序章

素敵な縁だと思っていた。

 朝から、重苦しい灰色の雲が空を覆い尽くしていた。


 少なくとも、しばらくの間は雨が降らないことは判ってはいたが。

 それでも、この空の色は憂鬱で。

 見ているだけで、心の中をざわつかせるような天気だった。


 稲荷神社の中には、いつものようにほとんど人影が無かった。

 がらんとした境内は寒々しくて、鳥居の赤だけが静かに自己主張している。


 空はまだ泣き出してはいなかったが、小さな子供のすすり泣く声が、拝殿の方から聞こえてきていた。

 拝殿の脇にある濡れ縁に、まだ年端もいかない男の子が腰かけている。

 男の子はしゃくりあげるように肩を震わせて、涙をこぼしていた。


「で、どうするんだ?」


 男の声がした。


 声は男の子の丁度足元の辺りからした。

 そこにはキジトラの大きな猫が丸くなっている。

 猫は目だけを大きく見開いて、男の子のちょうど後ろの空間を、じっと見つめていた。


「本当に良いのか?それで?」


 もう一度、男の声がした。


 その決断が意味するところを、後悔することはないのだろうかと。

 男の声は、心配していた。


「まあ、ね。どうしてもと言われれば仕方がないよ」


 女の子の声が、それに応えた。


 濡れ縁の上、丁度男の子の隣辺りからか。

 諦めを含んではいるが、強い意志を持った言葉だった。


 二つの声に挟まれても、男の子はただずっと泣きじゃくるだけだった。

 何ら意味のある言葉を発することは無い。


「それが願い事だと言われれば、叶えてあげないわけにはいかない」


 女の子は、ため息をついたようだった。


「蓋をしちゃうと、もう外からは開けられない。そんな蓋意味ないからね」


「だが、蓋をされた方はその蓋に気付けなくなる」


 外からは開けられない。

 中からは存在に気付けない。


 それはつまり、一度蓋をすれば、二度と取ることが出来ないことを意味する。

 中途半端な封じでは無意味だろうとはいえ、それは。


 あまりにも酷な選択だった。


「何かきっかけがあれば、自分で蓋を取る可能性だってあるだろう?」


 男の声が問うた。


「そりゃあ、完全な物なんて無いだろうからね。でも」


 女の子の声が途切れた。

 恐らく、横にいる男の子の姿を見て、何かを思ったのだ。


「彼はそれを望むのかな?」


 蓋を望んだのは、彼自身だ。

 隔絶されることを望んだ者が、自らの意思で、もう一度外に出ることを望むだろうか。


 確かに強い意志やきっかけがあれば、この蓋を取り除くことは出来るかもしれない。


 しかし、仮に蓋が外れたとして、それは本当に、彼の望んだことになるのだろうか。

 再び蓋を施すようなことになるとすれば、それが多分一番つらいことになる。


 しばらく、男の声と女の子の声は途絶えた。

 後にはまた、男の子の嗚咽おえつだけが残された。


 キジトラ猫が、ふっと目を細めた。


「それが人間としては自然な在り方か」


 男の声は、仕方がない、とでも言いたげだ。


「普通に人として生きていく上では、そもそも必要のない力だろうし」


 女の子の声もそれに応える。

 別れを惜しむような、どこか悲しそうな声で。


「私は・・・彼の願いをかなえるよ」


 決意の言葉を口にした。


 素敵な縁だと思っていた。

 楽しい未来の予感があった。


 だがその力が、彼にとって悲しみしか生み出さないというのであれば、それはどうしようもないことだ。


 もし彼に視る力が真に必要だというのであれば、いずれ自然と取り戻すことになるだろう。


 今は、彼を苦しめる悪夢を少しでも和らぐことを、彼が人として普通に生きていけるようになることを願おう。


 それが彼の望み、彼の願いであるというなら、願いを叶えるものとして、やるべきことは決まっている。


「じゃあね、リク」


 女の子の声が、男の子の名前を呼び。


 そして、彼の世界は灰色に包まれた。

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