シーン3 舞台裏にて
役者全員がカーテンコールに答えて幕が下りると、舞台袖から部長が舞台監督としての指示を発した。
「撤収!」
「はい!」
上袖・舞台・下袖に至るまで、その場にいる演劇部員が一斉に返事をする。
その声がプロセニアム中に響き渡ると、客席からは席を立つ観客の声がざわざわと聞こえ始めた。
閉会式までの休憩時間に入ったのである。
まるでそれを合図にしたかのように、キャストは静かに袖へと去った。
ほとんど無人となった客席の前で、再び幕が上がる。
部長がステージ上がり
その張り出しを下りた部長に、黒い長袖シャツを着たスタッフ数名が倣う。
さらにその中の何名かがすぐに、4つの張り出しをステージの上下両側にある体育館出入り口から運び出した。
残ったスタッフは、舞台装置の搬出にかかる。
ステージの舞台袖は狭いので、装置はそのあとに客席側から運び出すしかない。
客席に出た部長は、手前のものから1つずつ、搬出を指示した。
舞台上のスタッフが、客席のスタッフに装置を渡していく。
「渡しました!」
「受け取りました!」
お互いに声をかけあって、机や椅子、平台と呼ばれる半間(約90㎝)×1間(約1.8m)の木製の箱を次々に除けていく。
上級生から下級生へと代々引き継がれてきたプロセスなので、その流れには一瞬の淀みもない。
やがて、養生テープで固定されたニードルパンチと呼ばれるフェルト状の布が舞台から剥がされ、器用に丸められて、ステージだけは塗料でテカテカの日常に戻った。
このステージで閉会式が終わった後、照明の撤収が行われる。
椅子がすべて撤去された後のほうが、照明機材をバトンからバラすのに都合がいいからである。
体育館での撤収作業の間に、キャストたちは楽屋となっている生物実験室で、メーキャップ落としにかかっていた。
ある者は、男女構わず衣装を取って、白いシャツ一枚になっている。
ある者は、首の周りにお地蔵さんのようなよだれかけ状の布をかけている。
どちらも、衣装を汚さないようにするための配慮である。
長机にいくつも置かれ鏡の前に座り込んでクレンジングクリームを顔に塗りたくり、ひたすらティッシュペーパーで拭き取るのである。
あらかじめクレンジングクリームを塗ったうえで置いている色なので結構、簡単に取れる。
ただし、量は多い。
きれいに拭き取るにはその分、ティッシュペーパーがいる。
たいてい、1人につき1箱は使ってしまうのだった。
その面倒な作業の間、キャストたちは一言もしゃべらない。
というか、しゃべる余裕などない。
顔に塗ったドーランというのは不快なものである。
上演が終わった後などは、汗で溶けて流れそうになっている。
そんなものは、用が済んだら早く拭き取ってしまいたくなるものである。
冬彦も、例外ではなかった。
べっとりとクレンジングクリームがついた顔から、丸めたティッシュで黙々とドーランを拭き取っていく。
その隣に、早々と制服に着替えた一人の女生徒が座った。
長い黒髪が、白いブラウスの背中に流れている。
葛城亜矢であった。
「お疲れさま」
手を動かし続ける冬彦は、鏡をじっと見つめている。
その横顔を亜矢がじっと見つめているのには、気づくはずもない。
鏡に映っているのは、クリームで真っ白の顔ばかりである。
「ありがとうございます」
冬彦の返答は不愛想だったが、それは無理もないことだった。
亜矢も視線をそらして、机に頬杖をつく。
ちらりと横目で冬彦を見て、皮肉っぽく言った。
「大喝采だったわね」
答えは返ってこなかった。
亜矢は不満げに繰り返す。
「大喝采だったわね……褒めてるんだけど」
冬彦は箱からティッシュを抜き取り、ゴテゴテのクリームをいったん全部拭き取ってから言った。
「ちょっと放っといてくださいませんか?」
「失礼じゃない?」
整った顔立ちに似合わぬ不機嫌な声でたしなめる亜矢に、部長が横槍を入れた。
「そういう葛城はちゃんとメーキャップしたのか?」
亜矢は立ち上がるなり、全員に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい! どうしても本番に間に合いそうになくって!」
楽屋になっている生物実験室中から、「いいえ~!」という許しの声が上がる。
キャスト全員、カニを食う人々くらい無口になっているはずなのだが、喋るか喋らないかは本人の自由である。
しかも、この時点で口を利かないと悪者になる恐れがあった。
そんなわけで、悪者が2人。
本番での怠慢を指摘した部長は、立場上、やむを得ない。
もう1人は、メーキャップを取るのに必死になっていた冬彦である。
それでもさすがに返事せざるを得ないと思ったであろう。
ティッシュをつまんだ指をせわしなく左右に動かしながら、亜矢をせきたてた。
「済みません、手短に」
不器用に眉やら頬やらをごしごしやる冬彦の声は上ずっていた。
再びふわりと腰かけた亜矢は、微かに囁いた。
「調子に乗ってるんじゃないかと思って」
「そんなことないです」
鏡を見つめながらの物言いは、いかに謙遜とはいっても切り口上に聞こえる。
それでも、亜矢は真意を酌んだのか、寛大に応じた。
「まあ、無事に済んでよかったかな」
「何が起こったのか、さっぱり」
メーキャップ取りに余念がない冬彦の答え方は、どうしても素っ気ないものになる。
亜矢はその雰囲気を少しでも和らげようとするかのように、おどけて言った。
「あんなこと、もう御免」
ようやくメーキャップの拭き取りが終わった冬彦は、タオルを首にかけて、いそいそと流し台へ向かう。
蛇口から掌に受けた水で顔をばしゃばしゃやりながら口を挟んだ。
「僕はもう1回ぐらいだったら」
顔を洗いながらなので表情はよく分からないが、その声には余裕があった。
それは、舞台を一度経験したことによるものであろうか。
だが、亜矢はむっとしたような声で再びたしなめた。
「アドリブは、自慢にならないの」
水が前髪からぼたぼた垂れる顔をタオルで拭きながら、冬彦は慌ててもがもがと答えた。
「あれ、違います!」
「おい、誰に話してるんだ」
フレンチランニング一枚で、生物準備室の大机に突っ伏していた冬彦は、頭の上から降ってきた男の声にハッと身体を起こした。
「葛城先輩?」
きょろきょろする冬彦の頭をコツンと叩いたのは、部長だった。
「お前、ずっと居眠りしてたんだよ」
そういい捨てるなり、部長は楽屋全体で次の指示を待っている部員たちを見渡して言った。
「閉会式の後、照明撤収!」
閉会式の後は大掃除の時間なのだが、演劇部員は教室等の原状復帰から免除されるという特権が暗黙の了解となっている。
だが、冬彦は部長の指示が終わるか終わらないうちに、楽屋から駆け出していた。
「おい、どこ行くんだ冬彦!」
部長の声を背に、生物実験室の引き戸を開け放つ。
無人の廊下が、まっすぐに続いていた。
その脇に、午後の光を斜め上から受けた階段が現れた瞬間、冬彦の背後を誰かが通り過ぎた。
「じゃ、打ち上げで」
ラベンダーの香りが漂う中で振り向くと、まっしぐらに部長が追ってくるところだった。
とっさに手を後ろで組んで直立不動の姿勢になった冬彦に、部長はつかつかと詰め寄った。
「おい、閉会式は制服、その後は体操服!」
「はい!」
廊下の端にある、楽屋兼生物実験室まで聞こえそうな返事であった。
そこまでして、冬彦が背中に隠したものがある。
手の中には、1枚のメッセージカードがあった。
その指先からは、可愛らしい手描きの仔犬の顔が覗いている。
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