-7-

 タルヴォとの手合わせ当日、クロエは大幅に寝坊をしてしまった。

 一度深い眠りに落ちると、自分で目を覚まさない限りはなかなか意識を取り戻すことのないクロエは、何度セラトラに起こされようとうんともすんとも言わなかったらしい。自分が言い出したことだからと仕方なく事情を説明しに向かったセラトラは、寄合所の外に立っていた少女に声をかけ、クロエを呼んでくるようにと頼んだのだという。


「……ああ、そうだったのか。すまなかったね、サカリ」


 坦々とした口調で事情を聞かされ、クロエは半分寝ぼけながらそう口にした。

 クロエの前には、痩身の少女が立っていた。身長はタイより少し低いくらいだろう、父親譲りの赤毛は目が覚めるような鮮やかさだ。くるりとまるい目はまっすぐにクロエを見つめている。何を考えているかは分からないが、何かを強く訴えかけてくる眼差しだ。やはりこの目に見つめられると、一瞬言うべき言葉を忘れてしまう。


「わざわざありがとう。早く行かないとな」


 しかし、何とも奇妙な経験をした。

 クロエは鋭い殺気のような気配を感じて、飛び起きるように目を覚ましたのだ。だが、実際に目覚めてみれば、目の前にいたのは産まれたときから見知っている少女だった。

 夢でも見ていたのだろうかと思ったが、内容など何ひとつ覚えていない。まさかこの少女が殺気の出所かと、クロエは寝台に座った格好のままサカリを見上げた。まだ何となく、心臓がどきどきとしている。


「父さんが待ってる」


 そんなわけがあるかと思う一方で、いや、それ以外にはあり得ないとクロエが考えていると、サカリがぽつりと漏らした。確かに今はそれどころではなかった。

 クロエはサカリに部屋の外で待つように言い、急いで身支度を済ませた。革靴の紐を素早く編み上げ、寝台から立ち上がって爪先で床を二度鳴らす。いつもの癖だ。小刀を腰紐に差して長い髪をひとつに結わえながら、部屋の外に出た。


「待たせたね、行こうか」


 クロエがそう声をかけると、サカリはこくりと頷く。

 まだあどけない横顔をしているが、サカリは母親のモウラに似て美人だった。

 その昔、シャラ族の女は珠玉揃いだと評判だったらしい。産まれてきた女の子が熊のような父親に似なくて良かったと、その当時は余所の子供ながら心底安堵したものだった。

 家の外に出ても、里人の姿はどこにも見られない。既にほとんどの者が寄合所に集まっているのだろう。暇人ばかりだなと思いながら、クロエは空に向かって欠伸を漏らした。


「……タイのことだけど」


 鈴を転がしたような涼やかな声が唐突にそう言った。クロエが「ん?」と小首を傾げると、ちらりと一瞥をくれる。


「クロエ姉さんがたぶらかしたの?」

「た、たぶらかす?」


 何のことか分からずに、クロエは間の抜けた声で問い返していた。


「たぶらかすって、何のことだ?」

「今までは父さんの誘いから散々逃げ回っていたのに、クロエ姉さんの家に泊まった次の日から突然稽古をつけてほしいなんて言い出した。それ以外の時間は姉さんからもらった本にかじりついているか、ネグロ兄さんのところへ行くかのどちらかだったのに。明日だって寸前になって一緒に行くことが決まるなんて、おかしいと思う」


 あまり感情のこもっていない声は、なぜか怒っているようにも聞こえた。

 クロエにはたぶらかしているつもりなど微塵もなかったが、一応は心当たりがある。そのため困ったように苦笑を浮かべていると、サカリはそのえもいわれぬ美しい目でじっと見つめてきた。


「クロエ姉さんが外でのことを面白おかしく話してなんて聞かせるから、タイがその気になったんだ」

「外の世界に興味を持つことは悪いことか?」

「……ここは安全。でも、外は恐ろしい」

「誰かがそう言ったの?」

「シャラ族の女は高値で売れるというから、酷い目に遭いたくなければ外へは行くなと言われた」

「……誰に?」

「言ってもきっと信じない」


 サカリはそう言うと、ふいっと顔を背ける。クロエは再び困ったように笑い、指先で頬を掻いた。

 シャラ族の女は珠玉揃いで美人が多い。その血を受け継ぐ者もまたそうだ。人拐いのなかにはそればかりを好んで連れ去り、富豪やその手の趣向を持った者に高値で売りつけるのだ。買い取られた女たちは大抵の場合、奴隷として酷い仕打ちを受けることになる。希に鑑賞用として、もしくは飼育物として所有されることもあるとは聞く。

 だが、それを子供に話して聞かせるなど、どういう了見だとクロエは思った。タルヴォやモウラが話して聞かせるはずがない。そのような噂があると若い衆が話しているのを小耳に挟んだ、ということもあり得るが、それならば信じないと言われる謂れはないだろう。

 まさか、外部の者と接触しているのだろうかと考えはするものの、それはあまりに可能性が低い。相当な愚か者でもない限り、犬狼の支配が進んでいる森に足を踏み入れることはしないはずだ。


「わたしたちは、ここにいる限りは守られているの。でも、外に出てしまったら守ることができない」

「私たちは何かに守られているのか?」


 クロエがそう問うと、サカリは小さく頷いた。


「たくさんのモノに守られてる。でも、クロエ姉さんは犬狼を殺した」


 サカリが何を伝えたがっているのか、寝起きの頭では半分も理解することができない。思考が追いついてこないのだ。しかしあの夜、犬狼を突き刺したときの感覚がふと手の平に蘇り、クロエはなぜだかとてもいたたまれない気持ちになった。


「それがどれだけ罪深いことなのか、クロエ姉さんは知ってるのに。カレらはクロエ姉さんのことを守ろうとしてくれただけ」


 犬狼は美しく、尊い生き物だ。その毛皮を纏うという罪を冒し、それでもクロエはのうのうと生き続ける。犬狼の命よりも人間の命を選択し、自らの欲望のために、月夜に煌めく光を狩った。


「ねえ、本当にあの人と一緒に行ってしまうの?」

「……ロランのことか?」

「外には穢れがあるよ。クロエ姉さんはいつも穢れを持ち帰ってくる。でも、ここの水や食べ物が穢れをきれいにしてくれるから、生きていられるの」


 サカリがぴたりと足を止めた。その数歩進んだ先でクロエも足を止めると、後ろを振り返った。


「あの人はクロエ姉さんの穢れを濃くさせる。だから、犬狼たちがきれいにしてくれようとした。それなのにクロエ姉さんはあの人を生かして、一緒に行ってしまう。穢れでいっぱいの世界に」

「サカリ、まさか……」


 クロエは目を細めてサカリを注視する。森の緑を映し込んだような瞳には、立ち竦む自分の姿が見えた。

 ああ、この子はセラトラと同じなのだと、クロエはこのときになってようやく理解した。


「できれば行かないでほしい。タイも連れていかないで。外の世界はとても残酷だから、誰も守ってくれない。出て行ったら、クロエ姉さんは死んでしまうよ」

「……人は誰でも、いつかは死んでしまうものだ」

「カレらはそれを望んでいない。カレらはクロエ姉さんを好きだと言ってるもの」


 サカリの言う彼らが何者なのか、クロエには分からない。恐らく、尋ねたところで理に適う返事はもらえないだろう。それはクロエの世界には存在しない、目には見えないものだ。

 クロエとサカリ、そしてセラトラとではそれぞれに見ている世界が違う。そして、互いの世界を共有することはできず、本当の意味で理解されることはない。


「せっかく好いてもらっているのに申し訳ないとは思うけど、私には私の生き方がある。それを貫いて死ぬのなら、きっと本望だと思えるんじゃないかな」

「……クロエ姉さんは馬鹿だ」


 その目にまっすぐ見つめられて言われると、なかなかに堪えるものがあった。苦いものを飲み込んだあとのような顔で肩を竦めると、サカリは数歩足を進めてクロエの隣に並んだ。


「クロエ姉さんがタイを巻き込んだ」

「そんなに行かせたくなければ、自分の言葉で引き留めれば良い。私にそうしてくれたように」


 本人がそれに従うかは分からない。クロエのように意に介さないかもしれないが、その時はまた別の策を講じるしかないだろう。その思いが、本気なのであれば。


「分かってるけど、でも……」

「でも?」

「それがタイの望みなら、行くなとは言えない」

「だから自分もついていくと言ったのか」


 サカリはまた小さく頷いた。

 幼いがゆえに手段を知らず、すべてを誰かの責任にすることで、仕方がなかったのだと自分に言い訳ができる。そうして今のところは自らを納得させたところで、あとから追いかけてくる後悔からは逃れることができない。


「サカリはタイを好きなんだな」


 何の他意もなくただ純粋な思いとしてクロエがそう言うと、サカリは一度大きな目を丸くしたあとで、みるみるうちに頬を紅潮させていった。

 どうやら図星らしいと思いながらくすくすと笑うと、サカリは下唇を噛んで悔しそうな表情を浮かべる。ごめんと謝りながら、クロエはサカリの頭にそっと触れた。


「タイは他の大人たちと少しだけ里を離れるだけで、すぐに帰ってくる。心配しなくても、タイを私たちの旅に同行させるつもりはないよ」

「……クロエ姉さんは死ぬことが怖くはないの?」


 前後する話の流れに一瞬言葉を詰まらせるが、クロエはすぐに曖昧な面持ちで「さあ、どうかな」と応じた。


「まだ死んでみたことがないから良く分からない。ただ、少なくともまだ死にたくないとは思っているけど」

「そう」


 クロエの答えを聞いてどこか満足したようにも見える表情を窺わせたサカリは、寄合所に向かって再び歩き出した。クロエもその後に続こうとすると、少し先に見えている目的地からひとりの影が飛び出してくるのが見えた。

 タイだ、とすぐに分かった。


「こらぁ! 何やってるんだよ、クロエ!」


 寝坊をした上に途中で立ち話をし、悠長に歩いてくるクロエを見つけたタイは、遠くからでも聞こえるほど大声で怒鳴り付けた。ものすごい勢いで駆けてきたかと思えば、サカリを一瞥してからクロエの前に立つ。

 タイが息ひとつ乱していないのを見て、クロエはおやと思った。


「いや、少し寝坊してしまってね」

「少しどころじゃないよ、まったく。タルヴォは相当お冠だからね、覚悟しておきなよ。セラトラだって呆れてるんだから」

「そうか、タルヴォがお冠なのは都合が良いな」

「都合が良いって、何で?」

「彼は冷静さを欠くと力任せに攻めたがる。後先考えなくなるんだ」

「……それってちょっと危ないんじゃないの? 下手したら怪我をするよ?」

「大丈夫だ、せっかくだからもう少しゆっくり歩いていこう」


 ええっ!? とタイは動揺したような声をあげた。

 クロエは真ん中に立ってサカリとタイの肩に腕を回し、その言葉通りにゆっくりと歩き出す。

 視線を感じて横目を向ければ、サカリがそっとクロエを見上げていた。それはとても物言いたげで、体を傾けてやると耳許に唇を寄せてくる。


「あのことは誰にも言わないで、特にわたしの家族には。セラトラ兄さんとクロエ姉さんしか知らないことだから、話したらすぐに分かる」

「分かってる、秘密にするよ」


 自分に異能が備わっていることを隠したがる者は多い。好奇の目に晒されることを嫌がるのだ。時には気味悪がられることもあり、異能とひとつ屋根の下に暮らしている身として、その気持ちは理解できるような気がした。

 時々、心を見透かすかのようなセラトラの様子には、正直ぞっとすることがあった。


「何? ふたりで何の話?」

「何でもない。タイには内緒だよ」


 むすっとするタイに微笑みかけるサカリは、年相応な少女にしか見えない。

 しかし、先ほどまで自分に語りかけてきていたサカリは大人びているという以上に、異常なまでの神憑り的な何かを感じさせた。セラトラとも違う、不気味とも思える何かだ。

 サカリが言ったカレらとは何者なのか。守ってくれているというモノの正体を、セラトラなら知っているかもしれない。

 穢れとは恐らく文明時代の置き土産のことだろう。旅を続けていれば、行く先々で空気や水に触れ、食べ物から穢れをもらう。穢れが原因で病人が増え、寿命は短くなり、子供も十人にひとり生きて産まれてくれば運が良いとされていた。

 サカリの話はクロエにとってあまりに突飛だ。だからこそ死を宣告されたところで真実味を帯びない。あの言葉の裏にはどのような意図があったのか、そもそも真実を告げていたのか、確かめることにも勇気が要りそうだと思う。

 クロエは両脇にいるふたりを交互に見た。ふたりは元気に言い争いをしている。まるで夫婦の痴話喧嘩のようにも思え、思わず吹き出してしまった。するとふたりは言い争いをやめ、同時にクロエを見上げる。

 純粋で透明感のある色の目に見つめられ、クロエは考えることが馬鹿馬鹿しく思えてくるのを感じた。そうだ、誰でも死ぬときは死ぬのだ。自分でもそう言ったではないか。

 クロエは肩に回した腕に力を込めると、ふたりの体を抱き寄せた。

 タイが少し照れ臭そうに「ちょっと!」と抗議の声をあげるが、クロエは構わずにそのまま歩き続けた。


「さあ、今日は気持ち良くタルヴォに勝って、明日の準備を急がないとな」

「そんなこと言って、負けたらどうするつもり?」


 タイがクロエの腕から逃れようともがきながら言う。だがしかし、どういうわけかクロエには負ける気がしないのだった。

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