五日目――其ノ四

                   ○




 その人間は苦悶の声を上げながらそのまま地面に倒れ込み、僕も一緒にそいつの上に倒れ込みました。

 僕は何食わぬ顔で、包丁を抜き取り起き上がろうとしました。すると、そいつは僕の胸倉を掴み、手繰り寄せました。

「もう逃げられないね。ムン君」

僕は少しうろたえました。そこにいたのは、会いたくて、話したくて、でも話せなかった女性、小町音衣だったからです。

 今回は不思議と逃げずに済みました。

 彼女は血まみれになりながらも、残った力で必死に僕を捕まえています。

「ご……ごめんね、ムン君。わ……わたし……ちょっ……遅かったみたい」

ふり絞られた言葉からは、今にも命の尽きそうな様子がうかがえました。

「で……でも、あなたは何もわ……悪くないからね」

そんな彼女の優しく温かい声は、僕を我に返しました。

「ミュー……ちゃん……」

――我に返った僕は、あられもない姿を見られたことに恥ずかしくなりました。何が世界を変えればいいでしょうか? 勘違いも甚だしすぎて、悪寒がします。

「ム……ムン君が空回りしているのは、それを……支える……ねじが外れているから。ムン君が道を……踏み外したのは、そんなあな……たを受け入れてくれる……場所が無いから。あなたは何も悪くない。だから……戻って来て」

 途切れそうな息づかいが僕の心をえぐります。先ほどまでは人を殺しても何とも思わなかったのですが、今彼女が弱っていく様を見ていると、なぜかすごく苦しいです。

「私がねじになります。私が場所になります」

「もういいよ。ミューちゃん。分かったから。だからもうしゃべらないで」

「やっと口……聞いてくれた」

そう微笑んだ彼女はそっと目を閉じ、それを二度と開くことはありませんでした。

 彼女は「あなたは悪くない」と言って、僕を受け入れてくれました。幼少の頃もそうです。一番最初に心を開いてくれたのは彼女でした。彼女はいつも僕の隣にいてくれました。

 小学校の前半、つまり小一から小三くらいの間は、人生の中で最も楽しい時期でした。僕の行動で人が傷つくことも少なかったですし、何よりミューちゃんがいました。彼女は僕を支えてくれると言いましたが、もしかすると、あの頃も、僕が空回りしないように、楽しくいられるようにしてくれていたのかもしれません。

 そう考えていると、僕の顔にはいくつもの川ができていました。

「ミューちゃん、ごめん。もう逃げないから。ずっと一緒に居るから」

 彼女の想いに恥じないように、真っ当に頑張ろうと思いました。だから、彼女が生きた、僕が生きた世界に何か貢献できないかと考えました。

 僕なんかにできることなど、たかが知れています。それでも、その小さな一歩こそが重要な意味を持つのです。

 ポケットの中にはライターが入っていました。昼間に使ったあれです。

 僕はそれを取り出して、火を灯しました。とても小さな輝きでしたが、とても強くたくましく思えました。僕とは正反対の太陽のように思えます。

 手を翳すと、とても暖かくて、それだけでそのエネルギーをもらっているような気分になりました。僕はさらに手を近づけます。

 温かみは掌から出発して、腕、肩、そして全身へと広がりました。全身が燃えるように暖かいです。まるで力が湧いてくるように。

 これで世界は僕を許してくれるでしょうか? いいえ、こんな僕を許してください。

 ミューちゃん、今戻ります。

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