第20話 Wolf blutrünstig―餓狼―

「エリーザベトよ。老いぼれの狡猾公こうかつこう率いる軍が、のこのことこのランツフートまで進軍して来ているぞ。今、敵軍の詳しい位置を偵察させているが、二、三日後には奴らと干戈かんかを交えることになるだろうな」


 ここは、ランツフート市街の丘の上にそびえるトラウスニッツ城。


 その城の見張り塔からランツフートの美しい街並みを眺めながら、ループレヒトは自分に寄り添う妻のエリーザベトに言った。


「私の生まれ故郷であり、父と母が愛したランツフートの街を他人の手になど渡したくはありません」


 エリーザベトは、街中に響き渡っている聖マルティン教会の厳かな鐘の音に耳を澄ませ、そう呟いた。


 エリーザベトの両親であるランツフート公とヤドヴィガ妃は、このランツフートの都市で後の世にまで語り継がれる盛大で華やかな結婚式を挙げたのである。そんな父と母の愛の思い出がある街をエリーザベトは狡猾なミュンヘン公アルブレヒトから絶対に守り抜きたいと強く思っていた。


「必ず守るさ、そなたの故郷を。もちろん、そなたと二人の幼き息子たちもだ」


 ループレヒトは愛しい妻の髪を優しく撫でて、そう言った。力強く、自信に満ちあふれた声である。大きな挫折を知らずに育った若き公子ループレヒトは、おのれの才気と妻子への愛さえあれば、この世の全ての困難は打ち砕くことができると信じ切っていた。


「私も鎧を着て、あなたと共に戦います。ヘルゲに火縄銃の撃ち方を教わりましたから、必ずや私の手でミュンヘン公の命を奪います」


 はかなげな外見に似合わず男勝りなエリーザベトは、守られてばかりは嫌だとばかりにそう言い、ループレヒトを驚かせた。


「エリーザベト。俺に隠れて、そんなことをしていたのか? やれやれ、勇ましい奥方様だ。ヘルゲよ、お前は我が妻をボヘミア傭兵隊の兵士にでもする気か?」


 ループレヒトはそばに控えているボヘミアの戦士ヘルゲをチラリと睨み、文句を言った。ヘルゲは、ミュンヘンでゲッツやランツクネヒト隊と一戦交えたボヘミア傭兵隊の指揮をとっていた若者である。


 このヘルゲの父が、ループレヒトが雇っているボヘミア傭兵隊の隊長だった。


 ヘルゲの父は、ローマ王マクシミリアンがいずれライン地方から軍を返してこのランツフートを総攻撃するであろうと予測して、ランツフートの防衛戦の準備をするためにミュンヘン攻撃に加わっていなかったのである。


 彼は、「ミュンヘン公の率いる軍の攻撃など、どうでもいい。問題はローマ王だ」と口癖のように言っていた。


「我らボヘミアの血を受け継ぐ戦士は、戦う意思がある者ならば、たとえ女や子どもでも戦士としてぐうします。父も、そうしています」


「だが、お前の父は、ドイツの帝国騎士の子らしいではないか」


「はい。ですが、父を産んだ女性はボヘミアの女だと聞いています」


「それでは、体に流れるボヘミアの血は半分だ。それでよくボヘミア傭兵の隊長になれたな」


 ループレヒトがそう言った直後、見張り塔の階段を誰かがカツンカツンとのぼって来る足音がして、


「我が肉体には、帝国騎士の血など一滴も流れてはおりませぬ」


 というしわがれ声が聞こえてきた。姿を現したのは、ヘルゲの父にしてボヘミア傭兵隊の隊長、


 ケヒリ


 であった。彼は、エリーザベトの美しい顔をほんの一瞬ちらりと見ると、ループレヒトに一礼してこう言った。


「我が体内に流れているのは、母の血だけです。母と俺を捨てた男の血など、右手を失った時の出血で、体から全て吐き出しました」


 この隻腕せきわんの老傭兵ケヒリは、若い時にキリアン・フォン・ベルリヒンゲンと名乗る帝国騎士と一騎打ちして、右の手首から先を失った。そして、切断した部分から雑菌が入り、腕が腐食してきたため、思い切って肩から下も切り落としたのである。


 失った右腕の分まで働かなければならなくなった左腕をケヒリは鍛えに鍛え、傷だらけの彼の左腕は六十代の肉体とは思えぬほど隆々とした筋肉で盛り上がっていた。


「……おぬしが我らの味方になったのは、俺が神聖ローマ帝国の君主ローマ王の意向に逆らい、ランツフートを占領したからか? おぬしは、帝国騎士である父への憎しみのために戦っているのか?」


 このケヒリという男は、自分と母を捨てた帝国騎士の父に対する恨みから反帝国側の勢力の傭兵となって何十年も戦い続けているのだろうかと思い、ループレヒトは問うた。そうだとしたら、恐ろしい執念である。


「…………さあ?」


 戦争が終わるまでの期限つき契約の雇い主に過ぎないループレヒトに、おのれの心の内を全て明かす気はないのだろう。ケヒリは、無愛想にそう答えた。


 感情が欠落しているのかと思うほどケヒリは喜怒哀楽を顔に表さず、その不気味なまでの無表情が、獲物に食らいつこうと狙う狼のような炯々たる眼光の凄みを際立ださせていた。


(俺を若造だと思って馬鹿にしているのか、この男は)


 ループレヒトは内心舌打ちしたが、気性の激しいこの若者にしては珍しく我慢して怒りを顔に出さなかった。


 ボヘミア傭兵隊には、今回の戦いで大いに働いてもらわなければならない。こんなつまらないことで喧嘩をして、ケヒリとの間に溝を作りたくなかったのだ。


「ケヒリ。あなたが何のために戦っているのかを無理に聞く気はありません。守るべき信念や戦う理由など、人それぞれに違うのは当然のことですからね。ですが、今の私たちは共にランツフートを守ろうとする同志。どうか、我々に力を貸してください」


 どうやらループレヒトとケヒリはあまり馬が合わないらしいと感じたエリーザベトは、夫の代わりにケヒリにそう言って頼んだ。


「無論です。狡猾公ごとき、苦もなく打ち負かしてみせましょう」


 ケヒリは、エリーザベトに対しては、わずかに声を穏やかにしてそう言った。その対応の微妙な変化を敏感に察したループレヒトは、


(こいつ、老いぼれのくせして、俺の妻に懸想けそうでもしているのか)


 と、不愉快に思うのであった。



            *   *   *



 ケヒリは、ランツフート近隣の農民たちを偵察として使い、調べさせたミュンヘン陣営の軍の現在の詳しい位置やその兵力をループレヒトに詳細に報告すると、息子のヘルゲを引き連れて塔から降りて行った。


「ヘルゲ。敵軍で警戒しておくべき将や部隊はいたか」


 塔の階段を降りながら、ケヒリはヘルゲに問うた。


「ミュンヘン公の軍は、従う騎士や兵数は多いですが、たいした将はおりません。しかし、ブランデンブルク辺境伯軍の先鋒隊を率いていた若い騎士と、ランツクネヒト隊にいた大剣使いの戦士が突出とっしゅつして手強かったです」


「ふむ……。戦いに勝利するためには、敵の強さや弱点を熟知しておく必要がある。もう一度、農民どもに敵軍の偵察をさせるか」


 ケヒリは左手親指の爪を噛みながらそう言うと、眉間にしわを寄せて口の端をわずかに引きつらせた。


 息子のヘルゲにしか分からないが、ケヒリは笑っているのだ。普段は死人のように全く表情を変化させないせいか、たまに笑うと、顔が痙攣けいれんしているようないびつで不気味な笑みになってしまうのである。


(今度のいくさで、俺を殺すことができる戦士は現れるだろうか)


 ケヒリの人生には、戦いしかなかった。


 昔は守る物があって戦っていたが、それはとうの昔に失ってしまっている。


 老いた隻腕の戦士は、戦う目的を見失ったまま血に飢えた狼のように戦い、自分より強い戦士によって殺される時まで戦い続けるのである。


 そんな日が来るまで、いくさでしか自分が生きているという実感を見いだせないケヒリは戦場で殺戮さつりくを続けるしかなかった。そういう自分があまりにも愚かに思えて、ケヒリはおのれをあざけり笑っていたのだ。

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