘拐し、加えてそれを殺めた容疑がな」
「……は?」
示された事実に、晴明は思わず頓狂な声を漏らした。
今、なんと?
樹神が、京の住民を誘拐した、と?
検非違使が何の躊躇いも告げてきた言葉に、晴明は思考を混乱させる。
あの樹神が、そんなことを――何故?
頭の中がごちゃごちゃになるほどに動揺する彼に、検非違使は気にすることなく続ける。
「ここ数日、京では謎の失踪事件が起こっている。住民あるいは行商などから、知り合いが消えたという報告が続々とな。一時は鬼の仕業などという噂も出たが、どうやらそうではなく、その女が原因であるようだ」
「お、お待ちください。それは、本当なのですか⁈」
相手の説明を聞き、晴明は思いがけず声を張った。裏返りかけたその大声に、周りの検非違使たちは一斉に晴明へ目を向ける。それだけ、晴明の声は先ほどまでとは一転していたからだ。
「本当に、彼女がそんなことをしたというのですか? こ、根拠は?」
「根拠、か。それはな、市井の訴えを総合的に判断してそうなった」
晴明の問いに、俊が扇で顔を仰ぎながら目を細めた。
「どうも、消えた人間の共通点を探ると、彼女に知り合った者ばかりが消えておるのだ。一人として例外漏れず、な」
「……それだけ、ですか?」
「あぁ。それだけだ」
重ねて問うた晴明に、俊はあっけらかんと答える。その返答に、晴明は茫然とするが、相手は泰然としていた。
「まさか、それだけで彼女に嫌疑を?」
「ほほほ。そうか、それだけと言うか。それだけならば、嫌疑をかけるに値せぬと」
「い……いえ」
俊がやや頬を固くしながら訊ねてくるのに、晴明は慌てて首を振る。迂闊な発言を、晴明はやや反省する。しかしそれ以上に、事実俊たち検非違使の判断は可笑しいように思えた。
「確かにそういう考え方もある。ただのう、ひとまず彼女への疑惑の正邪を確かめようとはした。ところが、だ。いざ尋問に及ぼうとした折――」
言葉を半ばで区切り、俊は扇をパチンと音を鳴らして閉じた。
そして言う。
「消えた。昨日の夕方からな」
「……は?」
「消えた、と言っている。我らが尋問に及ぼうとした砌、忽然と姿を晦ましたのだ」
甚だ不愉快そうに、俊横の検非違使が答える。
「以前宿泊していたという屋敷にも、昨日まで宿泊していたという源経基殿の邸宅にも、彼女はいなかった。夕刻になって突然消えたというのだ。有体に申せば、逃げられた」
そう告げると、その検非違使は俊を見た。
視線を注がれ、俊は語る。
「検非違使がくまなくそこらを捜索したが、見当たらなかった。六条の源家が匿っているわけでもなかった。彼らも突然いなくなったことに慌てていたし、屋敷をくまなく調べさせてもらったが、隠れているわけでもなかったからのう」
「つまり、彼女は行方不明ということだ。だが、我らが嫌疑をかけた直後の失踪――これがただの偶然とは思い難い」
バサッと、そこで俊は閉じていた扇を一気に広げる。
「そこで今、彼女と親しかった者を少しずつ調べているところだ。お前もその一人だ。どうだ、彼女の居場所に心当たりはないか?」
そう俊が問う中、周りの検非違使たちは一斉に晴明へと鋭い視線を向けた。
この視線の意味するところは一つだ。もしかしてお前は、彼女を逃がしたか隠したのではないか、という疑惑である。
その嫌疑に、晴明はすぐに気付いて首を振った。
「ぞ、存じあげません。今、行方を晦ましたことを知ったばかりなので」
「嘘をつくな!」
突如にして、晴明の背後から怒声が響いた。声を放ったのは、聴衆で控えていた民と思える男性だ。
「匿っても何のためにもなんねぇ! さっさと俺たちの仲間を返せ!」
「そうだ。お前もあの女の一味なんだろう! 隠したってためにはならねぇぞ!」
「み、皆さん落ち着いてください」
怒りの声を発する民たちであったが、その声の中から彼らを宥める声も聞こえてくる。その声に、晴明は聞き覚えがあって後ろに目を向けた。そしてやや驚く。先ほどまで気づかなかったが、民衆の中には市で出会った、行商の青年・頬白がいたからだ。
晴明の目に気づいたのか、頬白はそちらを向くと軽く頭を下げる。そして、続ける。
「確かに我々は仲間を彼女に攫われたかもしれません。けれど、まだ彼がその仲間と決まったわけではないでしょう。落ち着いて、非違の方々の裁断を待ちましょう」
理知的で論理の通った頬白の提案に、民たちはぐっと言葉を詰まらせる。納得はしていないが、ある程度は聞き訳が残っている様子だ。
彼らが黙ったのを見て、晴明は内心ほっとする。怒りに任せた民たちから怒声を浴び続けるのは、少なからず辛いものがある。例え自分が無実だと分かっていても、である。
「……存じ上げぬ、といったのう。安倍晴明」
安堵していた晴明に、俊が声を発する。そこには、猜疑の色が宿っていた。
「それは誠であろうのう? 天地神明に誓って、言えるな?」
「は、はい。それは勿論」
「であるならば、たとえどんな拷問を受けても意見を曲げぬはずだな」
薄らと笑い、俊は言う。同時に彼は、横にいる検非違使たちに目配りを行なう。すると、検非違使たちは動き出した。何やら準備を開始し始める彼らに、晴明は心の裡で嫌な予感を覚えた。
「な、何を――」
「なに。お主を試そうと思ってのう。
俊の問い、その意味を悟った晴明はぎょっとする。
盟神探湯、鉄火というのは、この時代行われていた一種の儀式――という名の拷問である。
盟神探湯とは、熱湯の中に手を突っ込み、その結果手がどうなるかによって被疑者の有罪無罪を確かめる裁判方法だ。その結果、手が爛れていれば有罪、手が爛れなければ無罪と判断されるものである。
一方で鉄火というのは、火で熱して赤くまでなった鉄を握らせ、盟神探湯同様に、手が
被疑者の嘘真を問い質す――といえば聞こえがいいが、結果はやる前から目に見えている。人間が熱湯に手を入れれば、熱した鉄を握れば焼き爛れるのは当然であり、神仏に正邪を問うという建前で、相手の主張を退けるためだけに行なわれる苦行であることは明白だった。
そんな拷問の準備をし出す彼らに、晴明は当然焦燥する。
「お待ちください。俺は嘘なんか――」
「ならば、神仏の加護も受けていよう。それらを行なっても無事で済むはずだ。もし万一、嘘をついているのならそうではないだろうがのう」
扇で自らを仰ぎながら、俊は断言する。それは、一見滅茶苦茶な論理だ。しかし、それは現代人の感覚である。平安当時の人間の感覚では、このような論理はむしろ正論として通用され、珍しくもない観念でもあった。
そんな彼らの歪んだ論法に、晴明は全身から冷や汗を流す。樹神への嫌疑を確定させてしまうことを怖れた、というよりも、単純にこれから拷問を行なわれることへの恐怖が、彼を責めたてていたのである。
何とかそれを回避する方法はないか、思考を回転させる晴明だが、その努力むなしく、準備に向かっていた検非違使の一人が帰還し、俊へ耳打ちを行なう。
そして、俊はにっこりと悪意なき笑みを浮かべる。
「よし。用意はできた。では早速――」
「その裁可、待った!」
突然、長官の声を遮る大声が、聴衆の民たちの背後から放たれた。そのよく通った声に、その場の皆が振り向く。
そこに立っていた男の姿を見て、晴明は軽く目を見開く。
現れたのは晴明の知人・源満仲であった。
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