おしるこごっこ

 ガチャン


 温かい飲み物を買うときは、いつも想像以上に熱くて驚く。


「おしるこか、まじか。渋いね」


 友人の、明らかな苦笑混じりの言葉を無視して缶を振り、開けて、飲む。掌と腹にそれぞれ熱さが流れこみ、口は粒の感触と甘みで埋め尽くされる。


おいしいけど、違う。


 この時期になると、ついついおしるこを買ってしまう。一つ、思い出がある。




 寒い日だったと思う。小学生なんて本当に昔だから、この前講義でやった温暖化が進んだ影響なんてのもあるかもしれない。家の隣に公園があった。住宅街の中にある小さな公園で、子どもの頃の自分にはとても大きかった一本の木が真ん中にあって、笹でもなんでもないその木に七夕の短冊を吊るしたりしたものだった。あとはブランコとすべり台、何本かの鉄棒と小さな砂場があるだけで、小学3年生になった自分は退屈さを感じ始めていた。とはいえ大きな公園までは遠かったので、家の隣にあるという便利さからここに来ることもしばしばあった。今日は一人だったので、昨日大きい公園で友達に負けた靴飛ばしの練習をすることにした。ブランコの椅子に立つ。立ちこぎをするようになったのは今年からだ。下を向かなければだいぶ怖くなくなっていた。左足を振り上げると、あっという間に黒の運動靴は公園の端まで届く。一度息を吐いてから、勇気を出して右足を地面につける。片足ケンケンで進むことを途中で諦め、芝生なんて上等なものはもちろんない公園の砂に足をつけ、その感触にも違和感がなくなってきた時、


「おしるこはいらないかい」


 声が聞こえた。そのしゃがれた声の方を向く。砂場の脇にござを敷いて、鍋やお椀と共に年老いた男性が座っていた。ござは砂がついて汚れていた。しかし、男性は髪の毛もきれいに整えられ、深緑を基調としたセーターも毛玉がほとんどなかったと覚えている。さっきまでいなかったのにと思ったが、まずは靴を取りに行き、左足の裏の砂を少し払ってから履く。それから、今考えると危険性を感じるべき状況ではあったが、その時は不思議と恐怖は感じず、彼の元へと寄っていった。おしるこが欲しかったわけなどないが、なんとなく気になったというところだろう。子供の頃は、意味もなく家の塀を歩こうとしたり、近くにある草に囲まれた空き家の庭を探検してみたりと、良くも悪くも好奇心旺盛で、ちょっとした危険なら何度か飛び込んでいた。


「じゃあ、おしるこください」


 そう言うと、老人は


「はい、待っててね」


と穏やかな口調で答え、おたまを右手にとる。空いた左手で鍋のふたを腕をすぼめながら開く。その姿を言葉もなく見ている自分の目が鍋の中身を捉える。そこには何もなかった。


「は」


驚きと不信が混じっていたであろうその一言を気にすることもなく、老人はおたまを鍋へと入れ、まるでそこに液体があるかのようにゆっくりと混ぜ始めた。


「ちょ、ちょっと、何、ままごとなの」


 その言葉も無視して、老人はふたを置いた左手にお椀を持つと、おたまを何も入っていない鍋からゆっくり取り出し、それを注ぐようなふりをした。ていねいにも注ぐと同時に重さで少し左手が沈むようにしていた。


「さあ、どうぞ」


 まるで自分が本当におしるこをもらって喜んでくれるだろうと信じているとしか思えないような柔らかな笑顔を見せ、空のお椀を渡そうとしてくる老人の左手を両手で制しながら、


「いや、ふざけんなって」


そんな怒りの言葉にも、老人は表情を曇らせることなく言葉を続ける。


「いいから、飲んでごらんなさい」

「いや、飲めないし。何もないし」


「何もないからいいんだよ」


 その言葉は全く意味がわからなかったが、その時の老人の笑顔は覚えている。先ほどまでの柔らかさに加えて、自信がにじみ出ているような、そんな表情だった。老人は自分に渡そうとしていたお椀を自らの口へ含み、一口飲み干すような素振りを見せる。


「うん。懐かしいねぇ」


 そう言うと、老人は一瞬だけ空を見て、またこちらに目線を戻し笑顔を見せた。その少し前に同級生がお菓子から珍しいシールが出てきた時に見せた笑顔と同じぐらいの笑顔じゃないかと思ったことを覚えている。自分にはその笑顔が偽物とは思えなくて、「演技とかやめろよ」みたいな軽口を突くことはできなかった。と同時に、老人の言葉にひっかかった。また冷たい風が頬に当たる。


「懐かしいって、どういうことさ」


 その言葉に、老人は二口目をつけていたお椀を置き、自分が興味を持ったことに満足しているように頷いた。


「今、私は今までの人生で一番美味しいおしるこを飲んだんだ。私の奥さんが作ってくれるおしるこさ」

「何もないじゃん」

「さっきも言ったろう、何もないからなんだよ」


 ちらっとお椀に目をやる。当然、そこには何もない。しかし、きれいに手入れされた漆器であったのであろうそのお椀の底の黒が、自分が当時使っていたマッキーペンや、近所の年上のお兄さんが来ていた中学の制服の黒と比べても深さと厚みを感じるもので、その黒色から目を離すのが勿体ない感覚にとらわれた。その様子に気づいていたのかは知らないが、老人がお椀を手に取り、その隣にあった布巾で軽く拭くと、自分へと向けてきた。


「さあ、飲んでごらん。自分の一番好きだったおしるこを思い浮かべてみるんだ」

「そんなことして何になるのさ」

「やってみれば、意外とわかるものだよ」


 その一言を聞いただけで、自分にも思い出される光景があった。9歳ぐらいの元日だった。真夜中だった。特別ダイヤの地下鉄に乗って初詣に連れてもらった縁日で、両親が甘酒を飲んでいたはずだ。甘酒には少しアルコールがあるからということで、自分は隣の屋台でおしるこを買ってもらった。そんなことを思い出していると、いつの間にかお椀を手に持っていた。近くで見ると、増して目が離せなかった。そのときの老人の表情を覚えていないから、よほどその椀を見ていたのであろう。見ているうちに、先ほどの老人の言葉が思い起こされた。やってみれば、意外とわかるもの。気がつくと、椀に口をつけていた。当たり前なのだが、何も味がしない。その代わりに、先程から頭に浮かんでいた縁日の光景が、より強く思い出されてきた。

 とにかくあの時は眠かった。眠気と、普段なら眠らなければならない時間に外出していることに高揚する気持ちが合わさり、なんともいえないふわふわした気持ちでお正月の歌が流れている縁日で手を引かれていた。真っ黒な空を過剰なまでの縁日のライトが四方八方に照らし、暗いのにまぶしいというあの強烈な感覚を覚えている。人混みが作る熱気の網を縫うように流れこむ冷気が自分を包み、体を震えさせていた。そんな時、「熱くないかな」と言いながら紙コップの中に入ったおしるこを父親が渡してきて、それで一気に手が温まった。熱すぎないように自然と紙コップの先を持つようにしながら、二度三度息を吹きかけ湯気を飛ばし、口にする。一気に熱さが喉から腹へと流れ、甘さが口中を覆った。そのおしるこはとにかく甘すぎるほどに甘くて、今考えれば上等なものではなかったのかもしれないけれど、冬の寒さと眠気が一気に吹き飛び、その瞬間から周囲のライトの濃淡や音が鮮明になるような感覚が今でも残っている。


「な、味がするものだろう」


 気がつくと、お椀に口をつけていた。自分は、今、自分の口の中にあの頃の甘みに近いような甘みが生まれていることを認めるのが嫌で口を離し、老人に返した。老人は笑顔を浮かべながらお椀を拭く。当時はわかっていなかったが、きっと自分の様子から全てを察していたのだろう。





「おい、どうしたんだよ」


 その言葉に、一気に現実へ戻され、スチール缶の味がほのかに混ざった、あの時の味とも、あの時の記憶とも違う甘みに口と脳が包まれる。


「おしるこ飲みながら固まっちゃってさ、やっぱコーヒーとかの方がよかったんじゃないの」


 その言葉には特に答えず、ああ、ごめん、と一言友人に告げておしるこを飲みながら道を進む。  

 あれから、どうしたんだっけ。多分、恥ずかしくなって、その場を去ったはずだ。それからその公園に行くことは何度もあったけれども、老人に会うことは二度となかったはずだ。そして、縁日であのおしるこを改めて飲むこともなかった。それでも、何度か家の食器棚にあるお椀を取り出して口にしてみたりした。あの時のように口の中に甘みが漂い、縁日の光と音が思い出されたが、それで十分だと思えた。そこにある味や感覚は本物ではない、はっきり言ってしまえば偽物だけれども、それでも、その偽物の感覚を得るたびに、何か満たされたことを覚えている。偽物だとしても、救われるということはあるのかもしれない。そういえばここ数年は空のお椀に口をつけてはいないが、それと入れ替わるように缶のおしるこを買って、それを飲むたびに違うな、と思うことをするようになってきた。


「なあ、見てみろよ」


 おしるこの缶で視界が遮られるのを避けるように、友人のスマホの画面が左目の前に来た。歩みを止めて、目のピントをディスプレイに合わせると、そこには制服を着たアニメの美少女が描かれていた。


「なんかサークルの後輩がこれが好きで、家に色々あるんだってさ。俺本当こういうのわかんないっていうか、気持ち悪いんだよね。こんなのより、本物の女の子と仲良くなれよって言ってあげたいっていうかさ、別にそれ以外はいいやつだし、誰か紹介してやろっかって思うんだよね。サークルにはあんまいい子いないし、なんかお前、誰か知らないか。こういうのに似てる子の方がいいのかな」


友人の言葉を気にせず、もう一口おしるこを飲む。やっぱり違う。




 右のポケットに振動が届く。スマホを取り出すと、知らない番号だった。普段は知らない番号は出ないようにするが、友人の話を遮るのにちょうどいいだろうと出てみる。聞き覚えのある声だった。


「おー、久しぶり。俺のことわかる。そうそう、この前たまたまあいつに会ってさ、お前の電話番号聞いたんだよ。お前そっち行ってから携帯持ったから聞くタイミング逃しちゃって、しかもクラス会も来なかったしさ。そっちはどうよ。こっちは結構変わったぜ。最近大変だったのよ。うちの隣の公園で人死んでさ。それが最初なんだかわからなくて、うちの店にその死体の人が来なかったかとか防犯カメラあったらだしてくださいとか、色々聞かれてさ。そもそも隣でそんなことになってるってのがもう嫌だもんな。うちの隣の公園、覚えてるだろ。お前は家の近くに公園とかなかったから、わざわざ数十分かけてよく来てたもんな。そうそう、そこさ」

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