【分子工学はセルも殺した】
現在主流の放射線治療は旧来の「切り取る」外科的な方式と比べ患者の負担を大幅に軽減することで知られている。しかし、直接放射線によって破壊するこの方式は専門の大型機器が必要な上に、未だに疲労感、だるさ、食欲不振、吐き気、脱毛、口内の渇感、消化器の機能不全を引き起こした。さらに、ステージⅣのガンになるともはやこの方法では無理があった。確かに不可能ではないが、その費用と化学治療による精神的負担は計り知れないため、その殆どが治療を諦め、静かに余生を過ごすしか選択肢は残されていない状況であった。それは端的言えば「死からの現実逃避」の最たる例とも言えよう。だが時代が進むにつれて確かに医学は進歩し続けた。一人でも多くの命を救うために、一歩も留まる事もなく。そしてとうとうここにも「新時代」が到来する。
とある日、僕は国立病院の診察室にいた。殺風景な個室。僕の左には膨大なファイルが積みあがった机があり、その上には診察用のコンピューターが置かれていた。画面には彼のCT画像が大きく映し出されている。対面して座る医師はポケットに突っ込まれたボールペンの頭をカチカチと押しながら小難しそうな顔でカルテを眺めている。
奥に見える壁掛け時計の秒針だけが刻々と進む。5分、10分とこの緊張感と恐怖が蔓延した雰囲気が続いている。もし出来ることならば、今すぐここから逃げ出したいとさえ思ってしまう。ここに来る前に、個人医院では「どうもこの症状はウチでは扱えない。推薦状は書いておくからもっと大きな所で精密検査を受けなさい」と宣告された。ここで聞かされるであろう話が、何ともありませんよの一言で済む訳が無い事はどう考えても明らかだ。僕はじんわりと体中に汗を掻く。心拍数は先ほどから上がりっぱなしだ。どうかいっそのこと「症状は解りませんでした」とでも言っては貰えないだろうか、そのほうがこのどこから来るのかも分からない恐怖に怯えずに死ぬことが出来るのだ。ある意味今となってはそれが最善手では無いだろうか。
その時は突然にやって来た。医師はまたペンをポケットに戻すと、カルテを机にポンと置き、「貴方は残念ながらステージⅣの肺ガンです、大きさは最大5㎝で既に心臓と脳に対しても転移が見られます。」と慣れたような声で話した。心の奥深くからいくつもの感情がごちゃ混ぜになって喉を塞ぐ。言いたいことは山ほどあるのに、口から溢れるのは僅かな息だけだった。「うあっ…っあ…」と声にならない声が口腔から漏れ出す。
頭を抱えてその場に蹲るとズボンの腿の部分にいくつかの円形のシミができた。それは時間が経つごとに1つ、また1つと増えていった。「私は…助かるんですか?」
やっとの事で喉の詰まりが取れて声を出す。顔を見上げて医師の方を見ると、「共に頑張っていきましょう。」と彼は答えた。僕が期待した「治せます」の一言を聞くことはできず、その大回りな表現で宛がわれた結論は完治出来ない事を示していた。
「なんとか…なりませんか?何だって構いません、何か…無いんですか?」
途切れ途切れの言葉に、嗚咽が混じって掠れて、聞き取るに堪えない声だろう。僅かな希望があるのなら、そこに全てを賭けてしまっても構わない。まだやり残した事はいくつもある。こんな所で終わりにしたくはない。先ほどまでの楽観もこの事実を前にしては脆くも崩れた。だが次に放たれた言葉は耳を疑うような物であった。
「ありますよ、ただ、助かる保証までは出来ませんがね。」
僕が思うよりも遥かに簡単に彼はそう答えて見せた、ホスピスでゆっくりと死の足音を聞きながら過ごす以外の選択肢があると言うこの事実だけで、ぐっと心が軽くなった。もしこのまま生きる事が出来る可能性が1パーセントだってあるのなら、それに賭けることなく諦めるなんて考えられなかった。右手で涙を拭ってから彼に詳しくその話を聞かせてくれとやや早口でせがんだ。彼は「まだ未承認の方法です」と前置きすると開発されたばかりの第三の方法について話し出した。僕はポケットからメモ帳を取り出し、そこに次々と要点を纏めていった。その方法とは≪医療ナノマシン≫を利用する方法で、具体的にはそれを封入したカプセルを飲み込むと、小腸でカプセルが溶解し、内部のナノマシンが柔毛のリンパ管を経由して肝臓に入り、そこから血管に移動した後に体内をくまなく移動する。ガン細胞を発見した場合はまず、細胞内のDNA正常化、いわば書き換えの作業に入る。DNA中の欠損や異常部分を合致するアミノ酸を血液中から取り出し、破損した部分を酵素によって破壊した後にその部分に配列を合わせた塩基を設置して正常な細胞へと戻す。
この作業が失敗、もしくは出来ないほど深刻な破損であった場合はテロメアの切断に移る。テロメアとは細胞内にある時限装置のようなもので分裂を繰り返すほどこの部分は短くなっていく、いわば命の回数券であり、これが尽きると細胞はこれ以上の分裂を起こさずに消滅する。ガン細胞にはテロメアを分裂のたびに無理やり補正するテロメアーゼという酵素があるため、無限に増殖してしまう。このテロメアを切断し、消滅させるのがこの作業であった。また、完了次第これらのナノマシンは体外へ排出されるため体内残留も起こらないようになっているそうだ。
僕は何の迷いもなく「どうかその方法を試させて下さい。」と頼み込んだ。彼は暫くの間、腕組みをして考え込むと、しっかり僕の目を見てから「本当によろしいのですね?何があろうと我々は何の保証もできませんよ。」と念を押すように強く言った。当然そんなことで僕もあきらめるわけには行かない。「はい。」と返すと、彼は積み重なったファイルから何枚かの同意書を取り出し、全て読んでからサインするようにとペンと共に渡してくれた。さらに続けて、取り寄せには2週間かかり、服用から一か月以内にその効果は発揮されると言う。全ての手続きを終えた後は大きな安心感に包まれた。これでまだまだ生きていられる。生きていることがどんなに幸せで、奇跡的なことであって、それはどれだけかけがえのない物なのかを実感することが出来た。希望にあふれたその2週間はあっという間に過ぎた。
2週間後僕はまた同じ診察室で同じ医師と対面していた。唯一異なることは何の不安も抱えていないと言った事だろうか。「こちらがそのカプセルです」と彼は梱包を解いて袋に入ったそのナノマシンカプセルを見せてくれた。普遍的な赤と白の容器は他の薬品とそう変わらない見た目をしていた。普通の物よりも少し大きく、かなり進行していたため全部で2つ飲まなければならないそうだ。続けて、「そしてこれがその中身です」と、もう一つのサンプルと刻印されたカプセルを開くと中からは銀色に輝く粉末のような物がサラサラと流れ出した。見た目はまるで鉄粉と言った所だろうか。こんな粉のようなものが命を救うとは技術の進歩は恐ろしいな、と一人感心していた。私は彼からカプセルを受け取るとその日のうちに服用した。
そこからは何事もなく治療は進んだ。毎週初めのCTスキャンでは日に日にナノマシンがガンを覆いつくしているのが確認できた。そして第4週の後半にはナノマシンが全て体内から排出され、あとはガンの消滅を待つのみだった。
その日もいつものような外回り営業の最中であった。夏の日差しが強く当たり、コンクリートは灼けるようなあふれんばかりの熱をその内部に蓄えている。ビルの壁はその塗装と影とで絶妙なコントラストを描き出し、遥か上空にはおもちゃの様に小さくなった旅客機は白い一筋の線で空を2つに分け隔てていた。コンビニで買ったお茶とのり弁当をもってしばしの休憩と公園のベンチに座る。あれほどまでの熱射も頭上を覆うように広がったこの大木の葉の1つ1つに打ち消され、地面へと届く木漏れ日は何とも幻想的だった。背もたれにぐっと寄りかかると長年設置されていたであろうこの器具はギシリと少し軋みながらも私の体重を肩代わりしてくれる。
待ちに待った昼飯だ。弁当の蓋を開けて茶を取り出したところでガシャリと弁当を地面に落としてしまった。慌てて拾おうとするが目の前が酷く歪み、そのままベンチに突っ伏したゆっくりと視界が狭まっていく。「おい、なんだこれ?ガンは完治したんじゃないのか…?嫌だ…死にたくねぇよ…助けてくれ!誰か…」その叫びもただ木々に吸い込まれるようにかき消された。痛みは感じない、ただただ恐怖だけが襲う。何が何だか分からないまま僕はその場で動けなくなった。
いつもと同じあの診察室でまたあの医者が誰かと対面して話している。「息子はどうなったんですか?」と聞く男に、また彼はどこか慣れた口調で「残念ながら脳内出血により息を引き取られました。」と冷淡に告げた。奥からカルテを取り出してそこに何か書き込むとパタンと二つ折りにしてこう続けた「息子さんのガンは見事消滅していました。ですが…急激に数センチの組織が消えたため、癒着していた血管を塞いでいたガンも無くなったことで、血管内から血液があふれ出し、最終的には脳を圧迫した事が直接の死因でしょう。」それを聞くと、男はうつむいて、嗚咽交じりに「そう…ですか」と答えると拳を強く握って机に叩き付けた。ズボンには涙滴の痕を残しながら。
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