異形なる刺客
生温い風が、嫌な湿気を含んで肌に纏わりつく夜だった。
日比谷のTホテルのロビーは、待ち合わせをする紳士淑女で賑わっていた。
式場として使われる
鏑木は、蘭子から婚約祝いに贈られた
時刻は午後七時を回っていた。まだ夕方だろうと思っていたが、思ったより時間が経っている。
ボーイが立つ回転ドアの向こうを見やれば、既に街燈の白い灯が
鏑木は皮張りの黒のソファに腰かけ、野茨の意匠を施した純金の煙草入れを取り出した。これもまた蘭子からの贈り物だった。ずっしりと重たいそれを手の上で得意気に転がし、中から葉巻を取り出した。
蘭子がすっと左隣りに着席し、耳もとに顔を寄せて囁いた。
「惟光様は、これからどうされますの」
さらに蘭子は右手を鏑木の左手に重ね、その爪先を
どこか甘ったるく感じる婚約者の戯れに、鏑木は苦笑いを浮かべた。彼女の方から自分に触れてくるなんて珍しい。贅を尽くした披露宴を思い、気が昂ったのだろうか。
「蘭子さんはどうされるんです」
逆に問い返すと、蘭子はねだるような声で言った。
「妾はこれから歌舞伎座へ行って、お芝居を観ようと思っていますの。車を飛ばせば夜の公演に間に合いますわ。その後は伯父様のお宅へ。惟光様もいかが」
それは話を聞くだけなら魅力的な誘いだったが、鏑木はふっと視線を逸らした。
蘭子の伯父である藤堂忠次子爵が、自分を快く思ってないことは知っている。
やっと本日のお務めから解放されそうなのに、夜までも伯爵夫人と子爵、その家族と自分より身分が上の者たちに囲まれて過ごすのは遠慮したかった。窮屈で仕方ない。
「いや……私は遠慮しておこう。少し疲れていてね。先に戻るとします」
「あら、本日は使用人たちに休みを与えています。小石川へ行ってもお構いできませんよ。妾どもも戻りませんし」
「では、私もこの周辺で適当に食事して自宅へ帰ります」
「そうですか。では、ごきげんよう」
蘭子は薄く微笑むと、それ以上は無理を言わず、あっさりと立ち上がった。少し離れたところに控えていたキクを呼ぶと、ハイヒールの音を小気味よく鳴らしながら悠然と去っていった。
一人になった鏑木は安堵の息を洩らし、葉巻に火をつけようと卓上を見た。
ところが、いつもは灰皿の傍に置いてあるマッチが見当たらない。
仕方なくボーイを呼ぼうと手を上げかけた時、目の前にすっとライターの火が差し出された。
いつの間にか背後に、ハンチング帽を被った青年が立っていた。渡利だった。その眼はギラギラと挑戦的に輝き、口元に不敵な笑みを浮かべていた。
渡利は咲からの電話で、鏑木がTホテルにいると知り、会社を飛び出してきた。
今日は護衛を連れていないことも確認済みで、蘭子たちが去り鏑木が一人になるのを待っていた。今日こそは絶対に逃がさないと固く心に決めていた。
「どうぞ」
「や、どうも」
突然現れた青年を不審に思いつつ、鏑木は一応礼を言って火を貰った。
「失礼ですが、鏑木惟光男爵でいらっしゃいますね」
「ああ。私だが、何か」
「少々お話を伺いたいのですが」
「その前に、君は誰かね」
周囲を注意深く見渡しながら鏑木は尋ねた。
なんとなくこの男の職業は察しがつくが、あえて声を尖らせて問う。
「これは失礼。俺はこういう者です」
と、渡利は懐から名刺を取り出し、両手で差し出して見せた。
鏑木は一瞥しただけで名刺を受けとろうとはしなかった。渡利はフンと鼻を鳴らして、名刺を引っ込めた。
「実は何度もご自宅にお電話したのですが、丸きり無視されるので業を煮やしましたね。とうとう直撃取材を敢行してしまいました。ご無礼のほど、平にお許しを」
「ああ、また記者か……。面倒なことだ」
煙をゆるゆると吐き出しながら、鏑木はいまいましげに呟いた。
「で、何が聞きたいんだね君は。綾小路伯爵夫人との馴れ初めかい。それとも求婚の台詞かい。披露宴の詳細ならホテルの支配人でも当たった方がいいだろう」
それに対し、渡利は単刀直入に切り出した。
「いいえ、違います。過去を蒸し返すようで恐縮ですが……俺が聞きたいのは男爵の過去の三度の結婚に関することでして」
「私の結婚?」
「……ええ。実は他殺の線が濃厚な奥方たちの、本当の死因についてです。それら全てに、男爵が深く絡んでいるんじゃないかと思ってましてね」
「……ほう。成程、まさに無礼千万じゃないか」
鏑木は渡利を見上げ、威嚇するように睨みつけた。彼の瞳に浮かんだあからさまな警戒の色に、渡利の心は逆に躍った。
「……まあいい。ここでは人の目がある。一旦外に出ようじゃないか」
鏑木は、灰皿に葉巻を放り投げると潔く立ち上がった。
渡利は少し迷ったが、折角の機会を逃すわけにはいかない。
「では、通りを二つばかり越えた喫茶店へ行きましょう。行きつけの店がありましてね、そこでなら静かに話せます」
「ああ、構わんよ。案内を頼む」
「裏口から出ましょう」
渡利はあまりに上手くことが運ぶのに少し不安を覚えつつ、ホテルの正面玄関とは反対の出口を指差した。
先導のため背を向けて歩き出したその時、鏑木は呪文を唱えるが如く、虚空に向かって小さく呟いた。聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。
「仁蔵、以蔵。来い」
「……」
渡利にも鏑木の独り言は聞こえたが、どういう意味なのかはわからなかった。
鏑木は渡利の後を、羊のようにおとなしくついてくる。赤絨毯の廊下を真っ直ぐ行き、西洋レストランの脇を通り抜け、二人は
渡利がホテルから出た瞬間だった。
ひゅんと風を切る音がして、上空から二つの影が降りてきた。
それは軽業師のように宙で一回転し、コートをはためかせ、難なく着地した。
「えっ……」
渡利は、暗闇に目を凝らした。
当初大きな鳥にも見えたその影は、立ち上がってみれば人の形をしていた。
目深に帽子を被り、コートの襟を立て、大きなサングラスをかけた男二人は、鏑木の護衛である仁蔵、以蔵だった。男たちはもごもごと口を動かしながら、足並みを揃えて鏑木と渡利に向かってくる。
渡利は彼らを間近で見るのは初めてだった。
よくよく見れば、二人共怪我でもしたのか顔にぐるぐると包帯を巻いている。
「こいつらは……」
渡利の声は微かに上擦った。背後から鏑木のせせら笑う声がした。
「私の護衛だよ。君も何度か見かけているのではないのかね」
渡利は、信じられないといった風にぶんぶんと頭を振った。
あり得なかった。あまりに早すぎる。ロビーからここまでは、歩いてものの三十秒もかからなかったはずだ。こんな短時間で彼らを呼べるはずはない。まるで奇想天外な手品を見せられているようだ。
「いや、だって……そんな。嘘だろ。なんでだよ……」
「君には理解できないだろうが、彼らは優秀でね。はぐれ者だが、充分役に立つ。どんな小さな声でも、私が
「そんな……そんな馬鹿な。こいつらは……」
動揺する渡利の脳裏に、電撃のようにある記憶が蘇った。
死んだ山田が探っていた「時游民」だった。特殊な能力を持つ闇の末裔、帝国の中枢にも深く食い込んでいるという奇々怪々の民。もし鏑木が彼らと繋がっていて、使役しているのだとしたら……。
「まさか、時游民」
渡利は
「……何故その名を知っている。まあ、元より生かしておくつもりはないが。仁蔵、以蔵。殺れ。
「ひゃい」
鏑木の冷徹な命令に、仁蔵と以蔵は甲高い奇声を上げた。
次の瞬間、仁蔵の骨ばった手がにゅうっと伸びてきて、渡利の左腕を掴んだ。仁蔵が指に軽く力を入れただけで激痛が走った。
「つーことは、俺の推理は当たってたってことですかねぇ!」
あまりの怪力と痛みに仰天しながら、渡利は叫んだ。
「……離せ、離せよ!」
無我夢中で右腕をぶんぶん振り回し、やたらめったらに仁蔵を叩いた。繰り出した右手が仁蔵のサングラスに当たって吹き飛び、彼の顔を覆っていた包帯がはらりと剥がれた。
その下から出てきたものは……やはり奇々怪々の極地だった。
目の代わりなのか、平行して穿たれた二つの黒い点が渡利を射抜く。
眉や
通常ならば口がある部分に、ナイフで無理矢理裂いたようなひび割れた割れ目が走っていた。乾いてめくれ上がった赤黒い即席の唇の裏側からは、シュウシュウと生肉が腐ったような臭い息が洩れている。いや、本当に腐っているのかもしれない。
「うわああああ、のっぺらぼう!」
包帯で隠されていた異形の顔に、渡利は絶叫した。
あまりの恐怖に叫びながらも、咄嗟に仁蔵に体当たりした。
なんとしてもここから逃げたかった。逃げなくてはいけなかった。こんな化け物に捕まったら、どんな目に遭わされるかわからない。
叫びながらガンガンと頭突きをし、後ろから羽交い絞めにしようとする以蔵をするりと躱した。猫のような俊敏な動きが自分でも不思議だった。
渡利は束縛から一気に飛び出し,た。
持てる限りの力を振り絞って走り出した。
どれほどの恐怖に苛まれようとも、絶対に足を止めてはならなかった。止めたらおしまいだった。
「追え。逃がすな」
背後から、鏑木の鋭い声が聞こえる。
それを聞いて渡利はますます足を速めた。
大通りへ飛び出し、銀座へと向かう雑沓に紛れこんだ。
街のネオンが、赤々と揺れて目に眩しい。交通整理の警官の姿は見えない。
十字路は人が溢れ、通りの店に足を止める者、歓楽街へ向かう者、仕事を終えて家路をたどる者、駅に向かう者と、縦横無尽に入り乱れている。
「……くそっ、畜生。ちくしょおおおお……」
人ごみをかいくぐりながら、渡利はしきりに呻いた。
彼は今こそ自分の浅慮を後悔した。自分は鏑木を見くびっていた。
元より決して近づいてはならない相手だったのだ。そうだ、自分の憶測が確かならば、鏑木は金のために三人の妻を惨殺してきた男だ。何人もの罪なき女を殺めながら、慈悲深い人格者を演じて世間を欺いてきた殺人鬼だ。余計な詮索をした記者の一人や二人、闇に葬るなんて造作もない。ましてや自分だけが、その例に洩れるなんてことは万が一にもない。
山田は……山田もそうだったのだろうか。
深入りしすぎて鏑木とその手下に殺されたのだろうか。彼は鏑木には近づかなかったはずだが……。
渡利は何度も後ろを振り返った。
案の定、サングラスをかけ直した仁蔵、以蔵が通行人をかき分けながら追いかけてきていた。彼らが
あんな化け物じみた兄弟、おそらくは時游民から、ただの人間が逃げきれるとは思えなかった。自分の素性は調べればすぐにわかるだろうし、会社や自宅に先回りされたらと思うと、絶望のあまりすうっと奈落に落ちていくような心地がした。
また悲鳴を上げそうになりながらも寸でで飲み込み、とにかくこの場は
路地裏は暗かった。電燈のない薄暗い道脇には、提灯を下げた怪しげな物売りの屋台が立ち並び、酔っ払いや積み上げられたゴミに集たかる物乞いがざわざわと蠢いていた。
闇雲だからも北へ進むほどに、道はどんどんと細く狭くなっていった。通常なら決して足を踏み入れない浮浪者がたむろう貧民窟を渡利は身を屈め、人々の影を縫うようにして素早く通り抜けた。焦るあまり途中で足が
五分以上は走ったのだろうか。
心臓はバクバクと脈打っているが、先程味わった恐怖はその鮮度を薄め、思考が幾分冷えてきた。
方向感覚が正しければ、ここを突っ切れば輝ける享楽の街、銀座に出るはずだった。
そこで円タクを掴まえよう、行先はわからないがとにかく有り金をつぎこみ、でできるだけ遠くに逃げよう、渡利はそう決めた。
前方に、細く白々とした光が見えてきた。
逃げ惑う者からすれば、生存をかけた一縷の希望の光に思えた。
あと少しで路地を抜け、再び大きな通りに出ようという、その時だった。
突然ガンッと音がして、渡利の後頭部に鈍い痛みが走った。死へと
「うわっ……」
渡利は衝撃によろめき、家屋の壁にひしと縋りついた。
視界がぐらぐらと揺れ、チカチカと火花が散った。ぼたぼたと生温かいものが頬を伝い、押さえた手の平を温かく濡らしていった。
次に酷い眩暈が襲ってきた。
鼻をつんざく血の匂い。じんじんと焼けつくような痛みに意識が遠のいていく。
ああ、と渡利は観念した。全力で逃げたものの、とうとうここで仁蔵、以蔵に追いつかれたに違いなかった。
「あ、ごめん。外しちゃった」
不思議な声がした。
「ハハ、
空耳ではなかった。
背後からぼやくような、しかし僅かに喜悦を含んだ声が聞こえた。
肉が大きく裂けて、口が口の形をしていなかった奇怪な兄弟の声にしては、発音が明瞭だった。その幼い声を、渡利はどこかで聞いた覚えがあった。
渡利は最後の力を振り絞り、自分を殺めようとする者へと振り返った。
そこに立っていたのは――。
「お、ま、えは……」
次の瞬間、その者はにやっと笑い、スパナのような長細い鈍器を振り上げた。
再びガンッと音がし、今度は
渡利はその場にどうっと倒れ伏した。バシャンと汚水の飛沫が散り、彼は地面に呆気なく転がった。もはや何も見えなかった。溢れだす鮮血に、目を開けていることができなかった。
「あ……あ……。ち、ひろ……」
渡利が最後に呟いたのは、鏑木や彼が使役する暗殺者への怨嗟ではなく、かつて淡い憧憬を抱いた幼馴染の名だった。彼の意識は、あっという間に混濁の闇に呑まれていった。
空は厚い雲に覆われて星一つ見えず、やがて地を
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