第6話
「元気そうで何よりだ」
大伯父は、真っ黒な小さな穴のような目で那生の姿を認め、低い声でそう告げた。
「おかげさまで」
那生は、大伯父と呼ばれる人物と対座し、そっと頭をたれた。大伯父は、誰にとっても大伯父であり、御雲流宗家の呼び名だった。彼が実際、自分とどんな血縁関係で結ばれているのか那生は知らなかったし、知りたいとも思わなかった。ただ、大伯父は一族の全てに絶対的な権限を持っている、いわばこの家の表の当主だった。齢八十に届こうかという老人で、背が低く色黒で、落ち窪んだ暗い目だけが鋭く印象的な男だった。
雨月は、那生の背後、和室の出入り口の傍に座していた。
「学業は怠りなくおさめているか」
大伯父のひび割れた声に、那生ははいとだけ応じた。
家の者が茶を運んできた。大伯父は光のない黒い目を伏せ湯のみを取ると、那生にも飲むようにと勧めた。
竹林を過ぎる風が草葉にざわめきを与える。それ以外、何の音もない、そこは静かな場所だった。
大伯父は、茶托に湯飲みを戻すと、雨月を傍らに呼び寄せた。それを、と漆塗りの盆に乗せられていた茶色い封筒を目で示す。雨月は黙って封筒を取ると、那生の元へ膝行し、縁を挟んで畳に置いた。
「……」
中に何が入っているのか、那生にも当然わかった。厚みのある封筒は重い。そこにはある人物の性別、身長や体重、既往症や持病、生活習慣や趣味、嗜好などが細かく記された書類が入っている。それをもとに、最も自然に、確実に、そして証拠の残らない最適の毒を探し、調合する。つまりは被害者を知ることのない殺人の依頼書だった。
那生は白髪も薄くなった老人の小さな目から視線をそらした。
他人を殺める毒を作ることに、別段抵抗はなかった。自分自身が手にかけるわけでもなければ、その現場に立ち合うわけでもない。どこか知らぬ場所で、見も知らない人間が一人消える。それだけのことだ。そして、自分の手によらなくても、それはこの国の中で、日に何万と起きる、誰かの死のうちの一つでしかない。しかし……何かが那生を躊躇わせる。その正体が何であれ、それはその瞬間、那生を沈黙させるには十分な力を有していた。
叔父は、こんな時……どんな思いで依頼を受けていたのだろう。自分よりも、遥かに人間らしく、優しかったあの人は。
去来する、形を持たぬ躊躇い。
「少し……時間をいただけますか?」
那生は大伯父の小さな目を見つめ、そう尋ねた。
与えられた時間の中で、果たして自分が何をしたかったかは那生自身にもわからなかった。選択の為に時間が必要だったのか、あるいは、遂行の為の時間だったのか。
大伯父はしばらくの間じっと那生の目を見、黙っていたが、
「いいだろう」
と、低い声で告げた。そして
「ただし」
唸るような声で続けたのは
「期限は来月の末。それ以上は、お前の当主としての資質を問う」
暗い穴のような目が、手元の湯飲みに落とされる。
御雲を継ぐものは、他にもいる……大伯父は暗にそう仄めかした。それこそ血筋を重んじた時代もあったのだろうが、今はそれも瓦解しつつある。さらに御雲の当主はその習慣故に短命であることが多い。現に、叔父は結婚もしてなければ、子どももいなかった。祖父は比較的長生きしたようだが、それでも世間の比ではない。いずれにしろ、跡取りを残さず世を去る当主は多い。
不毛な家だと、那生は改めて感じた。
高見沢が言った。叔父は一体何の為に生まれてきたのかと。結局のところ、この家の特殊な生業から恩恵を蒙るのは、大伯父を始めとする本家を取り仕切る人間だけだ。
裏の当主を継ぐべくして生まれてきた人間は、ただの手足に過ぎない。手足がもげても生き続ける蜘蛛のように、頭を潰さなければこの家が絶えることは決してない。例え、誰かが自分に取って代わったとしても……また別の場所で同じ悲劇が繰り返されるだけだ。
働かない手足は、頭にとってただ邪魔なだけの存在になりさがる。
自分に、感情がないのなら、それでもかまわない。那生はそう思っていた。しかし、叔父である如生のことは、決して嫌いではなかった。むしろもっと長い時間を、ともに過ごしたかった。しかし、だからこそ、生かされるだけの叔父の愁いを、見過ごすことができなかったのもまた事実。叔父を殺しても、罪悪感に苦しまないとわかっていた。ならば、ほんの僅かでも愛しいと思う相手を解放するのが、自分にできることではなかったか。そして、命を狩った自分には、意志を継ぐ義務がある。あるいは……そう信じている。
「本日はこれにてお暇致します」
那生は大伯父に別れを告げると、雨月をともない本家を辞した。車まで、使用人と親戚の数人が見送りに出てきたが、誰もが無口で、まるで葬列のように那生には感じられた。
清かな音を立てて、笹が鳴る。
「どうなさるおつもりです?」
竹林の奥に遠ざかる人影をバックミラーに捕らえたまま、雨月は静かな声で那生にきいた。端正な横顔には、戸惑いも憂慮も見当たらない。さしあたっては、主人の出方を静観しているといったところか。
「あの人と……」
「あの人?」
那生の言葉に雨月の視線が一瞬触れた。
「叔父さんと……話がしたくなった」
口元を過ぎった笑いは、自身に対する呆れだったのだろうか。それとも……叶わない願いに寄った絶望か。
雨月は正面を向いたまま
「そんなことを、本気で?」
「ああ。叔父さんなら……何て言ったか、お前にはわかるか?」
「どうでしょうか。如生さまのことですから……きっと寂しそうに頷かれるでしょうね」
「そうかな……」
那生が、生前の叔父に何かを相談したということはほとんどない。それでも如生はただそこにいるだけで、幾許かの安らぎを与えるような存在だった。静かな声、凛とした姿、寂しそうな微笑……そんな全ての要素が、如生をどこまでも優しく、清らかに見せていた。全て、自分には持ちえぬもの。今思えば、叔父に……憧れていたのかもしれない。那生はそんなことを不意に思いついた。
「あなたに頼りにされていると知ったら」
雨月は不意に口を開き、前を向いたまま口元だけで笑う。
「如生さまは、お喜びになりますよ」
不思議な笑みを湛え、那生を見た。
見慣れた雨月の笑みが、いつもとは違う意味を湛えているような気が那生にはした。
青山の庵を後に、車は街へ向かった。
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