Middle Phase 4 ~羚羊鬼~

 羚羊鬼デルゲットは、彼が記憶しているだけでも暴力と無縁ではいられない人生を歩んできた。未熟児で早産だったのも、当時の父親が母親の腹を殴ったせいだったし、母親は事あるごとに彼を殴りつけた。

 母親は彼に料理を作るよりも、新しい男を作る方に夢中で、その男どもも家に転がり込んできては「目つきが気に入らない」「息が臭い」などと適当な理由を作っては彼を殴りつけてきた。

 青あざや生傷の絶えない姿だったのが目を引いたのか、二度三度と児童相談所の職員とやらがやってきたが、母親と当時の父親――数カ月後には離婚した――が、彼が勝手に転んだだけだと説明すると納得して帰っていった。その後、勝手に児童相談所を呼んだなどと言いがかりをつけられ、彼は前歯が歪むほど殴られた。

 彼にとって残念なことに、彼の通っていた小学校は事なかれ主義者ばかりで、どんなに顔を腫らして登校しても、それこそ腫れ物に触るかのように、決して手を出そうとはしなかった。

 正しいコミュニケーション方法を家庭で学べなかった彼が学校という集団生活になじめるわけもなく、問題児扱いされるのに時間を要することもなかった。彼にとって他人に言い聞かせるとは殴りつけると同じことであり、殴られ慣れていない同級生を殴って、痛みと恐怖で支配することは容易かった。

 幸か不幸か、彼には暴力のセンスがあった。幼い頃から殴られ続けたせいで痛みに強く、同時にどの部位を殴れば痛みが長引くのかを理解していた。ちょっと気に食わない同級生がいたら、そいつが登校拒否になるまで殴り続けた。完全な傷害事件だったが、事なかれ主義者の教師たちは被害者側に全てを押し付けて、問題を隠蔽した。

 皮肉にも学校に守られた彼は、義務教育が終わる頃には地元の不良少年たちに一目置かれる存在になっていた。

 インシナレイターに出会ったのは、その3年ほど後である。

 その日はいつものように、不良仲間と溜まり場にしていた郊外のラブホテルの廃墟で騒いでいた。酒やクスリをかっ喰らいながら、繁華街で車に押し込んで拉致った若い女性を殴打しながら強姦しているところだった。どんな女も前歯が折れるまで殴れば、すんなり股を開いたし、ヤッている最中を携帯電話やスマートフォンで録画してやれば警察に駆け込むどころか、勝手に線路に飛び込んでくれる。

 憐れな被害者の体内に、何度目かの欲望を撃ち放った時、その男は現れた。

「お楽しみ中のところ申し訳ないが、最近、この付近で勢いのあるチームというのは君たちかね?」

 左手にスポーツバックを提げ、仕立ての良いグレーのスーツを着た、白髪交じりの髪をオールバックに整えた壮年の男。鉄板めいた固い表情筋に動きはなく、声音すらも平坦だ。

 仲間の一人が眉根を寄せ、威嚇するように立ち上がった。

「ンだよ、てめぇ……!」

「俺の名は焼却炉インシナレイター。とある組織の者だ――と言っても警察じゃあない。どちらかと言えばマフィアに近いだろうな」

「スカしてんじゃねえぞゴラ! アァ?」

 もう一人、不良仲間が立ち上がり、クスリと酒で酩酊した視線をインシナレイターと名乗る男に向ける。インシナレイターは、さして気にした様子もなく後から立ち上がった少年に歩み寄り、自然な動作のまま右手で少年の口元と鼻を押さえて塞いだ。

「口の利き方に気をつけろ。人間」

 氷点下を思わせる声音がインシナレイターの唇から吐き出される。

 その瞬間、右手で顔下半分を押さえつけられた不良仲間が身体を大きく仰け反らせて失禁した。インシナレイターが手を離すと、不良少年は呆けた顔のまま、膝から崩れ落ちた。その大きく開いた口は黒い煤と異臭を放ち、焼け焦げた唇がボタリと床に落ちる。

「ひぃぃぃぃぃっ!」

 まるで焼却炉インシナレイターの煙突のように、煙を吐き続ける死体を目にして、いち早く悲鳴をあげたのは粗末なマットの上で犯され続けていた女性だった。この生き地獄から助けだしてくれる救いの手に見えていたのかもしれない。それが、さらなる地獄を作り出す怪物だと理解して、彼女は折れた歯が舌に刺さるのも躊躇わず悲鳴をあげていた。

「うるせえ!」

 だが、その悲鳴を出迎えたのは彼女を犯し続ける男の拳だった。彼の左手は首を押さえつけ、右拳をハンマーのように振り下ろす。

「うるせえ! うるせえ! うるせえ! うるせえ!」

 癇癪を起こした子どもが玩具の人形を床に叩きつけるがごとく、女性の頭部めがけて拳を振るう。拳が当たる度、女性の体が衝撃に跳ねる。ビクン、と痛みに対する硬直が締め付けを生み、ますます彼を奮い立たせる。

 そうして何発目か、右拳が血と骨と眼球の破片でぐちゃぐちゃに汚れきった頃、彼は乱杭歯からガスが漏れるような笑い声をあげた。

「ヒヒヒ……なぁ、おっさん……オレたち、今、めっちゃ楽しんでんだよ……邪魔すんなら帰ってくれよ……ヒヒヒ……」

 死体を犯しながら嗤う少年を目にして、ごくり、と不良仲間の誰かがツバを飲み込む音が聞こえた。だが、インシナレイターは鉄面皮を崩しもせず、左手に提げていたスポーツバックを床に下ろす。

「邪魔はしない。ただ、我々の取り扱うクスリを君たちに売って欲しいだけだ」

 バッグの中には、いくつもの錠剤の瓶がひしめくように詰め込まれていた。不良仲間が興奮した面持ちで小瓶を取る。

「す、すげえ! エクスタシーがこんなに――」

「価格は君たちの自由でいい。君たちが使っても構わない。売上の4割を、こちらに上納してくれれば、それでいい……エクスタシーで物足りなければ特別なものも用意しよう。だが、このことを警察などに話した場合は君たちにも、そこの彼と同じようになってもらう」

 奇妙な焼死体を目で指し示すインシナレイターに、不良仲間たちは誰もがどよめいていた。禁止薬物と酒で呆けた頭でも、現状の異常性に気づいているのだろう。だが彼だけは違った。両眼を輝かせて、組み敷いていた死体から離れると、食いつくようにインシナレイターに近寄る。

「ヒヒヒ……おっさんよぉ……話は分かったよ。けどよぉ……オレはもうエクスタシー程度じゃ飛べねえんだよ。女犯してもよぉ……ぶん殴ってもよぉ……全然気持ち良くねえ。物足りねえんだよ……なぁ? アンタ、さっき言ってたよな。エクスタシーよりもスゲえのがあるってよ!」

「ああ。あるとも。試してみるかね?」

 インシナレイターはスーツのポケットから赤いカプセル錠を取り出した。

「こいつは強力でね。効きすぎてショック死する可能性が――」

 説明するインシナレイターの手から、彼はクスリを奪い取り、一気に飲み下した。



 これが、深原優作という少年が死に、羚羊鬼デルゲットのコードネームを持つ怪物オーヴァードが生まれるまでの顛末だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る