( iii-3 )ひとり反省会:みひらき物語

■基本情報

 デビュー前のワナビ時代(当時ワナビという言い方はなかったが)、400字詰め原稿用紙2枚で掌編を書くことで「鍛錬」に充てていた時期があった。昔話だが、『作家でごはん!』という作家志望者のコミュニティサイトにそういう「鍛錬」のための投稿&相互批評コーナーがあり、当時はこんなレギュレーションで作品を募集していたのである(現在は枚数制限なしの投稿コーナーに移行)。

 その時の投稿習作をリライトしてまとめておこうと思ったのが、この連載(という言い方は好きではない)だ。ただ、旧作ばかりだとすぐに弾切れになるというか、今となってはとても、リライトしても人前に出せるシロモノではないというものもあって、新作も書いていこうという流れにはなっている。

 もちろん新作を書くことには、自分自身の「書くリハビリ」のためという意味合いもあった。



 見開き程度で終わるようなショートストーリー、掌編は、コミカルな「落とし話」が定番なのだが、あえてその方向へは行かず、ストーリー性を持って完結するような作品を目指している。というのは、やはりこれが「鍛錬」であったからだ。


 オチのついた小説、それ自体は、作り上げる上であまり苦労はしない。もちろんオチを考えつくことや、それを完成形まで持って行くことは大変なのだが、終わりよければすべて良しの喩えの通り、オチが決まっていれば、読者を満足へと導くことはさほど難しくない。というか、終わりが良ければ自動的にそれは果たされるのだ。


 しかし文章鍛錬と考えた時、安易に「オチ」に頼ることは、作者として「楽をしている」ということにもなってしまう。


 実際、これだけ短い中にストーリーのようなものを入れ込むと、ものすごくツラい。読者に伝えなければならない情報を、どれだけ短い中に詰め込めるかに腐心しなければならない。落とし話はセンスで書けるが、ストーリーはセンスだけでは書ききれないのだ。もちろん、兼ね備えるのが最良であることは言うまでもない。


 で、自分としてはセンスはあんまりなさそうだと思っているので、無いものをどうにかしようとするよりは、技術を磨いていく方を選択した。そう考えてのストーリー掌編による「鍛錬」なのだった。




■自己反省(作品別・現在の掲示順)

●ハイヒール・リベリオン

 旧作リライト。軽妙でツカミがいいものを劈頭に……と思って配したが、思っていたほどツカミとしての機能は果たしていない気がする。というか完全に大人向けの内容になっているので読者層が狭まってしまった。

 日常の中の、あるポイントに光を当てることで物語になる、というスタイルのお話。靴屋において、普段はかないような高いヒールをあえて選ぶことの意味を感じ取ってもらえるかどうかでオチるかどうか決まるという、読者に投げっぱなしエンディングである。


 これは本掌編集全体に言えるが、最大1400字程度という短さなので、心理劇を描く場合には、省略と想起を多用せざるを得ない。

 例えば作中で、一人称話者の女性は誰かとの待ち合わせに遅れているのだが、「相手が誰なのか」は触れていない。「説明」は基本的に、「お話」には直接関わらないただの前提であるから、作中で言葉を費やして説明しても、その文章自体は「面白さ」には寄与しない。だからこうした短さの中では、説明は可能な限り避けたいものだ。

 そこで、描写をしつつそこから読者が想像できるような形を取ることで、描写による「読む楽しさ」と同時に、想像してもらうことで説明も果たしてしまう、ということは可能だ。本掌編集ではそうした手法を多く採っている。

 この一篇では、待たせているのは「恋人」だが、それを語らずに雰囲気でそれと分かるように描き、同時に、その相手を“あいつ”と呼称することで、もうこの二人の仲は終局に近付いていることを示しているわけなのだが――

 まぁ、分かりにくいよな。

『いつもと違う足音は、あいつの前で履いたことがない五センチのピンヒールだからで、あいつと私の身長差は二センチしかないからだ』が分かりにくい代表格の書き方になってしまっており、反省しろ自分。ここは「五センチのピンヒール」が「いつもと違う足音」にかかるのは理解されやすいだろうが、「あいつと私の身長差は二センチしかない」を「あいつの前で履いたことがない」にかけている(理由を匂わせている)というのは、作者としていささか傲慢なところがある。しかも後者は説明じゃなく匂わせるだけに終わっている(男が背丈を超えられるのを嫌がっているのだという描写)。小洒落た感じの文章としてアリかと思ったんだよう……文字数がね……正確には行数がね……


 もとへ。こうした省略と想起を用いた作法さくほうは、『凍土の英雄』とは真逆のアプローチであると言えるだろう。あちらは、必要なすべてを書き切って読者に提示し、未体験のものを想像の世界で想起・体験できるようにした。こちらでは、必要なものを読者自身の中から引き出してもらわねばならない。読者との共同作業でなければ物語が閉じない作法なのである。その点でもうちょっと、読者に寄った書き方が必要だったのではないかと本編では思うのである。


 それにしても、この作品に限らないが「異性の一人称」はどうしてこうも書きやすいのだろうな。同性だとどうしても「自己投影」が避けられず、異性の場合は逆に想像の投影に抵抗が少ないので、「なじむ」ということだろうか(良し悪しという判断は別として)。




●中華食堂仙福亭の剣呑なる毎日

 二番目に配置しているが書いた順では中程。オリジナル新作。

 10編ほど公開を重ねてきて、ストレートにコミカルな、笑いが出るようなものも欲しいなと、ひねり出した作品。オチですべて持っていくような話ではなく、文体も含めて全体で面白いラストになれれば、と思って書いていた。

 割とうまく書けているつもりだが、『読点を一つも使っていない』ことに違和感を覚える読者はいたことだろう。その代わり独特のリズムは出ていると思うのだが。これは、休みなく滔々と言葉を継いでいく講談のようなイメージを意図してやっている。当然ながら、読点なしでも読みやすさを損なわないように文章を作り上げているつもりではある。




●木曜はピアノの調べ -outside-

 オリジナル新作。

 最初は「outside」のないタイトルだった。書き上げてから、「家の中の演奏者にも物語がある」と感じて次なる「inside」を書き、それに合わせてタイトルを修正した。以前から自分自身の傾向として、「ザッピング」のような、一つの出来事に二つの物語があるような構図が好きなのである。

 音楽を聴くのは好き(演奏は出来ない)なせいか、習作では音楽をモチーフとしたものを書くことが多い、と我ながら感じている。ストックにもまだ幾つかある。

 それは音楽の持つ想起性というか、聴いた者の中から何かを呼び起こす力が作用しているのかもしれない。文章にもそうした魔力を持たせることは出来ないのかと苦闘してみるも、なかなか巧くいかないのである。

 この作品でも、「少年の意思」は省略というか直接触れずに最後まで通している。言葉としては、彼が両親の離婚をどう思っているのか語られていない。「離婚して貰っては困る」が、それが何故なのかは触れず終いである。そこを書くのは、どうしても野暮ったくて嫌なのだ。読者によっては、こういう書き方では理解されないこともあるのだろうが、まぁしょうがないと思っている。老若男女万人に理解されるものよりも、自分が美しいと思うものを書きたいのだ。←こういう気持ちが抜けないことが反省点だろうか




●木曜はピアノの調べ -inside-

 オリジナル新作。「outside」を書き上げてから、室内ではどういう物語があったのか、ということで書いたもの。

 五感で感じることを、文章でどう表現できるか、ということはいつも考えていて、この一篇も「聴覚、音、音楽」という点でチャレンジはしてみている。しかしどうしても、「すでにその音を知っている人」にしか伝わりにくい、という困難を克服することはできずにいるのである。演奏している様子を伝えたい、というだけなら描写を適切に行えば可能そうなのだが、読んだ人の頭の中で、(統一された)音が鳴るか? というところまで達することは難しい(そらそうだ

 反省点としては、「病弱な女子校生」という設定がなんというか、どうにかならんかったか、ヲイ。何年前のセンスだ。こういう掌編だからやったことで、中編長編クラスではもうやれないくらい手垢のついた設定だ。




●ウエザーさんの瓶詰め

 オリジナル新作。ふわっとした雰囲気のファンタジーはどうだと思って出したアイデアだが、まぁそんなにオリジナリティはない。ナニが面白いの? と訊かれたら答えに窮するところが反省点である。

 こうして掌編にしたが、短編くらいには膨らませられそうなので、いつか書いてみるかもしれない。




●運命は三角のコインと踊る

 旧作リライト。SFらしさがあるようなないような。あるとしても70年代っぽい。書いたのが90年代だから、すでにして古かった。センスが古いのだろうか……

 本当の結末をあえて書かないことで物語を作ることが出来る、という形式で閉じている。この形式を非常に上手く使って物語を閉じたのが、宮部みゆきの『火車』である。書かないことによって「物語」になる、ということもあるのだ。

 いや決して、本作が『火車』クラスであるなどとは断じて言わないぞ。

 「ネヴァーモア」というのはE・A・ポーの『大鴉』という詩の有名な言い回し。SF風味で書いてるのにミステリ界の始祖から引用するというミスマッチは反省点だ馬鹿野郎。




●桶ひとつ

 旧作リライト。疑似というか架空日本史。密かにそういうのも面白そうだと考えており、テスト的に題材にしてみた。架空とはいえ官位は実在のものを使っている。ただ、天下一統を狙う立場に対してやや低すぎた。元々のモチーフは石田三成と明智光秀の合成と言える。うむ、やはり彼らの実際の官位を考えればこれは低すぎる。反省。

 また一つの作品として考えると、架空すぎてなんだこれな読者がほとんどだったろうと思われる。その意味ではこれは、より大きな作品でやるべきことであって、掌編サイズでは無理があった。

 この作品でも、結末において桶の中身が何なのかはつまびらかにしていない。それを説明してしまうのはどうにも野暮ったいのだ。おおむね感じ取ってもらえる作りさえ確保出来れば、説明してしまうと興ざめするものは説明しなくても良い、という前作ラストと同じ作法である。




●白猫を見つめるなかれ

 オリジナル新作。微量にスプラッタというか血まみれ要素。ホラーなのだが、掌編サイズで心理的なホラーって難しいな……ということを知っただけでも良しとしよう。とか言っておきながら、もう一篇あるホラー掌編はさんざんな出来なのだが……学んだことは生かしましょう。

 ホラーというか、恐怖の表現には「リフレイン(繰り返し)」が付きものなのだが、この短さでは技法的に使いづらい。恐怖というよりも、「怪談」のような「ぞわッ」と来る怯えの方が、短いものには適しているのではないだろうか。


 言い訳させて貰うと、書けるよホラー! 商業原稿でホラー書いたことあるし! 『異形コレクション』というアンソロジーにね、一度だけだけども短編載ったことあるんだからね! ←必死




●あの子が天使になったから

●もしも翼が生えたなら

 オリジナル新作。二本まとめて、『木曜はピアノの調べ』同様に、表裏一体として書いている。ほのぼの日常ドラマととファンタジーっぽいので分かれてしまったが。

『あの子が』は、ほのぼのしているが「それがどうした?」な感じになってしまったし、『もしも翼が』では、前半と後半での繋がりが弱く、ドラマ性に対して前半がそんなに役立っていない(二人の人間関係の描写・説明に終始した)。その辺りが反省点。




●ファミリー・ヒストリー

 旧作リライト。

 ぶっちゃけた話、更新数稼ぎというか数合わせというか……もともと「なんだろうなコレ」と自分で思っていた掌編をリライトしたのだが……。

 なんだろうな、コレ。




●歩きスマホのような。

 オリジナル新作。『白猫を~』に比べれば題材としては怪談に近付いたが、上手くいったかというとそうでもない。センスではなく技術で書こうとしているので、どうも本質に近づけずにいるのだな。恐怖という、粘着質な感情を描き出すには、文章が乾いた説明に終始していて、迫力に欠けた。




●黄水仙の咲かぬ間に

 オリジナル新作。個人的には、現在公開している掌編十七編の中で一番気に入っているものだ。本当はこういう、救いのない話が大好きなのである。気持ちとしてはミステリとして書いた。

 ちょっと、詰め込みすぎになっている。この短さの中で、話者の老人の意識を逆転させるために、最初の意志の方向性→少女による語り→転換後の意志の方向性と描写が流れていくことになり、それぞれで費やす文章が全体を圧迫している。

 そういう構造にしたのは、前述のようにこれをミステリと意識していたからだ。謎らしい謎ではないが、自殺という「事件」にまつわる、ひとつの知られざる真実が語られる――人物の数も含めて、これは江戸川乱歩『二癈人』に始まる「対決型」短編の形式にしているのだ。

 しかし、せめて原稿用紙五枚くらいの枚数で、もうちょっと余裕をもって書き込むべきだったろう。そうすれば老人の反駁なども含めて、物語に幅が出たろう。風景も使いたかったし。まぁこれは自分に課した制限の故であるから、言っても詮無いことだ。


 なお、少女の包帯などに説明がないことなども、「省略と想起」である。「同類だから」というセリフから、彼女もまた虐待を受けていることを示唆している。




●In The Blues.

 旧作。あえてあまり修正せず、ほぼ当時のままにしてある。そのため文字数がこの作品だけ少ない。

 寒いままの部屋で化粧を落とすのは肌に良くない、などと今は思うのだが。これも音楽テーマといえば音楽テーマ。イメージしているのはSummer Timeあたりだろうか。それもジャニス・ジョプリン歌唱の。

 これもだいぶ「省略と想起」を使ったラストになっている。年を取る、ということを、喜びでも無感情でもない、ネガティブな感情でもって納得せねばならない年代のお話である。

 ある程度以上、年齢のいった読者でないと実感の湧かない感情をエンディングに持ってきているな、ということは自覚している。




●冬の林檎

 旧作リライト。ただ、修正した文言は他のリライトものよりも圧倒的に少なかった。

 繰り返すが、こういう救いのない話が大好きなのである。そして、またしても音楽が微妙に絡んできている。こうして繰り返されるテーマのようなものを見ていると、自分という書き手における「通奏低音」が聞こえてくるようで、面白いような、恐ろしいような。

 結末が鋭くできたと、そこは気に入っている。




●雪でも降れば

 旧作リライト。ある意味、冒頭の『ハイヒール~』と対を為す内容、といえるだろうか。こちらは、すっぽかされた側のお話である。

 雪が口に入る、という体験を読者に想起してもらえるかどうかで、あの一瞬を境にした主人公の心理の転換に説得力が生まれるかどうか決まるだろう。このポイントでは、あえて描写も説明も避けた。主人公と同等の、突然の転換が読書体験として欲しいな、と思ったからである。




●創作者の憂鬱

 オリジナル新作。書き終えて公開状態にしてから、「……なんかこの掌編集の連載が終わるみたいだな」と気付いた。いっそこのまま連載を閉じてしまおうかとも思っている。

 ある種のショートショート的なオチではあるが、叙述トリック的な「今まであなたが読んでいた文章は、作中の作家が手すさびに書いていたものでした」が通じるかどうか。これまた、わりと読者に対して投げっぱなしなオチであると言える。






■トータルな反省として


 繰り返し言及した「省略と想起」がポイントになるだろう。


 短くまとめ上げるために有効な手法ではあるが、成功には「読者との間の共同戦線」が必要だ(それに長編短編の区別はない)。そこでの、作者側からのアプローチが上手くなければ、読者側を共犯関係に引きずりこむことは出来ない。


 どこを、どのように省略し、別のもので代弁させるのか。その見極めが、上手くいっていると感じる時と、それ以外の時とで落差が激しいのが現状だ。長編ではこれの失敗を感じる時は少ない、というか上手くいくまで書き直していくので意識することは少ないが、短編・掌編だと顕著に出るのだな。

 ここの見極めが良くなり、適切な省略と代弁を行うことが出来れば、それは長編を書く際にも役に立つことだろう。その部分をもうちょっと磨いていかないといけないな、とか思うのである。

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