第18話 命一つ分の価値
さすがはティタンズだった。衰えたとはいえ、純血を守るあまり怪物をしか生み出せなくなっていたとはいえ、敵は強力だった。篭城戦が得意のゼウスを相手に、堂々と渡り合えるだけの戦力を集めていた。本来ならばばらばらに生き、孤独に消え去る時を待つだけだったものたちを、ミマスという男は完璧に掌握していた。
ヘカントケイル(百腕)どころか、腕が増えすぎて胴が伸び、肩や脇腹からだけでなく腹や背中や、太腿の付け根からさえ腕が生えている。アラクネねえさまならムカデの様で素敵だと言ったかもしれないが、あたしが見るかぎりでは、これはただの醜悪な怪物に成り下がっているティタン、いや、神の血統に名を連ねるのすら許されざるバケモノだ。
その敵兵のひとりが、手にした投げナイフをあたしにぶん投げてきた。
「危のうございます、女神様、お下がりを!」
あたしの可愛い兵士が、決死の形相であたしの盾になろうとしながら、投げナイフ使いの怪物との間に立ちふさがりつつ、あたしの退路を確保しようとしてくれた。
「危なくなどないわ」
もちろん、避ける自信はあった。投げナイフは至近距離が一番効果的だ、こんなに離れていてはそもそも当たりはしないだろう。あれは脅しだ。
「しかし、女神様」
「いいのよ、お下がり」
あたしは黄金の兜の下から、彼を安心させようと微笑んだ。
すると……。
「ありがとうございます、アテナ様」
それだけで若い兵士は、感激の涙を浮かべながら深々と頭を下げた。
そして、次の瞬間、
「うおおおおーーーっ!」
若者は雄叫びをあげ、あたしの命令を無視して、敵へと突っ込んでいった。
投げナイフの腕はあまりよくはなかったが、ヘカントケイルの使う「投げナイフ」は、並の人間には大剣や大槍の穂先に見劣りしないほどの大きさだ。それを二本ばかり胴と肩にくらって、その衝撃だけで死んでもおかしくはないと言うのに、若い兵士は斃れた自らの血の海の中から、末期の声を張り上げて絶唱した。
「戦の女神アテナ様万歳!」
彼は少しでも、あたしの役に立てたと思って死んだのだろう。その目は見開かれ、顔は苦痛に歪んでいたが、それでもかすかに笑っていた。
そして実際、この死んだ兵士は、あたしの役に立ってくれた。
毛むくじゃらのヘカントケイルのナイフ使いのナイフは、三本の腕から、合わせて九本打ち放たれた。たったひとりで、それだけ敵の武器を浪費させたのだ。この若者はきっと、いい兵士だった。あの巨大な剣の飛んでくるのを、たった二本しかその身では受けなかったのだから。
「よくやったわ。誰ぞ、彼の亡骸を持ち帰れ。塩漬けにして故郷に送りなさい、百人隊長として」
あたしは傍らにいた別の兵士に、死者の回収と、ついでに外れたヘカントケイルのナイフも拾い集めるように命じた。
「この兵士の家族には恩給と、あたしの新しい都市の永住権を与える。あたしを助けて死んだのだから」
そう言いながら、あたしは見開かれたままの死者の目を閉じてやった。
顔にまで飛び散った血をぬぐってやると、まるで子供のようだった。
なんて若いのだろう。なんて綺麗な死に様だろう。
「本当によくやった。惜しい兵士をなくしたわ」
この若者は、あたしに教えようとしたのだ。
敵である異形と化したかつてのヘカントケイルの動作が、どこかおかしいことに彼は気付いていた。あまりに腕が多すぎるが故に、まともに動かせる腕の数が少ないのか、それともうっかりすると絡んでしまうのかは分からないが、投擲用の武器しか持っていない。剣術も弓矢も槍も達者、針付き棍棒や首斬り斧の使い手ぞろいというのが、最初のティタノマキアの頃にはヘカントケイルのお家芸のように言われていたのに。
「どうぞ、アテナおねえさま……いえ、女神様」
すっかり従卒気取りのアルテミスが、集めた投げナイフの一本を、あたしに向けて捧げ持った。
黒っぽい、大きなだけの投げナイフのように見える。
しかし、あたしがそれに手を伸ばした瞬間、どこからかにゅっと出てきた腕が、ナイフを横取りした。
「なるほどね」
「アレス、あんたいつからそこにいたのよ」
いつの間に敵陣から戻っていたのだろう、赤鉄鉱の鎧兜と赤いマントをさらに鮮やかに返り血で染め直したアレスが、横からひょっこり顔を出したのだ。
「あらかた見てたよ、愁嘆場は大好きさ。だけどこいつは勝ち組だね。女神アテナ万歳なんて、いい死に様だ。仇は取ったよ、冥府で会おうね、勇者」
弟は当然のように言い放ってから、あたしの兵士を殺した相手……すなわち、ヘカントケイルのナイフ使いの首を、あたしの馬の足下に投げ捨てた。
まさに、雷光を越えるもの。
あたしたちが味方の兵士一人の死に気を取られている間に、愛馬を操ったアレスは、たった一閃の剣で敵を葬ったのだ。あたしが思わず振り返ると、毛むくじゃらのヘカントケイルはその腕の半分以上を、首のついでに刈り取られていた。
「しょぼい武器だ」
アレスはもはや死んだ兵士のことなどまるで忘れた様子で、そちらを見もせず、敵の武器を何本か手にとっては、そのたびにくすくす笑った。
「まあ、ねえさま……いや、失礼。女神アテナも、我らが兵士も見るがよい。敵将ミマスがどれほどティタンの純血を守ろうと、いや、純血のティタンだからこそ、このような姿となった。近親同士での結婚がティタンの常とはいえ、それがもたらす末路はこれだ」
と、醜く拗じくれ曲がった腕の一本を兵隊の前に投げ捨ててから、弟は敵が使っていたナイフの両端を握った。
「見よ。黄金や鉄やオリハルコンすら鍛え上げられた、ティタノマキアの頃のヘカントケイルなどもはやおらぬ」
言いながら、アレスはその巨大なナイフ、人間ならばよほどの膂力の持ち主でなくは扱えぬほどの刃物を、握りしめた両手と腕に軽く力を込めるだけでへし折って見せた。
「ただの青銅だ。古くさい時代の武器だ。恐るるには足らぬ」
言いながらアレスは、それを軽々と、まるで紙切れかなにかのように宙に投げ上げ、続いて。
「おおお……」
見ていたものたちの口々から感嘆の声が漏れた。
あたしの弟……いや、軍神アレスは、敵の武器を素手で折った揚句、投げたナイフの断片が地に落ちるよりも速く、自らの剣で粉砕して見せたのだ。
そこに残っているのは、ただの金属片、ぼろぼろになった青銅器の無数のかけらだ。
「素晴らしいですわ……アレスおにいさま、いえ、軍神の誠のお力が、かくも凄まじいとは……」
間近にいたアルテミスですら、そんな独り言を口にしたほどだ。
何の力もないただの人間である兵士たちに対して、これは本当に「素晴らしい」戦意高揚のための演技だった。
弟の努力を無駄にするわけにはいかない。
あたしは馬を一歩前に出し、自軍の兵士たちへと近づいて、厳かに告げた。
「あたしの兵士たち、勇猛なる歴戦の勇者たち、よくお聞き。このあたし、戦の女神アテナは決して負けない。我が弟、軍神アレスは決して退かない。たとえアポロンが西から太陽の馬車を走らせたとしても、たとえテティスがオケアノス川を逆流させようとも、あたしたちは負けたりはしない。お前たちが一番それを知っているはずよ」
兵士たちの目の、いや、心の奥にわだかまっていた戦争に対する恐れが、あたしの声とともに消えていくのがはっきりと分かった。
「我がものども、このあたしに続け!」
あたしがやおら剣を抜き放つと、あの老いぼれのゼウスがどんな仕掛けをしてくれたのかは分からないが、眩しいほどの金色の光が刃先から放たれた。
長いこと地中の獄舎で暮らしていた怪物どもが、その光だけで怯むのが、兵士たちにもすぐに伝わっただろう。
畳み掛けるようにアレスが叫ぶ。
「バケモノどもなど恐るるに足らぬ。お前たちには女神アテナがついているのだぞ、俺の姉上が!」
言い放ってから、弟はすかさず命令を下した。
「方陣を組め、盾兵は前へ!」
その一言で、バケモノたちへの恐怖によってほころびかけていた方陣が再び密集し、先頭をかためる盾兵たちの目からも、既に恐怖は消えていた。
そしてアレスは、既に勝利を確信したかのように高らかに、挑発的に笑った。
「アテナの祝福を受けた武器の威力を知れ、愚かな過去の遺物どもが!」
弟が、世間から「冷酷非情な軍神」と呼ばれる理由が分かった気がした。
アレスは堂々と、そして冷淡に命じたのだ。
「火炎弩部隊、第一隊準備!」
盾兵の後ろに、アレスは巨大な弩の一隊を横列に並ばせていた。むろん、ヘパイストス特製の品だ。非力で小さな人間が強力なティタンとも渡り合えるように、細部にまでこだわって作り上げた芸術品のような武器、牛ほどの大きさの弩がずらりと三十台、盾兵の間からその鏃を覗かせていた。
輝くその虹色は、オリハルコンとしか思えない。そんな貴重な金属を、この戦争馬鹿の男どもは嬉々として鏃の形に研いだのだろう。ご丁寧に、鏃の根元に巻いた布には、たっぷりの獣脂が染み込ませてある。小さな火でも近づければ一瞬で燃えあがり、その炎のゆらめきがオリハルコンの虹色をさらに美しく、恐ろしく引き立てる。
「第一隊、射て!」
造形の神となったヘパイストスが作り上げた弩は、下についている引き金を引くだけで、一度に三本の矢を打ち出すことができる。
百本近い虹の光と炎の嵐が、敵の軍勢へと一気に叩き込まれた。
その矢に当たったものは、ティタンの末裔であろうが怪物であろうが、このオリュンポスの虹色の霞に覆われた世界においては当たり前に死ぬ。冥府の王ハデスと神々の王ゼウスが直々に、鏃の元になったオリハルコンの鉱石の塊に祝福を与えてくれたのだ。
次々と血を流し、悲鳴をあげ、苦痛に泣き叫び、命乞いをする怪物たちの姿に、あたしたちの兵隊は一気に士気が上がったらしい。
「第二隊、連射準備!」
アレスの命令一下、既に矢を射ち終えた弩は後方へと下がり、新たな弩部隊が、今度は四十基も前へ出て、照準を天へと向けた。
「目標上空、射て!」
弩兵の中には、ただ命じられるままに、目を閉じて照準を天に向けるものもいた。
しかし、それでもじゅうぶんだった。
大地の女神が産み落とした最もおぞましいものの一つでありながら、正統なティタンでもあるテュポン、空飛ぶ巨大な龍。その子孫たちに当たるのであろう、頭部ばかりが何かを丸呑みにするために巨大化したり、左右の翼の厚みや大きさが不均一だったり、目の代わりに眼窩から触手の生えているもの、輝く鱗に包まれ立派な角が揃っているにも関わらず四肢のないもの、もっと醜く不格好な姿のものもいたかもしれないが、あたしにはそこまで詳しく見ている暇すらなかった。
ドスッ、ドスッ、ドスッ……グチャッ。
ああ、これは……恐ろしく重いものが上空から落下して、堅い地面に叩き付けられる音だ。
「落ちた……」
「落ちた、落ちたぞおっ、怪物が落ちた!」
兵士たちの歓喜の叫びが聞こえてくる。
そう、彼らはたった一本の指に力を込めるだけで、あの偉大なるゼウスや英雄ヘラクレスが苦心した怪物どもをぶち殺してやったのだ。さぞや気分がいいだろう。
「アレス、首を」
「承知」
弟は口元だけで笑うと、珍しく軍隊らしい言い方で答えてから、一番見栄えのしそうな、頭部だけは立派な龍に見える、ただし前脚も後脚もないバケモノの頭部をやすやすと切り落としてきて、左手にぶら下げて戻った。
彼はそれを、あたしたちの兵隊の中に無造作に投げ入れた。
「見るがいい、お前たち。この世に生あるものでアテナの軍に殺せぬものなどない、それが怪物であろうとも!」
可愛いあたしたちの兵隊、あたしたちのために戦ってくれる兵士たちの間から、一気に歓声が噴き出した。
「そうよ。お前たちはあたしの兵士。あたしのために命を賭けて戦ってくれる。すなわち、お前たちはあたしそのものよ」
そのとき、なぜだろう。
あたしはまるで、自分の口が、喉が、勝手に声を出しているような気がしていた。
「だからこそ! あたしに勝てるものなどこの世にいないように、お前たちも無敵よ!」
そんなことを言いたかったのではないのに、口から勝手に、言葉が溢れ出ていた。
「おおおおおーーーーっ!」
「アテナ様万歳! アテナ様万歳!」
兵士たちが、武器を大地に叩き付け、あるいは打ち鳴らしながら、あたしのために叫んでいる。
アレスの投げ込んだバケモノの首を、誰かがかがり火の中に投げ込んだ。
強烈な異臭……どんな獣や魚の臭いとも違う、肉ではなく、硫黄かなにかを焼いているような、吐き気を催すようなにおいがあたり一面に立ちこめた。
「ちょっと臭うね」
アレスはいつもの、あの悪戯っぽい少年のような、愛らしい笑顔で言うと、そのかがり火の中に何かの木の実のようなものを投げ込んだ。
すると、頭痛を伴うような臭気は消え去り、燃え上がるような力が首の後ろの、ちょうど背骨のあたりからわき上がってくるような気がした。
兵士たちも同じだったようで、彼らも皆、口々にふるさとの歌やあたしの賛歌などを口走りながら、あかあかと燃える炎をうっとり見ている。
「何を入れたの」
「ただのオリーブの種だよ。いつも、かあさまがそうしてくれたでしょ。むしゃくしゃする時は、熟したオリーブの種を焼くのよ、すっきりするからって」
それが、こんなにも遠く離れてしまった日常なのだと気付いて、あたしは思わず涙がにじみそうになったが。
「ここにいる全員、ぼくらと同じだ。あたりまえの毎日に、ひとりでも多く帰そう」
アレスの言うとおりだった。
徴兵され、訓練され、命令に従うだけ。長いこと家族とも会えず……二度と会える保証はない。
この兵士たちとあたしたちと、何が違うっていうんだろう。
「アレス、悪いけど、もう一働きしてもらうわよ」
「もちろん。これだけじゃあ、あんまりつまんないじゃない。もっと派手にやろうよ、ねえさま」
弟は心から楽しそうに笑った。
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