一  人のいのちの道のなかばで

ただ、その森で、おもわずうけた僥倖にふれるためにも、

そこで見たくさぐさのことを、わたしは語ろう。

                ――ダンテ『神曲』地獄篇






 避けられている。

 絵に描いたような白眼視である。

 エーリカは祭壇につづく通路のまんなかで立ちどまり、黒いベールの内側から周囲をみまわした。

「私たちの尊き友人ダヴィト・エンゲルマンは一年前、神の御許に召されました――」

 献花の列の途切れぬなか、故人の友人たちが登壇し、追悼の言辞を響かせた。

 純白の壁と金色の装飾に彩られたアム・シュタインホーフ教会の中を埋めつくす、喪服のひとびと。

 彼らは誘いあわせた知人たちと固まって着席してゆく。

 しかし、エーリカに声をかける者はない。

「彼の建築は〈愛〉でした。彼の引く図面は〈知〉そのものでした。彼の遺した建物はそしてわれわれにやすらぎと幸福とを与えつづけてくれているのです」

 献花を終えて踵を返すと、エーリカのすぐうしろに友人の英国子爵令嬢がいた。会釈をしたら、相手は目もあわせずに隣の貴婦人と囁きをかわしながら、エーリカを素通りしていった。

 誰も彼もが同じように、エーリカを無視する。

 わざと。

 忌むように。

 蔑むように。

 忌避していた。お前はここにいていい人間ではないとエーリカに思い知らせたいみたいに。

 エーリカが見ると目を逸らすのに、エーリカが後ろを向いた途端に幾つものまなざしの棘が背中へ突き刺さる。そんな気がする。

 いたたまれない思いがした。

 いいかげん、もう慣れたつもりだったけれど。

(もういい。帰ろう)

 

 とにかくベアトリーセに会わなければ――そう考えたからこそ、エーリカは来れば嫌な思いをすることのわかっている追悼礼拝の場に来ていたのだ。この場所なら姉に会える一縷の希望があるような気がしたが、やはり違う。ここにもベアトリーセは来ない。

 そ知らぬふりの他人たち。

 昔はとても親しかったというのに今はとても冷たい人々のあいだをすりぬけて、エーリカはアム・シュタインホーフ教会を出た。まるで逃げ帰るような自分のありさまに顔は俯きがちになる。そうじゃない。他にやるべきことがあるだけ、と自分に言い聞かせる。

 足早に教会正面の石段をおりかけたとき、高らかな馬のいななきが聴こえた。乗り入れ禁止の敷地内で鳴り響くはずのないひづめの音に顔をあげる。

 正面階段の下に停止したのは、漆黒の大きな馬車だった。

 階段をまばらにのぼる遅刻ぎみの参列者たちが皆、ふりかえってその馬車に注目した。どこの名士か大貴族か、という好奇心で眺める馬車に、紋章のたぐいはない。磨きあげられたエナメル塗りのドアをひらいて、青年がひとり、降りたった。

 すらりとした長身の青年は、軽やかで優美なあしどりで階段をのぼりはじめる。

 薄雲った木枯らしの十一月に、はるか高みの天から温度のない金色の陽が射す。黒熊毛皮の帽子ウシャンカの下で僥倖をひとりじめするように青年の髪が輝く。アム・シュタインホーフ教会の金色こんじきのドームよりも高貴に輝く金髪のほかは、青年のまとう色は黒一色であった。

 少なくともエーリカにとっては見知らぬ青年だった。エーリカは怪訝に目をほそめる。あれは喪服の黒ではない。生まれついた姿形のよさをきわだたせるように極限まで装飾性の排された漆黒の装い。……エーリカはさらに眉間にしわをよせた。あれは追悼のための黒ではない。

 なぜそう思ったのか定かではない。

 まったく根拠はないのに、エーリカは思った。

 あれは――死神の黒だ。

 青年がふと頭をあげ、なめらかな熊の毛皮の下からエーリカを見つめた。

 エーリカの背筋にぞわりとした冷気が這いあがった。

 真冬の朝の氷柱がとじこめる波長に似た、冴えざえとした青色の瞳が、まっすぐにエーリカの両眼をとらえている。

 たったそれだけでエーリカを動揺に陥らせるほど人間離れした美貌だった。さらに青年は、ような微笑を浮かべた。旧知の相手を見分けたふうな微笑ほほえみだったが、エーリカには心当たりがない。死神のように漆黒をまとう人物と知りあったことなどない。不気味な渾名をつけられる奇人変人ならば、混沌と爛熟の世紀末をのりこえたばかりのウィーンに溢れんばかり蠢いているにしても……。

 当惑に釘づけられたままのエーリカは、そしてそこで恐ろしい可能性に行きあたった。


     幽霊卿。


(〈幽霊卿〉。……まさか?)

 この青年、死神ではなく、かの噂に高い狂気の人――〈幽霊卿〉なのでは。

 とっさに顔をそむけ、エーリカは階段を駆けおりる。

 もしも彼があの〈幽霊卿〉なら――。

 心ない友人たちの前から逃げ帰るつもりはないが、〈幽霊卿〉からは絶対に逃げきらなければならない。

 呼びとめられたりはしなかった。

 それでもエーリカは息の切れるところまで早足をゆるめず遠ざかった。

 本能に弾かれたように。




 〈幽霊卿〉に捕まるわけにはいかない。

 敷地の門から大通りに出たところでエーリカはやっとふりかえり、追いかけてくる誰かの気配がないことに安堵し、大きく息をした。

 門の柵にたてかけておいた自転車を起こし、白い息をまだ慌ただしく吐きながら歩きだす。

 ねえベアトリーセお姉様、どこにいるの――。

 姉の恋人だった建築家ダヴィト・エンゲルマンの命日である今日、追悼礼拝にも姉は姿を見せない。姉ベアトリーセはエーリカの前から、ウィーンから消えてしまい、消息の知れぬままだ。もう、一年も。

 どこにいるの――。

 肩を落としてカラカラと自転車をひきずるうち、心細い涙が頬をつたう。子どものように鼻をすする羽目になる前にこの感情をどうにかしないといけない。歩きながら懸命に瞳をまばたいていると、エーリカの代わりに自転車の前輪がくしゅっとしゃくり上げるような音をたてた。軸とスポークの間に何か挟まりかかっている。ひらひら揺れているそれを風に持っていかれるより先につまみあげると、一色刷りのビラだった。

 車輪痕で汚れてゆがんだ文字を読みとろうとした矢先。

 ビラのまんなかからと白刃が突きでた。

 その切っ先がエーリカの鼻先をかすめ、ビラを串刺しにしたまま攫っていった。

「……え」

 何が起こったというのだろう。

 いま、鼻先を白銀のつるぎが――。

「――」

 いつのまにかエーリカの正面に、剣をかまえた少年が立っていた。

 あまりにも異常な状況に、まばたく瞳でエーリカは向けられた刃をむしろじっくりと観察してしまう。

 諸刃の剣でも、サーベルでもない。

 片刃で、ゆるやかな反りの刀身が凛とのびたそれは、おそらく東の、果ての……。

日本刀ヤパニシェス・シュベールト……?」

 少年は軍隊のズボンの上に、百花繚乱な刺繍の尽くされた日本風ドレスヤパニシェス・クライトを羽織って、華奢な腰骨からは古錆びた銀のバックルで留めた革ベルトの端を長く垂らしていた。

 肩にまとう外套は白虎ヴァイサー・ティーガーの毛皮だ。

「ちょっとそれ、どういう取りあわせのヤポニスム……」

 あげくのはてに少年は腰のベルトから華人キニーズ顔負けの手つきで柳葉刀リュウイェを抜いた。

 エーリカが本格的な恐怖を感じるまえに異種二刀流の少年はうしろへ一回転、くるりと飛びすさってお辞儀をしてみせた。それでやっと、客寄せの見世物なのだということがわかった。

 黒髪黒瞳の少年は無言のままエーリカに真新しいビラをさしだす。

 くしゃくしゃでない清潔なビラにあらためて目を落とす。そこに躍る宣伝文句が、徐々にだんだんと少しずつエーリカの胸を高鳴らせてゆく――。



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