Oyasumi
キュッ
しっかり締まったのを確認すると、私は息を吐いた。
これでよし。穏やかな表情の母を見ていたはずの私は、すでに洗面所で自分の顔を見ながら手を洗っていた。いつもは下を向いてそのまま手を洗っているからこんな風に自分の表情を見るのは久しぶりだ。わかってはいたが、随分疲れていて肌荒れや目の下のくまが気になるが、思ったより老けてはいない、むしろこの年齢としては若く見えるかもしれないなどと考えていた。
すっかり日常として染みついてしまったのか、あるいは、あまりにもその日常に疲れているからか、最近、おむつを換えたり体を拭いたりして、そのあと手を洗うまでの一連の流れを、無意識に済ませてしまっていることがたまにある。
洗濯機に放り込もうとしたタオルで、なんとなく一度洗面台を拭く。黒や黄色の汚れがほんの少し取れた。最後にこの洗面台を掃除したのはいつになるだろう。もしかしたら、去年の大掃除以来かもしれない。いや、去年の大掃除は母やケアマネージャーが通るような場所だけはきれいにしただけで済ませたはずだから、もう一年以上掃除していなかったことになる。私はまた、息を吐く。
空腹を感じる。そういえば、午後2時頃に母と一緒に配食サービスのワンプレートの定食を食べてから何も食べていない。そのあと、また口喧嘩したりして気がついたらこんな時間になっていた。私は台所へ向かいやかんのお湯を沸かす。この前スーパーで78円だった時に買い込んだカップ麺がまだあるので、それを遅い夕食とすることにした。洗い物が溜まった台所のシンクの隙間に、自分の顔が写った。さっきと同じように疲れている。母は私の顔を見て「怖いよ」と言うことがあるが、今日の私は、それでもいつもよりは自分では穏やかな表情をしているように感じた。ただ、頬から一本長い毛が出ているのには、洗面台で自分の顔を見た時には気がつかなった。さっきはまだ、少し気分が高ぶっていたのかもしれない。やかんが無邪気に音色を鳴らすと、醤油ラーメンのカップに湯を注ぐ。
こんな生活が、もう3年も経っているのか。私は、また無意識にクローゼットを開けていた。クローゼットの中には、あの時のスーツが、まるで私は何も変わってないよと見え透いた嘘をついているかのように佇んでいた。
初めてこのスーツを着た時のことを覚えている。22歳。初任給で、母に新しい財布を買うのと一緒に、買ったものだ。自分で買い物などしたことないデパートの婦人服売り場で、その売り場では安物だったけれども私には十分高価な黒のスーツだった。それを着て出社した日、同期で研修の時から仲良くしていた女子社員から「なんか先輩みたいね、大人っぽい」と褒められたのが強く思い出に残っている。彼女とも、ここ2年ほど連絡を取っていない。まだあの会社で働いているのだろうか。
私が26歳の時、母が倒れた。脳梗塞だった。会社に電話が来た時頭が真っ白になったのを覚えている。病院にかけつけた時に私の目に入った無数のチューブに繋がれている母の姿は、たとえ、医師が私を安心させるために「命に別状はありません」と二度三度重ねて言ったところで、「自分が何かしたから母がこんなことになったんじゃないか」という、あとから考えれば理由なき後悔と罪悪感は拭い去ることができなかった。母は高齢で私を産んだので、倒れた時にはもう還暦が迫っていた。一命は取り留めたが、体にマヒが残り、寝たきりではないものの生活に介助が必要になってしまった。父と母は、私が物心つく前に離婚したので、母一人娘一人の世帯だった。母も忙しく働いていたせいか、親戚との付き合いと皆無に近く、介護も制度も何もわからないまま、私が退職し、母の年金と、私の失業保険、そして二人の貯金を切り崩しながら母の面倒を見てきた。今考えれば、私自体が仕事に疲れていて、母が倒れたことを辞める理由にしたという面もあったのだろう。
最初は慣れないことばかりだった。料理の経験はあったが、普段は母が作っていたので、最初は二人分の米を炊くことさえお粥のようになってしまったりした。掃除や洗濯、何より洗い物を毎日やるということが、こんなにおっくうなことだとはわかっていなかった。
そんなことを思い出しながら私は気がつくとスーツを羽織っていた。去年ディスカウントストアで買った、動きやすさだけが長所のスウェットごしにあの頃と同じ重みが伝わってくる。就職していたのは小中高校の参考書を主に出版する企業だった。私は教職課程のない大学に通っていたが、アルバイトでやっていた家庭教師に面白さを感じ何らかの形で教育に関わりたいとこの仕事を選んだ。国の教育制度の変更もあって、教育産業は景気がよくわりと簡単に就職できた。仕事は残業も多く先輩の指導も厳しかったが、アンケートハガキに「おかげで100てんが取れました、ありがとうございます」などとおぼつかない鉛筆で書かれているのを見ると、もしかしたらそれは親が決めた言葉を写しただけだったかもしれないけど、この子の健やかな成長を想像し嬉しくなるものだった。実際、最初小学5年生の参考書に感謝の言葉をくれた女の子が、「志望の高校に合格することができました」と、高校の制服を着た写真を添えて感謝の手紙を送ってくれた時は仕事帰りに同僚と乾杯し喜びをわかちあった。あの時のワインの味は一生忘れない。と思っていたが、今全く思い出せなくなっていることに気づいた。
あの頃の私は、人の成長というものを感じそれをモチベーションにしていた。でも、母が倒れてからの私は、その逆、人がそれまで成長して得たものを失っていく姿を見続けていた。いや、一度だけ、成長、というより回復を実感し、喜ぶこともできた。そんなことを考えながら、羽織っていたスーツを脱ぐ。
母は、一度杖をついて歩くことができるまでには回復した。病院のベッドで無数の線に繋がれながら眠っている母の姿が鮮明に残っている私は、まひの強い左半身に少し傾きながら一歩一歩私に視線をやる余裕もないまま、リハビリルームを必死に歩き続ける母の姿に、涙をこぼすこともあった。私が歩けば3秒かからないであろう、リハビリルームの床に引かれたオレンジ色の直線の上を1分ほどかけて歩いてから、黒いパイプ椅子に座り、母は微笑みを見せながら深く息をついた。理学療法士の声でやっと私に気づき、まるで、保育所に迎えに来た親を見る子どものような無邪気ささえ感じるような笑顔を浮かべる母に、「今日はそんなに歩けたんだ。すごいねぇ」と、まるで親子が入れ替わったように語りかけたものだった。「ある年を越えるとどんどん子どもに還る」と、昔テレビのコメンテーターが言っていたことを思い出し、これからは私が母を引っ張っていかなければいけないんだろうなと、そんなことを考えていた。
二ヶ月ほどリハビリをして、母は家に帰ってきた。そこから、私と母の永い日々が始まった。初めは順調だった。体を動かすことさえままならなかった頃の記憶がまだ色濃く残る母は、杖を使えば家の中も歩き回れるということが嬉しかったのだろう。楽しそうに家を歩き回り、数ヶ月ぶりの我が家を見ながら、「これ、前からあったっけ」と聞いたりしてくるのだった。家事は母に教えてもらいながらだったが、それもそれで当時はコミュニケーションになっていたと思う。入浴の介助もする必要があったが、付き添いが主で浴槽に入ったり出たりするときだけ手を貸せばいい程度だった。
私は、もう着ないであろうそのスーツを雑に脱ぎ捨てると、クローゼットのドアも閉めないまま玄関の方へ歩いていった。さすがに居間よりは寒い玄関の、フローリングとコンクリートを隔てるわずか数センチの段差が目に入る。そうだ。この場所で、母は初めて転倒したんだった。
仕事を辞めてから一年ほど経った冬の日だった。私が買い物から帰ってくると、母は両手で必死に杖の先を握って体をなんとか起こそうとしているところだった。私は「ただいま」という間もなく、買い物袋を投げ出すと母の元へ駆け寄り、腋の下から抱えるようにして母を起こした。なんとか歩けるようだったので、体を支えながら数歩先に、母がある居間の入り口の椅子へと歩いてもらった。それから足をマッサージしながら介護タクシーと病院へ連絡し、母を外出用にレンタルしている車いすへ乗せた。母が車いすに乗るのを手伝ったことは何度もあるが、あの時ほど重さを感じたことはなかった。診察の結果、骨に異常はないが足をひねったということで、包帯をしてもらい痛み止めの薬をもらって帰宅することになった。
転ぶと一気に状況は悪くなるから気をつけて、と母が入院していた頃リハビリの理学療法士に言われたがまさにその通りだった。母の怪我は軽かったが、転倒したことで恐怖感が芽ばえたのか、あるいは変な癖がついて痛みを感じるようになったのか、母は転倒前ほど歩かないようになり車いすを家でも使う機会が増えるようになった。車いすでは杖を使う時より時間がかかるためトイレに間に合わないことが増えてきて、紙おむつを使うようになっていった。それとともに口数も減って、横になったりテレビをぼんやりと見ていることが多くなってきた。入浴も「疲れるからいい」と断ることが少しずつ増えていった。私もそれに甘えていた面もあっただろうし、疲れていたのもあるのだろう、少しずつ母と会話する機会も減ってきた。さらに家事も少しずつ手を抜くようになっていった。最初は毎日栄養のバランスを考えながら作っていた食事も、少しずつスーパーやコンビニの惣菜やお弁当を出すことが増えていった。母はそれについて何かいうこともなく食べていたが、それとは別に少しずつむせる回数が増えていっているような気がしていた。本来は母の状況が落ち着いたところで仕事を探そうと思ってもいたが、そんな気持ちもすっかり失せてしまっていた。
私はいつのまにか居間に戻り、ふすま越しにベッドの上の母の姿を見ていた。微動だにすることなく、寝息一つたてず仰向けで穏やかに眠っている。先ほどより顔色が悪くなっているようだが、それも仕方ないだろう。寒くはないだろうか、そうだ、ストーブ用の灯油を持ってこなければならない。私は、そんなことを考えつつ視線は母のベッドのそばの壁にある傷を見ていた。傷は二つついていて、目をこらさないと見えないような小さいものと、もう一つは見た瞬間にわかる大きなものだった。この二つの傷を母と私がつけた日のことは、今でも覚えている。
家族の喧嘩というものは、ちょっとしたことから始まって大きくなっていくものだ。あの日もそうだった。発端は、確か母がごはんをこぼしたのを私が咎めたことだった。今考えればそんなことに声を荒げる必要はなかったのかもしれないが、その日は私も食事作りがうまく行かなかったり、その時期は年金が減った関係で、生活費が減ったことに慣れることができず言いしれない不安と苛立ちを抱えていたことのもあって、つい口調が強くなってしまった。申し訳なさそうに肩をすぼめる母に、さらに畳み掛けるように「いくら体悪いからって、なんとか直そうとかできないの」と言ってしまったのが全てだった。突然、最近すっかり元気がなくなっていた母が、ここ一年あたり見せなかったような大声をあげながら茶碗を壁に投げつけた。茶碗はドン、と鈍い音をたてて、ベッドの上に落ちた。落としても割れないように茶碗を陶器からプラスチックに変えていたが、それでも壁に小さな傷がついてしまった。ベッドの上に転がる茶碗と、壁とベッドの隙間に落ちていく高菜漬けの緑色に薄く染まった白米は、今でも記憶に残っている。きっとこういう記憶が、働いていた時のワインの味をかき消していたのだろう。母は私にその茶碗と白米を拾う暇さえ与えず「いやだよ、いやだよ」と声をあげた。その時、母が見せた怯えるような表情は忘れられなかった。ドラマで、老人ホームで虐待された老人役の役者が見せた表情にそっくりだった。私は目に焼き付いたその表情を振り切るように「なんなのさ」と返すと母は「だって、いつも怖い」と、まるで子どもを厳しくしつける母に娘がやっとのことで初めての反論をしようとする時のように震えた声で私に話しかけていた。私がその姿に絶句していると、母は今まで自分がいかに最近の私を怖がっていて、体が痛いとか、実はものが見えづらくなっているから車いすも使いづらくなっているとかそういう不調も言えなくなっていたこと、転倒した時も本当は急に私がいないことが寂しくなって、ドアの近くで迎えようとしたけれど、そんなこと言ったら「いらないことして」などと怒られるのではないかと黙っていたこと、最近入浴を断ることが多くなってきたのも、私の入浴を介助するときの態度が乱暴だから痛くなるのが辛いからだということ、食事だって口に合わないものもあるけどまた怒るから言わなかったなど、それまで溜め込んでいたであろうことを声を震わせながら延々と語り始めた。私は、その訴えに決して覚えがないわけではなかった。日々の家事や介助で疲れていたし、少しずつ母の体調が悪くなっていることや、少しずつ貯金が減っていることからの不安でイライラしていたのが出ていたのも薄々は気づいていた。私は母の正しさと自らの罪悪感を振り払おうとするかのように、思わず母が茶碗を投げつけたあたりを思いっきり殴っていた。自分でもこんな力があるのかと思うほどはっきりと傷がついていて、母はそれを見て泣きそうになりながら「あんたは子どもの頃から嫌なことがあるとそうやってものにあたる」と小学校の頃、人形を壊した時の思い出などを語り始めた。その瞬間私に昔の嫌なことが一気にぶり返してきて「わかったわかった、ダメな娘でごめんなさい。もっといい娘になりたかった」と言いながら、やっと茶碗と白米を片付けると自室へ入り、そこで泣くこともできず、ずっとぼんやりと壁を見ながら、何か昔の思い出の断片のようなものを浮かべていたことを覚えている。
その日から、色々なことが変わっていった。私と母は表面的には今までどおりの日々が続いてはいたが、私は少しずつ色々なことが信じられなくなっていった。母が「今日はご飯は簡単なものでいいから」と言っても、それは母が私が食事作りに疲れて怒り出すのを嫌がっているからではないかとか、入浴が辛いということで体を拭くために母に触れる時も、何も言っていないが本当は痛いのではないかなど、常に母の態度と自分の行動を疑うようになっていった。そうしている間にも母の体調は悪化していき、いつの間にか杖を使うことは全くなくなり、車いすでの行動も減り、ベッドの上で過ごすことが多くなっていった。トイレに行くのも楽ではないらしく、母の周りから尿の匂いがすることもしばしばあった。私はそのような母の姿に何を言っていいかわからず、ストレスを溜めていった。友人が仕事や結婚で人生を謳歌している姿を見るのが辛くて距離をとってしまったり、ケアマネージャーにはあまり本音で話せなかったのもよくなかったのだろう。ヘルパーを頼むのもできなかった。それで、どちらともなく溜めていたものがはじけて、また喧嘩になってしまう、そんなことが何回かあった。今日もそうだった。それに、あの時より、母の体調も、私の体力も、口座の金額も、ずっと悪くなっていた。体調が悪くなるほど出費は増えていく。最近は家賃を払うのもギリギリで、仮にもう少し安い部屋に引っ越そうにも、車いすでついた傷や私がストレスのあまりに壁に食器を投げつけた傷などで、原状回復にいくらかかるかわかったものでもなく、それもできなかった。
私は、夏に使っていた蚊取り線香とマッチを取り出した。線香の渦巻きを持ったまま火を点けると煙と共にあの香りが漂う。母は蚊が嫌いだというのもあったけれども、それ以上にこの香りが好きだったようで、夏は必ず蚊取り線香をつけていたし、秋の半ば頃までつけてくれと私に頼んだりしていた。この家に染み付いている母の尿の匂いを打ち消すような線香の香りは、とても、この家、この風景に似合っていた。母は、この線香の匂いを嗅いでも起きることはない。本当は、蚊取りじゃない線香を用意したかったけどね。私は線香をテーブルに置くと、さっき持ってきた灯油を母のベッドの周りへ撒き始めた。尿の香りを隠した線香の香りが、今度は灯油の香りに飲み込まれていく。
どこで、間違ったのかな。
私は、手に残る母の首元の感触を思い出しながら、それでも泣くことさえできずに、淡々と灯油を撒いていた。不思議と冷静だった。母の部屋のじゅうたんの全体が湿ったのを見ると、私は母の枕元にある、母が苦しまないよう強引に飲ませた睡眠導入剤をあるだけ手に取り、母が使っていたコップの水で飲み干した。すぐにマッチに火をつけると、私は、母の遺体のそばに寄り添った。
お母さん、ごめんね。
やっと、素直に言えたような気がした。部屋を包む灯油の匂いの中に、線香の火がテーブルを焼く匂いと、右手の方から広がるマッチの熱が混ざっている。私の意識がなくなれば、マッチが手から落ちて、この部屋は炎に包まれる。きっと、大変なことになるんだろうな。でも、いいよね。もう、いいよ。このマンションの人は、悪い人じゃなかったけど、誰も何も助けてくれなかったし。だから、いいよね。もしかしたら、このマンションに、他にも同じような人がいるかもしれないよね。この小説を読んでいるあなたの近くにも、いるかもしれないよね。
ああ、もう眠くなってきた。私の手はキュッと母を締めた感覚に覆われる。でも、これで二人共楽になれるね。あまり、いい人生ではなかったな。本当は、いっぱいしたいことあったし、仕事も、結婚もしたかったよ。お母さんも、きっとそういう私、見たかったよね。でも、仕方ないよね。気がつくとマッチは手から落ちていたようで、じゅうたんに火がついていた。私は、もうそれに反応することもできない。ここ数年感じたことないような穏やかな気持ちで、その赤色と、血の気を完全に失った母を見ていた。ああ、やっと、これで、もう喧嘩しなくていいね。あったかい。
じゃあ、お母さん、おやすみなさい。
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