* * * * * *

 九日間の間、戦車の中に隠れ母親が少しずつ腐り落ちていくのを眺めていた。肉は腐り、やがて蕩けて流れ出す。それは九相図だ。

 死者を愛するネクロフィリア……。

 九日間の間、死体の肉だけで飢えをしのぎ、死体の血だけで喉を潤した。

 回転式拳銃に一発だけ弾を込めると五回続けて引金を絞った。

 1/6、1/5、1/4、1/3、1/2。

 そうしたら弾倉をリセットして、五回引金を絞る事を、繰り返す。それを何度も何度も繰り返して僕の生き残る確率が六〇億ぶんの一となった頃に、ようやく分かってきた。

 僕はなんて幸運ラッキーなんだ!

 という事に。

 まず一つの卵を巡って無数の精子の競争がある。

 それから人間同士の競争。蹴落とし合い。椅子取りゲーム。

 大きな病気もしないし、食べるものにも溢れている。

 僕らは互いを喰らい合って生きている。

 僕らは互いを殺し合って生きている。

 それがこの資本主義社会の仕組み。

 僕たちは僕たちを非人間化しシステムの一部となる事。

 だけど、僕は、こうして生きている!

 家族という幻想も役割だったんだ。

 お母さんという役割、お姉ちゃんという役割。

 お母さんはお姉ちゃんという役割を選択したんだね。

 お祖母ちゃんはお母さんという役割を選択したんだね。

 僕は何にも知らなかった。

 だけど求められるものが役割の相似形アナログであるならば。

 お父さんが二人いても、お母さんが二人いても何にも変じゃない。

 僕らは社会という幻想における役割を演じる道化者なのだから。

 お姉ちゃんはアンリを守るために、きっとアリスのお姉ちゃんを演じていたんだね。

 お母さんは子供に固執するあまり、お姉ちゃんの子供アンリを自分の子供アリスだと思い込み自己暗示し支配しようとしたんだね。

 お母さんがアンリのおちんちんを切り取って、お姉ちゃんはアリスを守ろうとして。みんなそれぞれの幻想を守るために戦い役割を演じてきたんだ。

 お姉ちゃんは家族が欲しかったんだね。

 お母さんも家族が欲しかったんだね。

 きっとお父さんもそうだった。

 僕も家族が欲しかった。

 愛されてみたかった。

 だけど愛されていたんだ。

 僕たちは守られてきたんだ。

 各々が役割を演じる事によって、幻想が保たれる。

 間違っていたのはだったんだ!

 ありがとう。お姉ちゃん、お母さん、日向彩芽。

 そう言って僕は腐った肉の唇にキスをした。


* * * * * *


 戦車の脱出ハッチから生まれ落ちて、僕は、冷たいと言った。 

 雪が積もっていた。

 霜が降りていた。

 冷たく澄んだ空気に一面の薄荷草が狂い咲いたみたいだ。

 良い香りがした。

 朝のナパームは最高だ。

 White Phosphorus 白リン弾ウィリー・ピートがニンニクの匂いを撒き散らしている。

 燃える事と焼き尽くす事。熱と光のエネルギー。

 化石いのちを燃やして月に行く。燃素フロギストン光素エーテル、“ZYPRESSEN いよいよ黒く、雲の火ばなは降りそそぐ。”

 例えば僕は深海のクラムボンを想像する。

 太陽光の届かない、海底の熱水噴出孔ブラックスモーカーに群がって生きる者たち。

 僕が彼らの太陽アポロになろう。

 暁倖ぎょうこう。それは日向ひむかいリュカLukasと同じ。

 ラテン語のLuxひかり暁倖ラッキーリュカルカの語根となっている。

 つまりは悪魔ルシフェル暁の明星フォスフォロスだって宵の明星ヴェスパーだった。

 火星にも生命アニマがあるかもしれないし、金星母の顔娼婦の顔どちらでも同じことだった。

 重要なのは、光と幸福とが同じ根を持っていること。

 きっと誰かが、その役割を演じなくてはならないのだから。

 翅が伸びるのが分かる。

 破壊された蛹の殻が佇んでいる。

 空は変わらず灰色だったけれど。

 ASA NISI MASA ASA NISI MASA

 僕は虹色の蝶だ。

 その日はアポロ十七号が月に向かって飛び立った日だった。

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