鯉に堕ちる

彼は、雲の上に住んでいる。彼らのような雲の上に住む種族の仕事は、地上に雨を降らせることだ。各々地上の一区画を担当として受け持ち、長の指示を受けて担当地域へ雨を降らせる。種族の中でも彼はまだ幼い部類に入るため、国の中心地からは遠く離れた、自然豊かな地域の小さな範囲を任されていた。

その範囲には小さな村がひとつだけある。村のはずれにきれいな滝が流れる美しい村だ。定期的に雨を降らせつつ、日々こっそりと雲の上から村を眺める。少しずつ豊かに発展していく村を眺めることは、仕事の合間の密やかな楽しみでもあった。


雨を降らせる時期は全て長の指示によるものだ。ただ、今回の雨を降らせない期間は、今までに比べて特に長いように感じていた。もう2か月ほど、あの村には雨が降っていない。

周囲にある色々な地域との兼ね合いがあるとはいうものの、彼は村の様子が心配で、日々雲の上から村を眺めることはやめられずにいた。

村では飢餓になる人や病気の人が増えてきているようで、雨乞いの儀式も行われている様子だった。村はずれにある滝を前に、ひとりの少女が空に向かって手を伸ばし何か話している。ふと、少女と目が合ったような気がして彼は目を逸らした。


さらに1か月が経ったが、まだ雨を降らせる許可は下りない。毎日のように空を見つめる少女を眺めているうちに、少女個人に対しても不思議な気持ちを持つようになった。彼女を見ていると少し淋しい気持ちになる。彼女は1月前に比べると、細くやつれているように見える。待てども待てども雨を降らせる許可は一向に下りない。彼の胸のざわつきは日に日に増していく。


その日、村に約4か月ぶりの雨が降り注いだ。彼女が満面の笑みで雨を喜んでいる。村中が歓喜している。その雨は、彼が長の許可を待たず自分自身の判断でもたらしたものだった。


掟をを破ったものは魚の姿に変えられて地上へ堕とされる。しかし不思議と彼に後悔の念はなく、高揚感すら感じていた。


掟をを破った影響からか、村の周囲は雨が止まらず大嵐になっていた。轟轟と降りしきる雨に紛れ、身体が小さくなった彼は身動きもまともに取れずに流されていく。


偶然、彼は村はずれにある滝へ着水した。大嵐の中激しく荒れ狂う滝の中、泳ぎ方すら知らない彼はぐちゃぐちゃに水の中でかき回された。次第に意識は遠のいていく。視界が濃い藍色に染まっていく中でも、彼の脳裏では雨を喜ぶ彼女の笑顔が何度も繰り返されていた。


翌日、村の上空は雲一つない晴天となった。幸い、大嵐による村への影響もほとんどなかったようだ。


村はずれの滝つぼにある湖の岸辺に、魚になった彼は浮かんでいた。そこへ一人の小柄な人間が表れ、彼のもとへ立ち寄るとゆっくりと彼を両手ですくい上げた。そして彼を抱えたまま真っ直ぐに、村の方へと駆けていった。

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考えない葦になる【ショートショート短編集】 黒の巣 @kuronosu

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