009

 電脳生命体――。


 その言葉を初めて耳にしたのは、病院に運ばれる三日前のことだった。何気ない友人たちとのおしゃべりの中に、ふと紛れ込んだのだ。


 中間考査の準備期間中で、授業は普段より早く終わっていた。真子は五人の友達と一緒に、放課後の教室に残ってテスト勉強をしていた。

 各自、自分の電子情報端末機を操作しながらノートを取り、わからない問題があれば、検索せずに互いに教え合う――。


 本来ならコンピューターに頼って問題の解説をしてもらうのが常だったが、近ごろはデジタル抑制運動の影響で、アナログな学習方法が推奨されていた。

 だからこそ、わざわざ顔を合わせて勉強会を開いていたのだ。


 やがて集中力も途切れかけた頃、友人の釘宮雫がぽつりと口を開いた。


「ねえ、電脳生命体って知ってる?」


「ああ、最近ちょっと話題になってるオカルトっぽいアレでしょ?」


 別の友人が反応し、自然と雑談モードに切り替わる。


「電脳生命体?」と真子が首を傾げると、待ってましたとばかりに雫が身を乗り出した。


「うちのお父さん、ネットワーク会社で働いてるんだけどね。この前、ネットの中に、自分の意思を持った“生命体”がいるかもしれないって言ってたの」


「意思を持った‥‥生命体? それって、AIとかじゃないの?」


「うーん、似てるけど、ちょっと違うんだって。AIは人間が作るものでしょ? でも電脳生命体は、人の手を借りずに、自然に生まれた存在らしいの」


 みんなが「へえ〜」と興味を示す中、雫の話は続く。


「あるSNSでは、運営側にも誰にも管理されていないアバターがいたり、掲示板の書き込みの半分は電脳生命体の仕業って噂もあるんだって」


 真子が小さく相槌を打つと、他の女子が笑った。


「はは、それただのAIアバターでしょ。今どき普通にいるしょっ!」


「でも、AIアバターって特定のアプリの中だけでしょ? 電脳生命体はネットのどこにでも現れて、どこへでも行けるらしいの。サーバーの挙動がおかしくなったり、通信障害を起こしたり‥‥原因不明のログが残ることもあるらしいよ。父さんはそれを“ファントム”って呼んでた」


 雫の話はどんどん熱を帯びていったが――。


「はいはい、そこまで!」


 学級委員長の女子が声を張り上げる。


「雑談は家でやって! 今は勉強に集中!」


 たしなめられ、みんなはしぶしぶ教科書に視線を戻した。


 ‥‥けれど、真子の頭から「電脳生命体」という言葉は離れなかった。

 皆の目を盗みながら、こっそり端末機で検索してみる。


 いくつかの記事に目を通すと、確かに雫が言っていた通り、情報は噂レベルにとどまっていた。それでも、ある名前が真子の目を引いた。


 ――千代田佳那。


 B言語を生み出した天才プログラマー。

 今や社会インフラを支える端末機やコンピューターに標準搭載されているOS『プロメテウス』も、彼女が作ったB言語の上に成り立っている。


 B言語は、それまで主流だったC言語をはじめ、従来のプログラムやOSの概念そのものを過去のものにしてしまった。

 最大の特徴は、独自に進化するプログラム――。


 歴史を変えた女性、千代田佳那。

 なぜ彼女の名前が、電脳生命体の関連ワードに引っかかるのか?


 さらに調べようとした、そのとき――。


「真子ちゃん! さっきからパソデバばっかり触って!」


 委員長に見つかり、ピシャリと叱られる。


「あ、ごめんごめん。えっと、じゃあこの因数分解のここが分からなくて‥‥」


 真子は家に帰ってからじっくり調べると心に決め、勉強に集中することにした。


 その日の帰り道、雫と一緒に歩きながら、電脳生命体についてもう少し聞いてみた。


 ネットの中で電脳生命体たちは普通に「生活」していて、いつか現実世界にも姿を現すかもしれない――。


 そんな話を聞きながら、真子は胸の奥に小さなざわめきを覚えた。


 家に着くと、真子はすぐに端末機を開き、改めて調査を始めた。


 分かったのは、電脳生命体の存在が囁かれるようになったのは、千代田佳那の死後だということ。

 彼女の魂がネットの中を彷徨い、そこから電脳生命体が生まれた――そんな、眉唾ものの噂ばかりだった。

 だからこそ電脳生命体は“ファントム”と呼ばれているのだと分かった。


 さらに深く調べようとしたその瞬間、端末機のモニターが、突如として激しく明滅した。


 眩い光。


 光過敏性発作を起こした真子は、激しい頭痛と吐き気に襲われ、全身が痙攣を起こした。

 そして、そのまま意識を失った――。

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