ロシアの地にて 第十六話
あの後。日が暮れる前に家に戻らないといけないと老婆がしきりに言うので圭吾たちはあの鳥足の家に戻る。ヴォルフは家の前で別れをいって、森の中へと消えって行った。
翌日。
老婆に言いつけられた家事が終わった後、一人であの広場に行ってみた。
不思議なことに、他の場所に行こうとするとどこまで歩いても森からは出られなかった。しかし、あの場所に行こうとすると何故かたどり着くのだ。
でも、あの広場から先日自分が襲われた民家まで戻ろうとしても、やっぱり戻れない。
同じ場所をぐるぐると歩いているようなそんな感覚に陥る。
どうやら、自分はこの森に閉じ込められているらしいという事に、ようやく気付く。
(もしかして、俺、一生この森の中でパンを焼き続けなあかんのやろか)
そんな怖い想像も沸く。
あの老婆も、そしておそらくヴォルフも。ヒトではない、何かだ。
このままここにいると、自分もヒトではない何かに、変わってしまうんだろうか。
そもそも……自分はまだ人間なのか?
話す相手もなく森の中を歩いていると、様々な考えが頭に浮かんでくる。
家族は、どうしているだろうか。
採掘交渉は、どうなったんだろうか。
会社は。
(イザも、心配しとるやろか……)
あの電話の状況で通話を切ってしまったから、最悪の事態も想像されているだろう。
なんだか、家族にも会社にも友人にも。とても申し訳ない気持ちになる。
早く戻りたいけれど。
(戻れれば、いいんやけど……)
老婆に帰りたいと頼んでも、何も応えてはもらえなかった。ヴォルフには、どこに行けば会えるのかもわからない。
圭吾は、先日電話を借りたあの民家を探すのをやめて、広場に戻ってきていた。
この広場には、戻りたいと、行きたいと思えばすんなりと行けてしまうのだ。地理などわからなくとも。
(なんなんやろ。この場所)
昨日は立ち寄ることはできなかったけれど。
広場には、大きな建物が二棟と小さな建物が数棟あった。
ヒト気はまるで感じられない。長い間放置された廃墟のようだった。
圭吾はまず、大きな建物の方に行ってみる。
そこは、体育館をさらに大きくしたようなガランとした建物だった。手前には大きな刃のついた機械などが見える。製材用の工作機械のように見えた。
奥には放置され朽ちた木材が少し残っていた。
(製材所……?)
そんな感想を持つ。
次に、小さい方の建物に行ってみる。
平屋で、同じ形の建物があちらこちらに幾つも建っている。
特に鍵のようなものも掛かっていなかったため、圭吾は一つの建物の中に入ってみた。
小さいと言っても天井は高く、四角い一つの部屋になっていた。
真ん中に朽ちた鉄の塊がある。近寄ってその塊を見てみると、壊れて崩れてはいるがどうやら元は大型のストーブだったようだ。
部屋を見回すと、木材のがれきが部屋の三方を覆っていた。まだ辛うじて元の原型をとどめているらしき部分もあり、それを見るに、どうやら木材を並べた上下二段の巨大なベッドのようなものだったようだ。
他にも布類や瓦礫が散乱し、レンガ造りの壁は一部が倒壊しかけていた。
長居していると危険かもしれないと思い部屋から出ようとしたところ、入口に向かう途中で圭吾は一冊の小さな本を見つけて手に取った。
中身を開くと、本かと思ったものは、手帳だった。
黒皮の手帳。
パラパラとページをめくると、書きなぐられた文字は。
圭吾もよく知っている文字。日本語だった。
ヴォルフたちが言っていた、同胞という言葉が頭をよぎる。
圭吾は建物から出ると、外の木陰の下に座って手帳をめくった。
『11月1日 ここに連れてこられてから、三か月がたつ。食べ物はとても少ない。食事は一日2回。雑穀の重湯が飯盒の底に2センチほど。それでは到底足りぬため、雑草などみつけると口に入れるものも多し』
日記のようだった。
どのページをみても、飢餓と重労働と極寒の寒さについてつづられている。
まるで生きた記録を残すように、亡くなった仲間の名前を書きつけているページもあった。
『朝9時から夜5時までが就業時間となっていたが、班の中で働きが悪いものがいると15時間以上働かさせられる日もあり』
『寒い。宿舎に一つストーブはあるが、薪は限られている。この地の寒さにはまるで役に立たず。木の台は狭く交互になって寝る。一部屋に200人の人間が寝起きするが、シラミが多数沸く』
『夜になると目が見えなくなるというものが増えた。腹に水がたまるものも多い。宿舎はどこかしこに呻き声があがる』
圭吾は夢中になってページを捲っていた。
『また、一人倒れた。昨日は三人倒れた。先週も何人も死んだ。死んだものは裏に大きな穴をほり埋める。衛生兵に頼むが、医薬品はないという。倒れても、課せられた仕事は減らされない。栄養がたりしものは一人もいない。みな、きがのなか、はたらかさるる』
『この地にきて、1年が過ぎた。この冬でたくさんしんだ。半分よりすくなくなる』
日記は唐突に、3月4日で終わっている。
その前のページにはこんなことが書いてあった。
「かえりたい。故郷に帰りたい。母は、兄は、妹たちは健常にしているだろうか。我はここにあり……」
声に出して、圭吾は読んだ。思わず目が滲む。
(これは、シベリア抑留者の日記や)
ということは。
(ここは、シベリア抑留者の強制収容所やったんか……)
第二次世界大戦において、満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は日本の統治下にあった。しかし、ソ連軍の侵攻・占領を受ける。
戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜や、ソ連軍が逮捕した日本人(民間人を含む)は主にシベリア地方に労働力として移送し、隔離され、強制労働させられていたという史実がある。
この施設も、満州から連れてこられた元日本軍兵士や民間人が隔離され、強制労働させられていた強制収容所の一つだったのだ。
政府の公式発表によると。抑留されたものは、60万人近いと言われる。
そのうち、日本に帰還できたものは約50万人。
残りの5万人は病弱で労働力にならなかったとの理由から北朝鮮などに送られ。
残りの5万人がシベリアの地で亡くなったと言われている。
しかし戦後アメリカの研究者が行った調査によると、35万人近い日本人がシベリアで亡くなったと考えられるとの報告がなされた。
圭吾は立ち上がると、施設を見あげた。
ヴォルフたちが同胞と言った意味が、ようやく理解できた。
この土地に眠るのは、自分と同じ日本人だ。
しかも、意思に反してここに連れてこられ、悲惨な状況の中、誰にも顧みられることなくこの地で死んだ人たちだ。
ヴォルフは言っていた。心残りがあるから、魂があの世に帰れないのだと。
心残り。
そんなの、決まってる。
帰りたいんや。自分の、故郷に。
圭吾は、やりきれない思いで胸がいっぱいになって、重い息を吐いた。
ほんの数日、ここに閉じ込められた自分ですら、こんなにも郷愁の念にかられるというのに。
ここに収容されていた人たちのソレは、いかほどのものだったことだろう。
どれほど。遠く東の海の向こうにある祖国を想ったことだろう。
どれほど。家族や、愛する人や、友ともう一度会いたいと願ったことだろう。
キッ、と圭吾は施設を見る。
できることなら、何とか力になりたいと強く思った。
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