落陽に想う

戸惑い

 目を覚ますと、いつもと違う光景に少し戸惑いながらも、昨日からザ・シーフロントオフィスビル内の部屋で生活を始めたことを思い出した。


 美月の部屋は五十階。左隣に陽の部屋、さらにその隣に上総の部屋がある。社員証がキーとなっており、オートロック式。五十畳ほどの仕事部屋と、その隣には一般的なマンション様式の部屋が繋がっている。

 部屋からの眺めは素晴らしいものだった。東京湾が窓いっぱいに広がり、時折飛行機を目にすることも出来る。


 以前とは環境が百八十度変化した。この暮らしは自分には勿体無いほど贅沢で、そしてとても心地良い。でも、戻れるものなら戻りたいとも思う。


「おはよう美月、起きてる?朝ごはん食べに行こう」


 電話に出た途端、陽からのモーニングコール。


「あ、まだ用意できてないかな。まだ六時だもんな。じゃあさ、支度できたら声掛けて」


 まだなにも返事をしていないのに、勝手に決めて切ってしまった。しかし、美月にとってはこれくらい図々しいほうが楽だった。

 支度が済み、陽の部屋のインターホンを鳴らす。声を出そうとしたそのときにはもうドアが開いていて、おはようと満面の笑みで挨拶をしてくれた。


「ここの食事はね、四十八階のフードテラスにあって、朝昼晩とビュッフェ形式なんだよ。途中準備でやっていない時間もあるけど、いつ行っても大丈夫だから」


「なんかすごいね。とても豪華」


「そうだね。でも、国からは隊員や社員たちの給料とか、公務員として最低限必要な分のお金しか貰っていないんだよ。この建物とか食事とかに掛かっている分は、すべて製薬会社の売り上げ。薬の開発責任者である上総の功績が大きいんだ」


 そう言いながら、陽は上総の部屋の前を通り過ぎてしまった。


「あれ、上総は?」


「ああ。あいつはいつも、朝は部屋で珈琲って決まってるの」


 上総のことが気になったが、二人はエレベーターへと足を運ぶ。それを見計らって、陽の部屋へ近付く影があった。エレベーターが到着し乗り込もうとしたそのとき、ふいに陽が足を止めた。


「……ごめん美月、俺携帯忘れたわ。フードテラスの前で待っててもらってもいい?」


 そう言うと、陽は笑顔で部屋へ引き返して行った。すると、その影は廊下の奥まで後退し、非常階段へと消えて行った。


 ***


 フロアに到着した美月は驚いた。数年前にそこそこ良いホテルのランチビュッフェに行ったことはあったが、とても比にならないほどの巨大な食事施設。

 本部社員約三千人が使用するとはいえ、外のテラスも非常に広大で、ここが軍隊だとは忘れてしまうほどだ。


「……あの、桐谷美月三佐ですよね。はじめまして。私、藤堂って言います。藤堂翼とうどうつばさ。こいつは結城翔ゆうきかけるです」


 見たことがない顔だった。それに気付いてエレベーターから速足で陽が駆けつける。どうやら、陽はこの二人と親しいようだ。


「おい、まだ美月はお前らの顔も名前もなにも知らないの」


「ですから、こうやって自己紹介してるんじゃないですか。ちょっとご一緒してもよろしいですか」


 そういうと、藤堂と結城は美月たちと同じテーブルに腰掛けた。


「では改めまして。特務室第二部隊第一小隊隊長二尉、藤堂翼といいます」


「同じく、第二部隊第二小隊隊長二尉、結城翔です」


 藤堂はとても人懐こい性格をしており、結城は落ち着いていて大人びている。


「第二部隊ってことは……」


「そうです。柏樹さん直属の部下です」


「悪いね、なんかふざけた感じの奴らで」


 第二部隊は皆仲が良さそうで、なんだかとても雰囲気が明るそうだ。


「そうですか。これからよろしくお願いします。ご迷惑ばかりお掛けてしまうかと思いますが……」


 それを聞いた藤堂と結城は愕然とした。


「き、桐谷三佐。敬語なんてやめてくださいよ。桐谷三佐は、我々にとって遥か雲の上の方なんですから」


 二人は青い顔をして慌てふためいている。その姿を眺めながら、陽は頬杖をついて微笑んでいた。


「そう。美月は組織には最近入ったけど、地位でいうと凄く上の人なの。歳も関係ない、上の人に従う」


「いや、でも……」


「そうですよ。全然こき使ってくださいね。私たちは所属は柏樹さんの所ですけど、久瀬将官の下っていうところでは、桐谷三佐の部下でもありますから」


「そういうこと。ほら食べよ」


 この二人は陽の部下であり、自分の部下でもある。知識や経験は彼らの方がたくさんあるのに、地位が上というだけで自分の下につくことになる。


「……頑張らないとな」


 しばらく談笑していると、陽は携帯電話を片手に立ち上がり、外のテラスへ行ってしまった。


「画面に表示されてた名前、久瀬将官の名前だったような」


「藤堂、お前そういうところ本当によく見てるよな」


 窓の向こうで話している陽の表情は硬い。どういった要件なのだろう。任務の話だろうか。


「……あの、久瀬将官ってどんな人なの?」


 美月の問いに、二人は少し考え腕を組む。


「久瀬将官が、あの若さで将官に昇りつめたのはとんでもないことなんです。相当なやり手で、目的のためなら手段を選ばない人です。しかし、本当の姿を知らない人がほとんどで、上官ながら私もそこまで詳しいわけではありません。まあ、どんな裏があるにせよ、結果を残して今の地位におられるのは確かです」


 ”どんな裏があるにせよ”この言葉が引っかかったが、とにかく気を付けなければならない人間には違いない。


「都築一佐も、最近は大変そうだしな」


「ね。訓練にも参加されていないし、研究所の方もあるから、なんか疲れてるよね」


 二人の言う通り、この一年で間違いなく上総は少しやつれてしまっていた。研究員であるため、薬やサプリメントなどは摂取しているようだが、食事と休養がまったく足りていないように思う。


 ***


「……おはようございます。朝早くからすみません。ちょっとお聞きしたいことが」


「おはようございます。なんのご用でしょうか、将官」


 少し強めの口調で、陽は携帯電話の向こう側の人物に問う。


、柏樹二佐はどうしようと思ったんですか?」


「……どう?」


 陽の表情は険しくなる。馬鹿にしているのか?試しているのか?どちらにせよ、朝から胸くそ悪い。


「そちらこそ、はなにをされていたんです?」


「……ああ、はね、時間があったので。そうですね、、ですかね」


「……なるほど」


 陽は、顔を顰め深く溜息をつく。


「迷惑でしたか」


「貴方が散歩したらいいのに。それなら文句は言いませんよ。堂々と、貴方が」


「そうですね……。まあ、それもの仕事なので」


「……私は、特になにもしようとはしていません。そこで誰と出会おうとも」


 大きな溜め息をついて陽は電話を切った。久瀬に対しては、自分はなにもできる立場ではない。下手に動くこともできない。今はただ、じっとしているしかなかった。

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