三原順「はみだしっ子」

確か1970年代に連載されていた少女漫画です。この作品の最後の方で展開されている、弱者と社会正義に関する論議はたいへん興味深かったです。“弱者が弱者であることにあぐらをかいて、ふんぞりかえって「我々を救済せよ」と要求したとして、それでも救済の手を差しのべられるほど、僕達はできた存在なのか。一方、そうではなくて、弱者が弱者らしく、しおらしく苦界に沈んでいる限りにおいてのみ差しのべることのできる救済なのだとしたら、そんなものを正義などという美名で呼ぶ価値はあるだろうか”といったような議論が、作品中で為されていた記憶があります。


「あれもだめだ、これもだめだってぐちぐち文句垂れるんだったら、何がだめかじゃなくて、何が正しいかを自分で示して実現すりゃいいんだよ」「それやった人、一人知ってる・・・アドルフ・ヒトラーっていう、ちょび髭のおっさん」といった意味合いのやりとりもありました。


それらは物語全体の中ではむしろ枝葉末節の部分であり、中心的な主題は愛されない/愛せない子供達の痛みなのですが、枝葉の部分でもいろいろなものの見方を教えてくれる、おもしろい物語でした。


随分前の話ですが、NHKマンガ夜話で、一部の出演者に本作が酷評されて話題になったことがありました。最初それを聞いた時はちょっと意外に思いましたが、考えてみると、酷評の対象になるような要素はあると思います。具体的にどう論評されたか知らないのですが、私が思いあたる欠点としては、グレアム(?だったかな?。主要な登場人物の一人です)が終盤しゃべりすぎていて、物語がやや破綻ぎみだったことがあります。破綻といってもストーリー的な辻褄が壊れたということではなく、エンターテイメント・物語という体裁をやや逸脱しすぎた感があったのです。ただ、それについては、サリンジャーがナイン・ストーリーズでやった、第9話での大暴走をちょっと思い出したりもします。珠玉の8掌編の後で唐突に展開された天才少年の長広舌には、「おいおいおい、いったいどうなっちゃってんだよ」とひどく面食らったものですが、読み終えて思ったのは、書いた人は、もう、珠玉の掌編なんていう枠内の、ルールにのっとった行儀良いゲームでは決して救われないような境涯に心が落ちてしまっていたのかなぁ、ということでした。本作終盤の異形な展開も、どこか、そういうことを思わせるものがありました。


21世紀の今、あえてこの作品を新たに読む人はもういないかもしれませんが、読んでみても損はしないだろうという気はします。

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