真田乙女十勇士
星と菫
序
時は戦国、世は乱世。
名だたる武将が覇を競い、天下を夢見て駈けた時代。
熱き血汐を
そんな、日本史上
いずれも劣らぬ傑物たちです。
……しかし、その一方。
煌めく巨星の裏側で、小さな国の
数によれない諸侯たちは、否応なく自身の器を測られることとなりました。
知略、才略を巡らせる資質はもちろん、時勢を読み取れる確かな嗅覚さえ求められました。なぜなら万一、仰いだ主君が敗戦の将となった場合、その
柔軟に、そしてときには頑強に。
ここ、
時は
「――それはまことなのかっ?!」
垂れ込めた闇を裂くかのような
「お屋形様っ?!」
門衛でさえ何事かと屋敷を振り仰ぐくらいでしたから、廊下で控えていた家臣たちの動揺は言うまでもありません。誰も通すなと人払いの役を仰せつかっていた彼らは、
「いかがなされまいたか?!」
ですが思わず戸板ごしに己の主人に声をかけておりました。
……ややあって、
「
圧し殺した声が部屋の向こうからありました。それは彼らの問いに対する答とはまったくなっていませんでしたが、家臣たちは不審な素振り一つ見せずに、こうべを垂れ、それぞれの持ち場へと
再び、耳を塞がれたかのようなしじまが訪れます。
先ほどの声の主は、唇を引き結んで目の前の
およそ十畳ほどの部屋の中央に作られている
『草の者』。
そう独特の名で称される、真田忍者の一人であったのです。
『真田忍者』。
真田氏が本拠を置く、信州真田の里の奧にそびえる霊峰、
彼らは平時は各地へと潜伏して、その地の動向を探る任を負っています。通信手段が限られていたこの時代、情報戦を制するということがどれだけ重要なのかは論を
“信長、光秀に討たれる――”
後世に『本能寺の変』として知られることとなる大事件が、京の地で起きたのでありました。
「……むう」
さすがの昌幸も、その報せには黙考せざるを得ませんでした。先刻はあまりの衝撃に、思わず真偽を
「何ということだ……」
眉根を寄せて瞑目していた昌幸が、ようやくそれだけを絞り出します。呼吸も忘れて絶句している様は、まるで
その呟きに、男は一瞬、同情を寄せるかのような表情をいたします。感情の制御が絶対条件である忍びの者が、心情を無意識に露呈してしまうのは珍しいことといえました。ことに、その男ほどの熟練の忍びが、感情を悟られるような素振りを見せるなどとは、普段の彼を知っている者ならば、とうてい信じられないことだったでしょう。
ですが彼もまた、これから全天下を大激震させるであろう一大事を目の当たりにして、内面の動揺を抑えられずにいたのです。
……京の地から信州までおよそ百里(約四百キロ)を、草の者たちは約半日で踏破しておりました。各国に設けられた忍び小屋を中継地点として、複数人で継走したとしても、彼らの脚力は目を瞠るものでした。
その第一報が
男は、全身が昂奮に包まれるのを感じました。皆が団結して手に入れた、宝よりも貴重なその情報を
この男は、己の主人、真田昌幸に対する、圧倒的なまでの信頼がありました。それは、ほかの真田忍びたちも同様です。昌幸と、草の者たちとは、堅い絆で結ばれておりました。それこそが、真田忍びの、真田忍びたる一因となっているのです。
通常、忍びとは、忍び社会で完結している集団でございます。忍びと武将との間柄は、あけすけに言ってしまえば、雇用関係以外の何ものでもありません。今で言うならば、忍びとは、派遣社員のようなものでしょう。働きに対する報酬は、その忍び個人にではなく、彼らが属している里に払われます。そして里の長たちが、忍びたちに報酬を与えるような、そんな制度でありました。個々の忍びたちとの感情的交流は、存在しておりませんでしたし、また双方とも、その必要性さえ感じておりません。武将側にしてみれば、忍びの里に褒章を取らせれば充分だと考えておりましたし、忍びの側でも、里の指示で仕えているのであって、それ以上の介入は不要だと考えておりました。
しかし、真田家当主、真田昌幸は違います。
昌幸は以前、
信玄もまた、諜報戦を重視する、先見に長けた知将でした。彼自身、『三ツ者』と称される隠密組織を用いたり、『歩き巫女』という集団を作って諜報活動を行なわせたりしておりました。なので、忍びに対する思い入れは、人一倍強いものでありました。
“人は城、人は石垣、人は堀”。
かの名言にもありますように、信玄は人を重視いたしました。それも、身分に分け隔てなく。そして、その『身分』には、忍びの者も、もちろん含まれておりました。それは、集団としての絆は、血よりも濃いと謳われた忍者社会にあって、その里を捨ててまで、信玄に忠誠を誓った忍びたちが少なからず存在したという事実が、証明しているでしょう。
その緊密に結ばれた様子を、昌幸は信玄の傍らで見ておりました。昌幸自身、信玄の人柄に魅せられていた者の一人でありましたから、彼に感化され、同じ価値観をいだくようになったと考えるのは、想像に
「…………」
男は、草屋敷にいる仲間の忍びや、方方に散っている草の者たちに想いを馳せました。その者たちの中には、信玄が
そこまで昌幸に心服していた彼だからこそ、滅多に取らない無表情の仮面を、無意識に外していたのではないでしょうか。主人の、昌幸の懊悩を察して。
……そう、彼の、真田昌幸の苦悩は、それは同情するに有り余るものであったのです。
真田家二代目当主、真田昌幸は、
そんな彼に、運命の転換点が訪れます。
この長兄信綱は、真田家
その後、昌幸は、父
……ですがしかし、その安定したときは、永くは続きません。
時は
そう、織田信長であったのです。
「……まさか、また主君を喪うことになろうとはな」
昌幸は、苦苦しく独りごちました。智、武、共に並外れた才能を有していた昌幸にしても、まさかたった半年で
(……はてさて、一体どうしたものかのう。)
心中で己に問いかけながら、思案するときの癖なのか、昌幸は口髭を指で
その様を男は引き続き見護っておりました。主人の
だが、恐らく相当はかかるであろう、男はそう見当をつけました。ここ上田を含む
男は男で、知らずのうちに沈思黙考をしておりました。ですが、さすがは日日
「はっ」
ただちに居住まいを正しておりました。
「なんでございましょう」
思考を中断させて、彼は改めて昌幸に向き直りました。
その瞳が、真剣な眼差しに射られます。囲炉裏の煙の向こう側で、彼の主君
「…………」
「うむ、」
昌幸は一拍
「――お主だったら、この先どうしたら良いと思われるか?」
「っっ!!」
その問いに、男は即座に平伏しておりました。
「お、恐れながら……」
答える声が、かすかに震えておりました。
男は、感極まって、
(殿が、
もちろん男にも、昌幸が真剣に回答を求めているわけではないことくらいは理解しておりました。それでも仮にも家の
「
「うむ、そうか」
返答を濁した男にも、昌幸はなんら咎めるような素振りを見せずに、あっさりと頷きます。
「苦労をかけたな、帰って休むが良い」
「そのようなお言葉、もったいのうございまする」
「では、
……その声だけが、小さな部屋にたゆたっておりました。板戸を開ける音も、閉める音も、昌幸の耳にまでは届きませんでした。囲炉裏から立ち上る煙のごとくに、意識の間隙を衝いて、男は『地炉ノ間』から退出していたのです。
その美事な技に、昌幸は口もとを緩めます。そして、彼ら『草の者』という忍びを有する己の優位性に、彼の笑みはその深度を増していきました。
(人は宝……、まっことそのとおりでございましょう……。)
そう昌幸は、亡き
* * *
その同刻――。
昌幸が独り、野望に胸を焦がされているその同じとき、『
彼の名は、
後の世に、
“
そう称されることとなる、
ここにまた、新たなる星が、人々を惹きつけて
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます