日曜日の朝。S川の河川敷近くにある団地の一角に中学二年生になったばかりの井上ちあきの家がある。

　土手の八重桜は、これからが見ごろ。

　うわさを聞きつけた近在の人びとが徐々に増えはじめた。

　ダイニングルームで母の敏江が食事の支度をしている。

　目玉焼きがのった白い皿が三枚、テーブルの上にある。

　包丁をじょうずにふるい、キャベツを細かく刻んでいるうちに、やかんがピーピー音を立てはじめた。

　「お母さん、台所にいないの」

　ジャージ姿のちあきが、階段をあわてて降りてきた。

　いそいでガス台のレバーをひねる。

　「あら、ありがとう」

　「お母さん、おはよう」

　「おはよう。ちあき、早いんじゃない」

　「部活があるの」

　ちあきが薄紫色のビニルカバーでおおわれたテーブルを見つめ、

　「ゆうべ、ここにおいてなかった？あたしの本、知らない？」

　ちあきはテーブルの角をゆびさした。

　「お父さんが見ていたようだったわ」

　ちあきは暗い表情で、

　「見てただけ？さわんなかった？」

　「どうして。そんな怖い顔して」

　「だって、新刊よ。前からほしかったの。楽しみにしてたの」

　「そんなに大事にしてるんだったら、ちゃんとしまっておいたらいいでしょ」

　良平が大きなあくびをしながら、寝室から出て来た。起きたばかりで、パジャマのままだ。シャツが垂れさがっている。

　「おはよう、早いね」

　「あら、あなたこそ。日曜なのに」

　「ちあきの声が聞こえたんでね」

　にやにやしている良平を、ちあきが紅い顔をして、にらんだ。

　「お父さんさあ」

　「なんだい。おどかすなよ」

　娘の剣幕に、良平は声がうわずってしまう。

　「あたしの本、どこ」

　「ああ、あれ。お前のだったのか」

　「そうよ。どこへやったの」

　「俺の書斎」

　ちあきは頬をふくらませ、

　「もう勝手にさわんないでよ」

　「いいじゃないか。見たって」

　「いやなの。ことわってからにしてよ」

　敏江が割って入った。

　「ふたりともおすわりなさいよ。おいしいコーヒーいれてあげるから」

　父と娘は差し向かいにすわった。

　「持って来てよ、いますぐ」

　ちあきは強い口調で命令した。

　「はいよ」

　良平はしぶしぶ椅子をひく。

　「ちあき、いいでしょ、すぐじゃなくっても。コーヒーがさめちゃうわ」

　敏江がちあきをなだめる。

　「だめっ」

　「いいよ、いいよ。取って来るからさ」

　「あなたはちあきに甘いんだから」

　「おかあさんは早くしてよ、ごはん」

　「まだ六時でしょ。そうせかさないで」

　「先輩より、学校、先に行かなくちゃなんないの」

　「厳しいのね、かわいそう」

　敏江がちあきの長い髪をやさしくなでてやると、ちあきはそれをさけるようにからだをねじった。

　良平がダイニングにもどった。

　「わるかったね、ちあき」

　と言いながら、テーブルの上に本を置いた。

　お目当ての本を受け取るとすぐに、ちあきは手に取り、パラパラとめくりはじめた。

　「あれっ、ないわ」

　「何がないんだ」

　「しおりよ」

　「しおり？」

　「そう」

　「はさまってないか。二十五ページに。あったはずだぞ」

　ちあきはもう一度たしかめたが、なかった。

　「きれいな花の絵がのってるやつだろ」

　ちあきは次に本を下に向け、ゆすぶってみた。

　「ないわ、やっぱり。お気に入りのしおりだったのよ」

　「おかしいな、どれ？」

　良平がページをめくりだした。

　敏江が湯気の立つカップを、ちあきの目の前においた。

　「さあ、これ飲んでからにするの。落ち着いて探しなさい」

　「落ち着いてなんか、いられないよ」

　ちあきが立ち上がった拍子に、からだがテーブルにあたった。

　カップがころがってしまい、コーヒーがこぼれ、床にしたたり落ち

ていく。

　良平のパジャマに、いくつも茶色のしみができた。

　「いい加減にしろ、ばかっ」

　良平の罵声がとんだ。

　「なによ、お父さんがわるいくせに。ばかだなんて」

　ちあきが泣きながら、階段を駆けあがって行った。

　ダイニングが静かになった。

　良平は両手で頭をかかえ、

　「なんだかむずかしくなったんだな、ちあきは」

　と言った。

　「お年ごろなのよ。あなた、早くとり変えないと」

　陽子は寝室に行き、替え着をもってきた。

　良平が脱いだずぼんを手にとり、ポケットをまさぐってみた。

　何かが手に触れた。

　ぐしゃぐしゃの薄っぺらな紙きれだった。

　ひょっとして、栞かもと思い、良平に見せた。

　トントン、トントン。軽い足音が階段を降りて来る。

　ちあきが微笑んでいた。

　「どうしたの。さっきは泣いていたのに」

　「いいことがあったの」

　「ええまあ」

　敏江はあきれ顔だ。

　「ところでね、見つかったのよ、しおり」

　「へえ、あったんだ、良かったね」

　「でもね、これよ」

　敏江が手のひらにのせ、ちあきに見せると、ちあきは一瞬悲しげな表情になったが、

　「いいわ、こんなの」

　ぽいっと屑入れに投げ込んだ。

　良平と敏江が顔を見合わせた。

　「なによ、いったい。あんなにさわいでたのに」

　敏江がとがめると、

　「新しいのを買うからいいの」

　と言った。

　玄関にいそぐちあきの背中に、良平が、

　「気をつけるんだぞ」

　と声をかけた。

　ちあきはふり向き、

　「まさるが待ってるって」

　良平が敏江の方に向きなおり、

　「まさるって？」

　と訊いた。

　「ボーイフレンド」

　「いるんだ、そんなの。もう」

　良平が眉間にしわを寄せた。

　ちあきは運動靴の先をトントンと床にぶつけ、

　「行ってきまあす」

　戸をガラガラと開けるなり、跳びだして行った。

　　(了)