閑話休題3.あなたを支える

「そっか、ついに……おかあさん、って呼べたんだ」

「はい」

 奈月の口からその知らせを聞いた時、桜井はまるで自分のことのように嬉しくて、どうしようもなく心が躍るのを感じていた。

「おめでとう、藤野」

 自然にこぼれた笑みと共に祝福の言葉を告げれば、「ありがとうございます」という少し照れたような言葉と、はにかむような可愛らしい笑みが返ってくる。その表情は出会った頃よりずっと魅力的で、やはり彼女にぴったりだと思った。


 それから、ひと月ほどが経って――……。

 十二月ごろになると、次の年に行われるセンター試験や入試などに向けた受験生たちの追い込みがとうとう本格化する。それは街外れの塾に通う生徒たちも例外ではなく……。

 塾での仕事に、非常勤講師として勤めている高校での仕事。そんなたくさんのことが次々と重なって、桜井の周りは少しずつ慌ただしくなってきていた。

 例年通りのこととはいえ、やはりこの疲労には慣れない。まぁ、慣れたいとも思わないけれど。

 でも、今年は……。

 今はただ、できるだけ働いていたい、と桜井は思った。働いていれば、その分余計なことを考えなくていいから。混沌した自分の気持ちと、しっかり向き合うほどの暇がないから。

 ――いや、余裕がない、といった方が本当は正しいのかもしれない。それはもちろん時間的な意味でもだけれど、やっぱり気持ち的な意味でというのが一番大きい。

 いくら、逃げの一手だと誰かにあざ笑われたとしても……そうすることしか、今の自分にはできない気がした。


    ◆◆◆


「はぁ、疲れたなぁ……」

 一人暮らしのアパートに戻ると、リビングの大きなソファーへそのまま身を沈める。

 本当は、この街に実家がちゃんとあるのだ。そこには母親も姉夫婦もいるから、頼ればいつでも世話をしてもらえるし、むしろ勤務先へ行くにはそっちからの方が近い。

 けれど桜井には、あの家に戻ることのできない事情があった。言わずもがな、父親との確執だ。

 自分にも他人にも厳しく、おまけに不器用のかたまりだった父親に、桜井は小さい頃からずっと反発してきた。彼が突然の事故で亡くなってからも、ずっと素直になることができず……その愛情から、長い間ずっと目を背け続けていた。

 凝り固まったその心をほぐし、彼をもう一度『父さん』と呼ぶためのきっかけをくれたのは、彼の友人だった人で、今や桜井の直属の上司である塾長の青柳。彼が父親から預かっていたビデオを渡してくれなければ、桜井は一生父親の想いを知ることはなかっただろう。

 そして……迷っていた桜井の傍にそっと寄り添い、励まし支えてくれたのは、同じ悩みと迷いを抱えているはずだった教え子の少女。

 震える手を握ってくれた少女――奈月の、小さいけれど温かな、柔らかい手の感触を思い出す。あの時つないだ手はいつもよりずっとしっかりしていて、桜井の心をホッとさせてくれた。

 彼女がいてくれなければ、もう一度父親と向き合おうとなんて思わなかったかもしれない。ずっと、彼の面影から目を逸らし続けたまま、これからも生き続けていたかもしれない。

 そんな彼女に、心から感謝しているのは本当だ。

 けれど、それ以上に……。

 そこまで考えて、桜井はハッと我に返った。俺は馬鹿じゃないのか、と自分に対する戒めを口にしながら、勢いよく首を横に振る。

 空き時間を一人で過ごすと、あれこれ考えてしまうからいけない。だからこそ自分は、一人っきりの暇な時間があまり好きではないのかもしれないと思う。

 ソファーに座った状態から、ゆっくりと身体を横に傾け、うつぶせの状態で身体ごと沈み込む。

 近頃の自分は、少しおかしいのだ。……いや、実はおかしいのは結構前からなのかもしれないけれど。

 他とは違う事情を抱えているとはいえ、藤野奈月は桜井にとって、教え子の一人に変わりない。いくら似通った事情を抱え、その感情がシンクロしていたとしても……その根本だけは、絶対に揺るぎようがないのに。

 彼女が大学に合格し、高校を卒業してしまえば、この関係は消えてなくなってしまうのに。

 それなのに……それを差し引いたとしても、どうして自分は奈月のことをこんなにも特別だと感じてしまっているのだろう。

 どうしてあの時……母親の件について報告してきた時、奈月が見せたはにかむような笑顔に、あんなにも胸を高鳴らせてしまったのだろう。

 どうして、徐々に近づいてくる別れの時が、こんなにも惜しいと思うのだろう。

 どうして、これからこうして会えなくなると考えるだけで、こんなにも胸がきつく締め付けられるのだろう。

 どうして――あの時支えてくれた彼女のことを、今度は自分が支えたい、だなんて考えてしまっているのだろう。

 あー、とかうー、とか言葉にならない唸りを上げながら、桜井はとっさに近くにあったクッションを掴み、フカフカとしたそれに顔をうずめる。

「何なんだよ、俺は……」

 くぐもったその呟きが、彼以外の誰かに届くことはもちろんない。

 悲痛さを帯びた自分の声に、桜井はただ一人、馬鹿じゃないのかと自嘲した。

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